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第11話 浄化

レインの指が弛緩し、そっと引き抜かれたのは、宣言通りほんの一時の後だ。 途端に寒気を感じ、ルカは両肘を砂について上体を起こす。 隣の男は、目を瞑って満足げな笑みを口元に浮かべている。ルカの心臓はまだ早鐘のように打っているというのに。 ほんのいたずら心と、正直な寂しさがルカを動かした。今しがた離れたばかりの大きなレインの手を掴む。 レインが片眉を上げ、そのついでのように薄く片目を開いて横目で見てくる。 柔らかな視線が、ルカの心臓を甘く貫く。 「もっと」 ルカは自分の腹の上に、レインの手をトスンと落として、すぐに自分の手を被せる。こうしておけば、また退かされても引き止められる。 流れ込んでくる熱が、海水で冷えた身体をじんわりと温めてゆく。 「レインの手、温かいから」 「……冷えたのか?」 「……たぶん」 「車にブランケットがある。それか、火を起こせば……」 「ええと、そういうんじゃないんだけど……」 今にも起き上がりそうなレインを、ルカがすばやく遮った。 「しかし、内臓が冷えたら風邪を引くぞ」 「あのねぇ」とルカはレインの手の甲をきゅっと握った。 「僕はロマンティックなナイトピクニックに浸ってんの。月が明るくて星すら霞む夜の海で、たくさんはしゃいで疲れ果てた二人は、波打ち際で横たわって……お互いのことなんて何も知らないままで、手を繋いで……。こんな素敵な夜に内蔵が冷えるとか……あ、待って、ちょっと静かにしてて」 レインが低く唸った。そこに微かな不満を感じとったルカが慌てて付け足す。 「レインの声、とても好きだよ。だけど、今だけは静かにしてて。頭の中で音楽が……とてもいい曲ができそうなんだ」 レインは口元を固く結び、ルカの素肌に置かれた指先をほんの少し動かした。(わかったよ)と言う代わりに。 ルカが想像しているロマンティックなナイトピクニックがどんなものか見当もつかないが、自分のような人間にはふさわしくないのは容易に想像がつく。戦場帰りで、頭の中も身体も傷だらけで、ロマンスが何かなど——とうに忘れた男など。 仰向けのルカは、傍らに置いたバックパックから手探りでスマートフォンを取り出し、マイクに向かってハミングを始めた。 軽やかな鼻音は、歌声よりも柔らかく、レインの鼓膜をくすぐった。 最初は、その途切れ途切れの調子からレインには予想ができなかったが、何度も繰り返されるうちに隙間が埋まり、重なり、次第に一連のメロディが構成されてゆく。最後には、まるで完成された曲のAメロディのような明確な輝きがそこにあった。 「待って待って、あ、だめだ」突然ルカが悲痛な声を出す。 「どうした?」 「音が消えた。ま、でもメロディにはなったから……あとはここから」 「どうするんだ?」 「曲になるまで膨らませていく。こういうふうに新しいフレーズが突然『降ってくる』ことってない?」 レインは考える間もなく否定した。既知のメロディが脳内で再生されるのは一般的に見られる現象で覚えがあるが、脳が作曲するような経験は一度もない。 「そうなんだね。僕は、夢で音が流れることもあるし、今みたいに突然の場合もある。作ろうと思って作れたことなんて、これまで一度も無いんだ」 ふーん、とレインは低く相槌を打った。 「音楽の処理には右脳が関わるのだが、メロディを思いつくという創造的なプロセスにおいては複数の脳領域が関与していると考えられている。そして、次に鳴る音の予測も行うと言われている。これはAIの予測機能に近い。 これは俺の持論だが——次に来る音が自分の予測と外れて——いい方向でだな、それが妙に心地良く癖になるような場合だ。