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第13話 その視線の先にいるのは

午後の熱気が猛威をふるい続ける裏庭。 素焼き鉢が日光を反射し、茎を支柱に結ぶ麻紐が風に小さく擦れる。 ルカはバイトを上がると、まかないのオリジナルサンドウィッチ——ランチの残りのグリルチキンにマスタードソースをたっぷり——と、冷蔵庫の野菜を手当たり次第に皿に持ったサラダを大急ぎでガーデンテーブルに置いた。ミネラルウォーターのボトルと、グラスを2つ忘れずに。 そして、大汗をかきながら持ってきたベースとポータブルアンプを取り出すと、おもむろに短いリフをいくつか奏でる。 レインは3時頃に来るだろうと踏んでの、軽い実験だった。 だが、裏の木戸が軋む音は思ったより早かった。 足音がひとつ、通路を抜ける。扉の外で一拍、音に耳を澄ませた気配を感じる。次の瞬間には、庭の光の中に現れていた。 「レイン!早かったんだね」ルカが慌てて手を止める。 「仕事が一段落ついたから」レインは短く言い、ベースを下ろしかけたルカを手で制した。 「続けて。今どれくらいだ」 「まだ5分も弾いてない。さっき上がったばかりで」 「ならあと10分だな。15分前後が適切らしい。それ以上はトマトが疲弊する。葉先がチリついたらやり過ぎだ」 「わ、わかった。でも……ちょっと恥ずかしいな」 「なにが?」レインは眉だけで笑った。「大きいステージにも立つんだろ」 「バンドだから平気なんだ。ベーシストなんて誰も見てないし。でもマンツーマンは、ね。……それで、アンプの向きはこれでいい?」 「効率を考えるなら、地面に接地させる」 「なるほど。空気より鉢や土に振動を伝えるんだね」 「物分りがいい」 ニヤリと笑ってみせたレインに、ルカは不満の声を漏らした。 「もしかして僕のこと馬鹿だと思ってる?」 「思ってない」 レインは至極真面目に答えたが、ルカは口を尖らせて頬を膨らませたままだ。 「医者で大学の先生に比べたら、僕なんてさ」 レインは距離を詰め、ルカの顎から頬を包むように持ち上げた。 不意を突かれたルカが、んぐ、と喉を鳴らす。 「思ってない」 低く、短く。目は逸らさなかった。 それでも、何か言い募ろうとする唇に、レインは親指をそっと置いた。 輪郭の温度をなぞると、ルカが息を呑み、言葉を落とした。 ごく軽い圧のつもりが、ピンクに濡れた柔らかさにしばし時を忘れそうになる。 「この唇から出る声で。俺は眠れる」 レインは指を離し、努めて淡々と告げた。 「卑下に聞こえたなら謝る」 ルカが小さく笑った。 「昨日も言ってた。僕の歌が好きだって」 「そうだ」 「眠くなるから好きってこと?」 「……そうだ」 風に揺れる葉音が一拍の時間を知らせる。 自分でも苦笑したくなるような正直さだった。反駁は湧いたが、誤魔化しでしかない。レインはガーデンチェアに腰を下ろした。 「少し、座ろうか」 ルカはテーブルに置いておいたグラスにミネラルウォーターを注ぎ、レインの前へそっと置く。 「……褒め言葉だと思っていいのかな」 「覚えておいて欲しい。音楽や芸術は、人を救うという点で医療に勝つことが往々にしてある」 「医者としての本音?」 「ああ」 「どうして眠れる歌がいいの?」 ルカの素直な問を受け、レインは浅く息を吸う。 「俺が戦争へ行った話はしただろう」 「なんとなく、だけど」 「それでいい。あの頃は、仕事だと割り切っていた。そうでなければ、研修の後も、軍医将校として前線へは行かない。……だが、違った。何もかも」 ルカは身じろぎもせず、目だけで「続けて」と伝える。 「いつか話す。もう少し俺が人間に戻れたら。君になら、全部」 拒絶ではない。約束の言い方だった。 「今はひとつだけ」 ルカは黙って頷き、視線を外さない。 「……何年も、まともに眠れていなかった」 言葉は、喉の奥で震えた。 「強い薬で、一本の線みたいに記憶が途切れる夜があればまだいい。大半は、横たわって、体が悲鳴を上げるのを待つだけだ。俺は……壊れていた」 「そんなに——」 「死んだほうがマシだと思わない夜は、なかったんだ。……君の声に出会うまで」 ルカの瞳が揺れる。レインはそれを捉え、目を逸らさず、続ける。 「君の声に、俺のどこかが共鳴する。頭の中が歌で満たされると、神経が……心が柔らかくなる。気づけば朝だ。空前絶後の眠りだ。あの夜から、すべてが変わった」 短く息を吐き、言い切る。 「だから、君を尊敬している。馬鹿だなんて思うはずがない。君のほうが、医者の俺より救いに相応しい」 椅子が軋む音。 ルカは立ち上がり、ためらいがちに腕を伸ばすと、レインの頭を両腕でそっと抱え込んだ。 硬いのに温かい腹筋に、レインの横顔が触れる。布越しの体温。潮と土と、石鹸の匂い。 「……レイン」 名前を呼ぶ声が、低く震えていた。 レインは目を閉じ、腕に重さをゆだねる。 どの薬でも届かなかった場所に、静かな安堵が降りてきた。 