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第12話 浮上

午後2時45分。 レインは学部長に宛てた採択結果報告を打ち込んでいた。 採択された課題についての費用、義務、そして大まかな計画を簡潔に共有する文書だが、特に費用については注意深くかつ具体的に記載する必要があった。 これは学部長からの要望というよりかは大学の経営状態によるもので、少子化による学生数の減少が、研究費用にダイレクトに影響しているのだ。 大半の研究者は、授業などそっちのけで研究に没頭したいものだが、その資金を調達するためには質の良い授業をし、国家試験の合格率を上げ、入学希望者を増やさなければならないというジレンマがある。いくら有名な雑誌に論文が載ったところで、その大学名は受験生にも企業の採用担当にも届かない。研究職なら別だろうが、一般企業でサラリーマンになる医学部出身者は意外と多いのだ。 続いて、共同研究先への試薬在庫の共有。 これは離れたラボ同士で、使える試薬・残量・ロットを把握するための連絡だ。欠品により実験計画を止めないための情報同期ではあるものの、二重購入を潰すという重要な役割もあった。こちらも同様に、予算に関係している。 最後に、院生から上がってきたデータの赤入れ。 研究代表者であるレインは、ラボ主宰、予算の名義人、成果と不正の責任を背負うが、レインはそういった砦としての役割よりも、データの整合性を徹底的にチェックすることに重点を置いていた。ここで抜かりがあると、論文に多大な支障をきたす。少々口やかましいと思われようがかまわなかった。論文にしてから他の研究者に追求された場合、修正と再チェックにまた数カ月費やす羽目になるからだ。 すべてのメールを送信し終え、あとはルーティーンとしての後片付けを済ませる。 顕微鏡から外したスライドはリンスに浸け、培養室の温度ログを写真に押さえる。フードを拭き上げ、廃液のラベルを新しい日付に換える。 「今日はここまで」 自分に言い聞かせるように呟き、研究室のブラインドを閉める。 廊下を足早に歩きながら、胸の奥がわずかに鳴っていた。 ルカとの約束。 これまでのように物陰から盗み聴くのではない。正面から、同じ地面に立つ。 バイクのキーを握る指先が落ち着かない。大した意味はない。ただの園芸と雑談だ。そう理屈を積み上げても、期待という名の雑音が消えない。 ——まったく、年甲斐もない。 愛車を飛ばしヒューゴの店に着いたのが午後3時半。店の駐車スペースに停められている藍色のSAABを避けてバイクを押し込む。 この車はわざわざスウェーデンから持ってきたヒューゴの愛車で、レインにも馴染みがある。一度ならず、大学の休暇中に予定を合わせて、長距離のドライブをしたことがあった。最後は、レインが戦場へ行く前の夏だ。ストックホルムからフェリーに乗り、フィンランド経由でドイツへ入り、目的を定めずにヨーロッパを巡った。 あの頃に戻れたら———— レインは次に来る感情の波に立ち向かうべく立ち止まった。 しかし——いつもなら過去を思うとすぐに襲ってくるはずの後悔が、今日は襲ってこないのだ。 選択を誤った過去の自分を苛むような自責の念の代わりに、訪れたのはむしろ、その逆だった。 自分は——あの頃に戻っても、また、戦場へ行くような気もする。 そして何かを背負って戻ってくる。今のように。 ——ルカの歌に出会うために。 裏庭への細い通路は、夏の湿度をしっとりと含んでいる。一歩踏み出すごとに、土の匂いと青い葉の匂いが同時に立ちのぼった。 「レイン!」 ルカが手を振る。Tシャツの背中に汗の地図がうっすら浮かんでいた。 足元には素焼きの鉢、支柱にからむトマト。葉の縁がところどころ褐色に縮れている。 「質問、いっぱいある」 ルカは指を折って、矢継ぎ早に口にした。 「肥料って要る?摘心はいつやる?脇芽はぜんぶ取っちゃっていい?この日照だと、遮光ネット必要かな。土のpH、測った方がいい?」 用語がわからないのかほとんど英語のままだったが、そんなことはどうでもよかった。生き生きと目を輝かせて、レインに飛びかかってきそうなほどの熱の入れようだ。 「待て待て。まず、見せて」 膝をつき、葉をそっと裏返す。 「……葉脈は生きてる。先端のチリつきと葉裏の斑点、カルシウム欠乏が混ざってるかもしれない。尻腐れが出始めた実は外して、石灰を少量。肥料は2週おきでいいが、今は窒素を強めるな。蔓ばかり伸びて花が逃げる」 そして茎に触れて弾力を確かめ、続けた。 