10 / 13
第10話 潮騒
二人はチャーチベンチに腰を掛け、真新しくなった天井を見上げた。
雨漏りの跡を消すだけのはずが、他の部分との色が明確になってしまうため、全面的に塗り直したのだ。
「見違えたな。助かったよ」
「高所の作業は得意なんだ」
「慣れてるのか?」
「まあまあかな。何でも自分たちで直す家系で……海が近かったから、家が痛むのも早かったんだ。屋根のタイルなんてすぐに飛んで行くから」
「そうか、台風もあるんだな」
「サイクロン」とルカは訂正してから自分の胃の辺りに手を置き、続ける。「ね、レイン、ピザでも頼もうよ。僕もうハラペコ」
「ああ、そうだな……」
昼のコンビニ弁当だけで、数時間もの肉体労働をこなした男たちは間違いなく空腹であった。しかし、レインは自分の身体を見下ろし、続けてルカに目線をやる。空腹はピークだったが、それよりも、汗と埃にまみれた身体をどうにかしたいという欲求が強かった。
腕時計を見ると、奇しくも満月を示している。
「まず汗を流したいんだが……どうせなら、海へ行かないか。ピザでも何でも、道中で買えばいい」
「えっ!?本当に!?」
ルカは飛び上がらんばかりに立ち上がる。
「海で泳いで帰って来ても同じだろ」
「行こう!今!すぐ!レインさえよければだけど!」
「俺が誘ってるんだ。ちょっと待ってろ、水着に着替える。あとタオルも」
「僕の家に寄ってくれたらあるよ!それにサーフボードも」
「タオルなら寄付されたものが売るほどある。しかし、夜のサーフィンは……」
「ナイトサーフィンって知らない?満月なんだろ?だったら平気だよ」
「駄目だ。肉体労働の後だから、足がつったり肉離れのリスクが高い。自覚していなくても、身体は確実に疲弊しているはずだ」
「そりゃ……そうかもしれないけど、こんなチャンス、初めてなんだ」
レインは胸の前で腕を組み、頭を横に振った。ルカは、子犬を思わせるような懇願の目をやめて、素直に受け入れる。
「分かったよ。確かに、知らない海だしね」
「だから今夜は……浜辺でピザでも食って、少し泳いで、夜風にあたろうか」
「それって……ナイトピクニックってこと、だよね?」
「ん、いや、偶然。ただの思いつき」
わざとらしく、ルカはおどけて肩を落として見せる。
「ロマンティックなピクニックデートを想像したんだけどなあ」
講堂のドアを開いたところで、レインはピタリと手を止める。
「……誰と?」
「え?レインと、だけど……?」
まるで脊髄反射で答えたルカの真っ直ぐな瞳には、何の疑いの濁りもない。
「……着替えてくる」
ルカを教会の正面に残し、レインは足早に裏手へ回った。
汚れた作業着を脱ぎ、水着に着替えると、タオルと着替えをその辺りにあったバッグに詰め込んで、車のキーを掴む。
早鐘のように打っている鼓動を押し殺すように、大きなため息をついた。
単なる軽口——そう言い聞かせようとしても、鼓動が耳の奥で暴れるように響く。まるで、どこか遠くで鳴るべヴィメタルのドラムの音が自分の中に迷い込んだみたいだ。
何を、動揺している。
ルカの言葉なんて、冗談の一つに過ぎない。
だが、あの無防備な瞳。
まっすぐに見つめられた瞬間、全身の血が一斉に熱を帯びた。
鍵をポケットに押し込み、握った拳がわずかに震えているのに気づく。
「……違う」
自分に言い聞かせるように呟く。
何が違うのか、自分でもよくわからない。
古いディスカバリーの運転席に腰を下ろし、後部座席にバッグを投げ入れる。
エンジンをかける音がやけに大きく響く。
まるで、その音で自分の心の鼓動をかき消そうとしているようだった。
胸の奥のざわめきが沈まないまま、助手席にルカを乗せて夕暮れの住宅街を抜ける。
海までは30分もかからないはずだが、街道の渋滞を考えると、辿り着く頃には暗闇かもしれず、レインは車内に置きっぱなしにしてあるコンテナに、ライトがあることを頭の中で確認した。