数秒か、数十秒か。 抱擁がほどけると、ルカは何も言わずベースに手を伸ばした。 アンプの角度を少し直し、鉢に向けて指先を置く。 「15分、ね」 「ああ」 レインは水を一口飲み、喉を通る冷たさに小さく目を細めた。 ルカの低音が再び裏庭に満ちる。土が静かに共鳴し、レインの胸も同じ速度で鳴り始めた。 「これでよし」 ルカの声に、レインは意識を水面に戻した。眠ってはいない。目は開けていた。ただ、胸腔の内側で低音が規則正しく波打つのに身を委ねていただけだ。心臓を内側から押してくる感覚——これならトマトの成長も確かに促される。そんな連想をしながら、居住まいを正す。 「そもそも、なぜトマトなんだ」 ベースをケースに戻すルカに声を投げる。 「初心者向けって聞いたから。本当はもっと育てたい。パッションフルーツとかさ、実家にはたくさんなってたから。——はい、今日の収穫」 掌に転がったミニトマト3つ。レインはその場でひとつを噛み、テーブルの上に置かれたサンドウィッチとサラダを指差す。 「で、これ食っていいか」 「もちろん!ちゃんと2人分用意したんだ」 「にしては多いな」 「いつもテイクアウトでしょ。足りないかもって。だって、その体なら、僕の倍は食べるかと」 向かい合って腰を下ろす。シャツの袖口から除くレインの前腕、浮く太い静脈。サンドウィッチを口に運ぶたび、筋束がかすかに動く。見惚れそうなって、ルカは慌てて皿に視線を落とした。 「そんなに食わねぇよ」 「ここでのランチ以外は?」 「基本、食わない。朝はコーヒーか紅茶だけ。夜は酒とつまみ程度」 「家でお腹が空いたら?」 「パンにピクルス」 「……だけ?」 「そうだ」 「オランダの人ってみんなそうなの?」 「どういう意味だよ。ミューズリーの場合もある」 「それ朝食」——ルカは指のマスタードソースを舐めて笑う。 「いいんだよ。もともと食欲がない。……なかった。君といると、妙に腹が減る」 「僕のサンドウィッチが美味しいからでしょ」 「ああ、ヒューゴに引けを取らない」レインはふと周囲を見回す。「そういえば、あいつは?」 「ジム。先月から、毎日通ってる」 「……例の『初恋』か」 ルカが目を上げ、楽しそうに頷く。 「知ってるんだ」 「報告は受けてる。ヒューゴと涼子が騒いでた」 「すごく綺麗な日本人だって。どんな人なんだろ。あの淡白そうなヒューゴが毎日ジムに通うほど夢中って。10年以上ずっと片思いでさ」 喉の奥で、レインは低く相槌を打つ。波立たせない程度の音量で。 ——なぜ、そこまで気にする? ヒューゴは高校時、一度日本に帰国し、地元の私立高で雷に打たれたような恋をした。見ているだけで終わり、エスカレーター式の大学で再来日したときにはもう姿はなく。大人になって、この街に店を出し、3年、4年と穏やかに過ぎ——先月、その初恋の君が、ヒューゴの店に現れた。 奇跡と呼んでいい出来事だ。 「レインはその人に会ったことある?」 「いや」直接はない。ただ、ヒューゴに見せられた古い録画は覚えている。陸上の棒高跳びの選手だ。アーモンド型の優しげな目に、真っ直ぐな強い意思が透き通るように宿っていたのが印象的だった。 「気になる?」 レインの問いかけにルカはみを乗り出す。 「そりゃね!どんな美人から連絡先をもらってもすぐに捨てちゃうヒューゴだよ?それがなりふりかまわないって感じで。週末もさ、その人が来るからって、ずっと店にいる」 レインの喉が微かに鳴る。 ——(なるほど。お前が気にしてるのか) 「ま、どうでもいい」 自分でも驚くほどに軽薄に響いた。小さく咳払いをして、水で喉をならす。 「確かに。他人の恋愛に関わっても、ろくなことにならないよね」 「そうだ」 「でもさ、一途な恋、忘れられない恋。憧れるな」 ため息混じりにそう呟いた24歳のルカには、まだそこまで燃えた経験がなかった。 「レインにはそういうのあるの?」 傍らのナプキンで口を丁寧に拭い、問いを鼻で笑った。 「Love affairs are not my battlefield. 恋の戦場は俺向きじゃない。ただ、毎日眠れるようになれば、仕事は捗る。今みたいに食事を楽しむ余裕も戻る。そうすれば、いつかは……」 「いつかは、か」 ルカが繰り返す。視線は微妙に逸れて、レインはそのわずかな目線のズレに気づく。 ——(ヒューゴ、か) 葉が触れ合う音だけが、会話の縁を縫うように纏わりつく。 レインはフォークを置いた。声音は平静、内側は荒れている。 「仕事に戻る」 ルカは一瞬、何か言いかけて飲み込む。 「……うん。じゃ、また明日も、ここで」 「時間は同じで」 「うん」 短い確認の応酬だけが、残った温度を持ち上げる。 それでも、レインの胸の内側では別の鼓動が始まっている。 ——(くだらない) そう切り捨てようとしても、“ヒューゴ”を語るルカの目が、網膜に居座った。

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