これがヒット曲に繋がるんじゃないかと考えたことがある」 ルカは金色に光る瞳をぽかんと開き、レインを見つめた。 「心地よい裏切り……」 「そうだ。だが、狙ってできるものではないのだろう?」 「うん、できない。でも、言語化してもらえて、ちょっと感動してる。そうか、僕が曲作りの時にいつも待っているのは、それなんだ」 「役に立てて何より。まあ、流行り廃りというのも考慮しながら、それをパターン化できればヒットメーカーになるんだろう」 「音大で理論は習ったけどさ、レインみたいにわかりやすく教えてはもらえなかったな。僕の理解力の問題かもしれないけれど」 「俺は生物学者だからね、その音大の教授とはアプローチ方法が異なるだけだ。もっと言うと、どの学習だってそうだよ。教える側と教わる側で物事の見方が異なると、どんな容易な事柄も理解が難しくなる」 「じゃあ、レインの話がわかりやすいと思う僕は……レインに合ってるのかな?」 「脳の構造が似ているのかもしれないね。すべての学生にそんなことを望んでいないが、学生に合わせてアプローチを変えるのも面白いもんだよ。苦労するが」 「レイン、良い先生なんだ。それに、人気ありそう」 「どうだか」 「あ、その態度……やっぱりモテるんでしょ?僕はそこの学生じゃないんだから、聞かせてくれたって外に漏れないよ。ねね、よく告白とかされんの?学生と付き合ったことは?」 レインは、ルカの腹の上に乗せられていた手を退いた。その前にトントンと指先で素肌をタップしてから。 刹那であれ手を絡め、素肌にふれさせておいて、平気でそんな話題を振ってくる男に、話してやることなど何もない。 ふん、とレインは鼻で笑い飛ばし、立ち上がった。 「帰るぞ。明日は俺も出勤だ」 ルカは唇を尖らせ、しぶしぶ立ち上がった。 「さすがにまだプライベートな話は無理か……」 そう呟くルカを横目に、レインは砂上に散らばったピザの箱やお互いのバックパックを手に持って歩き始める。 夜が深くなった分、月の明かりが街灯のように駐車場までの道を照らしている。 これなら、手を引かずともルカはついてこられるだろうと、レインは振り返らずに階段を目指した。 浜から駐車場まで登り、自治体が設置してある簡易シャワーで塩水と砂を洗い流した。着替えを持ってきてはいるが、面倒臭さが優先し、二人ともインナーにバスタオルを巻いただけでシートに座る。 土地勘があるレインは、入れ替えたばかりのナビゲーションシステムに頼らず、ルカの道案内に従って車を止めた。 誰かを助手席に乗せて、言われるがままにハンドルを切ることに不思議な懐かしさを感じる。父の運転する横で、母がそうしていたような気もするし、その頃にはもうナビが付いていたような気もする。 「あ、その角で停めて」 ルカのアパートは、教会から少し海側へ南下した、低層マンションや雑居ビルが多いエリアにあった。このあたりは地主によって建てられた物件が多く、簡素ながらもしっかりとした作りになっている上、土地代がかかっていない分家賃が相場より低い。が——店子の選別は厳しい。 ルカが「ここだよ」と指さしたのは3階建てのこじんまりとした鉄筋マンションで、外観からそれが単身者向けだと分かる。エントランスには色とりどりの小花の寄せ植えがあり、ゴミ一つ落ちていない。まさに手入れが行き届いた、と表すにふさわしい。 間違いなく、近くに地主が住んでいるパターンの賃貸住宅だ。 「いい所だな」 「うん。東京のアパートに比べると、同じ値段なのにずっと広いんだ」 「困ったことがあれば言え。なんでもいいから」 ぶっきらぼうにそう言ったレインに、ルカがふふっと楽しげに笑った。 「どうした?」 「オマと同じこと言うんだなと思って」 「そうだ。なぜオマを知ってる?」 「それは……」とルカは、ゆっくりした口調で、教会での出会いから話し始めた。 