「脇芽は全部は取らない。主茎がへたる。日照は十分だが、西日が強い日は午後だけ軽い遮光を。水は朝。夕方は根を冷やしすぎる。pHは……」 土を指でつまみ、軽く練る。 「悪くない。酸性に寄りがちなら、月1で調整すればいい」 ルカは真剣に頷きながら、悪戯っぽく肩をすくめた。 「スプレー無しで……まだ肥料あげていないんだ」 「“Non Spray”は農薬を撒かないという意味であって、肥料は別物」 「なんだ、そうだったの」 「ではここまで、肥料無しで?それにしてはよく育っている」 途端にルカがはにかみ、言い淀む。 「実は……歌を聞かせてるんだ。作物の成長に効果があると誰かに聞いたのかテレビで見たかは忘れたけど……。生物の先生の前で、こんなこと言うの恥ずかしいな……僕の歌なんかじゃ、意味ないだろうけど」 レインは微笑み、立ち上がる。 そういうわけだったのかと、密かに納得しながら。 「歌の効き目について、確かに文献上は賛否ある」ついでにと、レインは頭の引き出しを開けた。 「70年代に室内植物に音を聞かせた実験があった。クラシックで伸び、ロックで萎れる、なんて有名な本もあったが、方法論が甘いと批判された。最近は機械刺激としての音——空気振動——がカルシウムチャネルを開いて、TCH系の遺伝子が反応する、という報告が出ている。低周波の揺れが成長ホルモンに影響する可能性も示唆されている」 「低周波というと……低い音?」 「そうだ。楽器ならベースが当てはまる。要するに、“効く”というより“反応はする”。音程よりもリズムと振動だな」 「歌より、ベースを弾けば良かったのか」ルカがさらに照れた笑いを見せる。 「……ただ」 言葉が、思考のブレーキより先に滑った。 「科学的根拠はともかく——俺は、君の歌を聞いた日に限って寝付きが良い」 ルカのまなざしが止まり、光が一点に集まる。 「それ、本当?」 「……ああ。ほら、証拠に、この間の夜も……ここで」 こっとりと寝入ったレインを思い出し、ルカは少し頬を染めた。 しかめっつらが和らいだ精悍な顔は、いつもよりさらに魅力的で……。 「……僕が歌うの、好き?」 「ああ、好きだ」 自分でも驚くほど、声は乾いていた。 半ば訴え、半ば告白。 ルカは照れ隠しに後頭部をかき、視線を落とす。 「じゃあ、試作品。昨夜……あれから、少しだけ作ったんだ」 ルカはレインの正面に立ち、まっすぐに瞳を見つめ、喉の奥を柔らかく開いた。 最初の音は微かな息。次の音で、庭の空気がゆっくり形を変えた。 低いレーンのようなフレーズが土を撫で、細いメロディが葉脈を伝い、ランタンの紐をかすかに震わせる。 音は空気を押す。そうレインの理性が定義する。 ——だが今、押されているのは空気ではない。胸だ。心外膜のさらに内側、沈黙で固まっていた場所が、やわらかく動き出す。 細胞のひとつひとつが、音の粒を受け入れているのが分かった。筋肉の張りが解け、皮膚の下を流れる血が温度を取り戻す。 じわりじわりと、指の先までしびれが走る。 レインは動かない。微動だにできなかった。 ————自分は、生きている。 ルカは途中で目を上げ、申し訳なさそうに笑った。 「まだ、ここまでしかできてなくて」頬に薄く色が差す。 「……ありがとう」 ルカは肩をすくめ、目尻に笑みを溜めた。 「そんな大げさだよ」 大げさでいい、とレインは思った。 この瞬間を小さく扱う方が、嘘だ。 別れ間際、ヒューゴの店の裏庭から、道路へ抜ける道をルカに教えた。 もう、隠れて聴く必要はない。 愛車にまたがりイグニッションキーを回すと、「明日も来る?」とルカの声がエンジン音に紛れたような気がした。 気の所為でもかまわなかった。迷わずYesと返し、ヘルメットを被り帰路につく。 帰宅してすぐに、レインはベッドに腰を下ろした。 外はまだ明るい。 それでも目を閉じる。 初めて “自分だけ” のために向けられた歌が、胸膜の内側を震わせる。鳥肌が立ち、血の鼓動が静かに音楽に同調する。 救えなかった命の重みは消えない。 だが、その重みごと抱えても沈まない浮力が、育ちつつあるような気がした。 「生きていて、よかったんだ……」 言葉になった瞬間、目尻が熱くなる。失った戦友の顔が脳裏で滲む。 涙はひと筋だけ流れ、頬の途中で乾いた。 このまま眠りへ落ちたかった。 静かな春の草原のような、柔らかな場所に連れて行ってくれるあの声があるうちに。

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