ピアノのことが中心で、あのベースの音については敢えて口にしなかった。もし、話し方に失敗してしまうと、レインから気の所為だなんて言われそうで。そうなったら、自分ごと『ここから』消えそうな気がして。 一通り聞き終えるまで、レインは無言だった。そうして、「……ってわけ」と軽くルカが話し終えると、「ふーん」と低く唸った。 「黙っててごめんなさい。でも、もしかしたらオマから聞いてるかもって思ってた。ヒューゴの店でバイトしてることは彼女も知ってるから」 「いや、謝るようなことじゃない。オマからは何も聞いてないが……ヒューゴも知ってんのか?」 ルカの頷きに、レインがまた唸る。 「礼を言う。最近のオマが活き活きとしている理由がわかったよ。それに、母のピアノを売らなくて済んだ」 「そんな大切なものだったなんて知らずに、最初は無断で弾いてしまって……」 「違うんだよ。俺は……敢えて施錠をしなかったんだ。すでに祈りの場としての機能は失っている教会だが、もし、だれかの心の拠り所になり得るのならば……昔のようにね。だから、誰かがふらりと入ってきて、ピアノを弾いてもらえたなんて、嬉しくてたまらないんだ」 「レイン……」 小さくルカが頷き、その視線が、シフトレバーに置かれたレインの手に落ちる。 昨夜、雑木林の中で支えてくれた手。 そして今夜、波打ち際で揺られながらそっと握ってきた手。 無骨そうに見えて、触れるとその繊細さにハッとなる骨ばった長い指。 ルカは、その理由——なぜ手に触れるのかを、聞くつもりはなかった。 なぜなら、そこに言葉にならない何かがあるように思えて。 ルカが僅かに握り返す時、途端にレインの身体から力が抜けるのが伝わった。そして、顔を見ずとも、微かに微笑んでいるだろうと予測できるほどに、レインは柔らかなオーラを発しはじめていた。 ——誰かと手を繋ぐことで、心が休まるのかもしれない。 例えばルカには、しょっちゅう電話を掛けて来てはとりとめのない話や愚痴を聞かせてくる友人がいる。だらだらと通話しながら過ごした後、彼女はまるで別人のように前向きになり、はつらつとして通話を切る。 また別の友人は、買い物で正気を取り戻すと言うし、バイト先のオーナーであるヒューゴは料理が最も効果的な精神安定剤だと言う。 ルカ自身にも覚えがある。バイト終わりに店の裏庭で過ごす時間がそうだ。 「ありがと」 ルカは微笑んで礼を告げ、シフトレバーに置かれたレインの手の甲をサッと撫でた。手を繋ぐことを肯定する意味と——また繋ぎたいという個人的な希望を胸で唱えながら。そして助手席を降り、ドアを閉めるとすぐに運転席側へ駆け寄った。 コンコン、と窓を叩くとパワーウィンドウが下りる。 「連絡先、交換しようよ。また海連れて行ってくれるんだろ」 「ああ」 スマートフォンを取り出して交信し、ルカはレインのアイコンがただのグレーの丸形なのを見て「っぽいね」と笑った。 「それじゃ、おやすみレイン」 「おやすみ」 ルカが身を翻し、その場を去ってもレインはまだアクセルを踏まなかった。代わりにバックミラーの角度をやや調整し、ルカの姿を追う。アパートのエントランスから姿が消え、階段を駆け上がる小気味良い音が途切れる。そして、規則正しく並ぶ窓の一つに、パッとオレンジ色の灯りが灯る。 滑稽に思えたが、ルカの帰宅をこの目で確認せずにはいられなかった。微かな安堵感と共に、クラッチを踏んでギアを入れる。 ふと、目線がシフトギアに固定されたままの手に落ちる。 そこには、ルカの指先が与えた熱と呼べるほどにぴりりとした衝撃がまだ微かに痺れが残っている。 レインの突発的な行動を、ルカが肯定的に受け止めてくれているのは間違いない。 しかし、レイン自身どういうつもりかはわからなかった。 昨夜は反射的に、今夜は半睡半醒で伸びた指先。 触れたいと思った。それ以上の感情も、思惑も、理由も見当たらない。 小さくため息をついて、アクセルを踏む。 かつての父の愛車。 今のレインよりも背が高い巨漢の父は、このオフロード色の強い車によく似合っていた。しかし、まれにレインを送り迎えするために母や祖母も運転し、華奢な彼女たちがなんなく乗りこなす様子の方が妙にしっくりとくると思っていた。 祖母が運転を止めてからはガレージで大切に保管されていたため、子供の頃の記憶と寸分違わない。 帰国後、この車の助手席に誰かを乗せたのは、ルカが初めてだ。 結局その夜はルカの歌を聞くことは無かったが、夜は静かにレインを包みこんだ。 熟睡はできずとも、彼のはしゃいだ笑い声、並んで横たわった背中をくすぐる砂粒の感覚、弦を押さえるせいで固く変化したルカの熱い指先が自分の指に絡まった瞬間—— その記憶が繭のようにレインを包み込み、闇から遠ざける。 彼の存在が自分に与える影響について、深く考えようとするが…… ◆ ◆ ◆ 早朝、日が昇ると共にレインは起き上がり、庭へ出るやいなや軍手をはめた。 一日ごとに気温が上がって、真夏はもうすぐそこだ。 そうなっては、草刈りどころではない。業者には昨日の内に連絡がつき本格的な除草を依頼してあるが、例えば残しておきたい草木の周りを整えておくなどの細かい作業はやっておく必要があった。 なんとか1時間程で目的は終え、土埃と汗をシャワーで洗い流した。 髭は敢えて少し残し、肩に掛かる髪は、後ろに届かない長さの髪束はそのまま垂らして結ぶ。 そして、一分の隙もない絞られた肉体に直接シャツを羽織り、薄いグレーのチノパンを履く。 夏の光を受けて白く映える麻のシャツは胸元の左右にポケットがあり、シンプルなチノパンとの組み合わせに静かな存在感を与えている。筋肉の鎧を包むその無駄のないシルエットは、涼しげでありながら端正で、清潔さと知的さを同時に際立たせていた。 当の本人は、そういった見た目は二の次で、単純に胸ポケットがある方がペンを挿すのに都合がよく、チノパンはストレッチが効いておりバイクの乗り降りが楽だというだけだったが。 レインがコーヒーを手に研究室のドアを開いたのは9時を少し過ぎた頃だった。 授業はないが研究は継続されている。博士課程の学生たちも休暇中は最低限の登校しかしてこないが、さすがに指導教員——レインは准教授だが2名の学生を受け持っている——が全く顔を出さないのは管理部に対してもメンツが立たない。 案の定、研究室は無人で、学生が実験の為に飼っている昆虫の水槽からカサリコソリと音をたてているだけだ。 慎重に水槽の蓋をずらし、脇に置かれた霧吹きで2,3度水分を与えた。餌は、隠れ家として入れてある段ボール片が兼ねているため不要だ。ハムスターやうさぎなどの実験動物が置かれた部屋とは異なり、この研究室は他のスタッフから「くれぐれも逃さないように」と忠告されているのだから油断はできない。 「かわいいのになあ」とぽそりと呟くが、この昆虫の仲間が世界中で害虫として嫌がられていることは十分承知だった。 その証拠に、この部屋には清掃スタッフが入って来ない。担当者がよほど虫嫌いらしく、直接陳情されてのことだった。そのため、ごみ捨てや床掃除はレインを含めたメンバーで持ち回りだ。 レインに与えられたオフィスは研究室の隣にあり、内部で繋がっているものの、2つの部屋を繋ぐドアの前には堅牢なスチール棚で塞がれている。 部屋を与えられた時にはすでにそうで、レインはコンセントや水回りの配置からして、オフィス側の壁にしか収納棚が並べられなかったのだろうと見立てている。往来ができないことで特段不便でもないから、変えるつもりもない。 それを知ってか知らずか—— 先日のように、学生が誘惑に来ることが稀にある。いや、職についてまだ1セメスターだというのにもう片手の指が足りなくなりそうだ。 レインも子供ではないから、自分にある程度の魅力があることは、これまでの経験上、自覚している。 しかし、学生には無論何の食指も動かないが——学会で知り合う研究者であっても——どんなに美しく聡明な人物から誘われても、魅力を感じることができなかった。 恋人と呼べる相手が居たことはある。 しかし、大学在学中の22歳でNATO医療部隊の研修生として参加したのをきっかけに、その関係は終わってしまった。 その後は戦場で、何かを——おそらくそれは『生きている実感』だと後になって分かった——確かめるように、肌を合わせるだけの関係だけだ。 最初はまだよかった。そんな余裕もあった。 単なるボランティアであり、前線ではなく野戦病院や避難民キャンプで実習を積む。どんなインターンより腕を磨くに有益だと、打算的な考えもあった。 医師免許を取得した後、状況は一変した。 軍医として中東やバルカン地域で従軍し、負傷兵の治療だけでなく、民間人の犠牲を直接目にした。 仲間の死。 治しても治しても、増え続ける民間人の被害。 そしてあの日—— 非難民キャンプから、子供の声が一斉に消えた朝。 夜間にキャンプから異常警報が発せられ、ジープで駆けつけたレインたちが見たものは——まさに地獄だった。 生きた人間の焼ける臭いの中、溢れる自分の内蔵を手で押さえる子。ちぎれた身体を不思議そうに見る子。 その夜にキャンプの警備に当たっていたのは、懇意にしていたドイツ人の軍医だった。 馬の合うやつで、戦争が終わればどこかで一緒に暮らそうかと話すほどに。まだ友人の域だったが、もしかすれば人生のパートナーとしてなりうる予感はあった。 彼は、真っ先に駆け寄ったレインに、震える手を伸ばしながらかすれる声でこう言った。 「まだ……おまえと……世界を、治したかったよ……」 焼け焦げた唇がかすかに震えて、その言葉は煙に溶けるように消えた。 レインに言葉はなく、ただその唇に触れるのが精一杯だった。呼吸が止まり、がっくりと項垂れた首を支えると、ずるりと皮が剥がれる。 瞼は焼けただれ、閉じられることも無く。 奇襲攻撃の情報は無かった。キャンプに居たのはほとんどが女性と子供で、攻撃される確率が低いと判断され、警備が手薄だったのが原因だ。 警戒レベルを高く設定してさえいれば、あれほどの被害にはならなかったはずだ。 この途方もない無力感は、レインから人格を奪うのに十分だった。 何度も、命を断つことを考えるほどに—— だが、それだけはしてはいけないと分かっていた。 苦しみから逃れるより、立ち向かうべきだと分かっていた。 必ず、闇の先に光があると——信じて。 焦げた匂いが、ふいに甦った。 皮膚の裏側にこびりついたような、鉄と煙の臭気。 レインは軽く頭を振り、オフィスの窓を全開にした。 キャンパスの芝生の緑、研究棟の白い壁。雲一つ無い真っ青な空。はっきりとした日本の夏の配色でも、灰色の記憶は塗りつぶせなかった。 そのとき、ポケットの端で小さく振動が鳴った。 視界に戻る現実の光。 手に取ると画面に新着メッセージの通知が表示されていた。 「おはよう!今日は何時頃来る?店に居なかったら裏庭に回って!」 送り主の名前を、口の中で呟く。 指先がわずかに震えた。 その途端、鼻腔の奥に燻っていた死の臭いが、潮風に吹き飛ばされたように消えていく。 代わりに残ったのは、あの浜辺で感じた潮の香りと、ルカの笑い声の残響。 レインは無意識に深く息を吸った。 肺が久しぶりに、まともに空気を受け入れた気がした。 「……まったく、恐ろしいな」 誰にともなくつぶやいたレインの唇の端に、かすかな笑みが滲んだ。

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