他にはナイフやケトルやライターなどの調理道具一式にシュラフ等、最低限のサバイバル用具が揃っている。使用する機会は今のところないが、車に積んでおかないと気が休まらないのだ。
「車、日本で買ったの?」
「いや、父親の。こっちに置きっ放しだったんだ」
「じゃあオマがこれを……?」ルカは、いかにもオフロード車の外見をした車を、あの小柄な老女がにこにこ顔で運転しているところを想像してしまった。レインもつられて思わず吹き出した。
「俺が子供の頃は乗っていたな。見た目よりずっと運転がしやすいから。名義を俺に変えて、コンピューター周りと消耗品を入れ替えただけで、全く問題なく走る」
「僕もいつか欲しいな。サーフボードが乗れば何でも」
「海が好きなんだな」
「うん。近くに海が無いと、気が滅入る」
「わからなくもない」
「そう?」
「俺の方は干潟で……波など無いが。時々無性に水辺を走りたくなる。習慣というのは自分が思っているよりもずっと身体に刻まれているんだろう」
「よく走ってたの?」
「ああ、毎週な。少なくとも湖畔でのランニングは日常だった。今は時々、公園の池の周りを走る程度だ」
「今度、ビーチを走りたくなったら俺も誘ってよ。波を待つ間に、走るレインを見るから」
レインは喉奥から響く相槌だけで返答した。
左手側に海を見ながら、静かに海岸線を走っていた車がすっと駐車場へ入る。
公式な海水浴場ではないが、駐車場の公衆トイレの脇には簡易シャワーが設置されている。地元の人間のみが知る場所だ。
細い階段を降りて砂浜に足が付いた途端、ルカが「海だ!」と駆け出した。
「気をつけろ!」
レインは鋭い声を上げたが「分かってるよパパ!」と過保護ぶりを誂われてしまい、呆れ顔で空を仰ぐ。
かすかに夕暮れの名残を残す空は群青色で、海のほうが暗い。黄色掛かった明るい月が、膝で水を蹴るルカの全身を照らしていた。
水しぶきが立ち上がり、きらきらとまた水面へ戻っていく。
それがまるで星屑と戯れているようで——綺麗だった。
脳裏に浮かんだ言葉に自分を疑ったが、紛れもない事実だった。
濡れて束になった髪が張り付く横顔。水面よりも月の灯りを強く跳ね返す金色の瞳。
音もなく水中へ潜り込むときに見えた背中の曲線までもが、艶めかしく、美しかった。
ルカは波間から肩を出し、「レイン!早く」と楽しげに笑い、また潜る。
「おい、ピザが冷めてもいいのか」
脱いだシャツを砂浜に置き、その上にまだほんのりと温かいピザの箱を乗せると、レインは一切れ手にした。
すぐにバシャバシャと音がし、「そうだった。つい」とルカが横になだれ込むように座る。
「低血糖で倒れるぞ。軽く食ってから泳げ」
すでに口をもぐもぐとさせながらルカは頷き、ごくりと飲み込んだ後、「あー、最高だ」と上体をレインにもたせかけた。
「海があって、砂の座面に背もたれがレインなんてさ。あとサーフボードにベースがあれば、たぶん僕は自分が死んだと思うだろうね。天国がこんなところだといいなあ」
ふっとレインが微笑む。ルカの信仰心について聞く気はないが、口ぶりからして軽口なのは分かる。
「俺は要らないだろ」
「僕の天国にはみんながいるはず」
「物騒だな。巻き込むなよ」
「僕の方が少し若いんだから、順番通りにいけばそうなるでしょ」
またしても言いくるめられ、レインは笑みを強くする。どうやら自分は、ルカの正論にやっつけられるのが好きなようだ。
「泳ぐか」
レインは立ち上がり、水着に張り付いた砂を落とすとサンダルを脱いで海へ向かった。つま先の指の間を通り抜ける砂粒は、まだ昼間の熱を孕んで温かい。
膝まで水に浸かると、波の冷たさが心地いい。
両手の広げ、水面に指先を滑らせながら、砂を漕ぐように沖へ足を進める。
振り返ると、ルカは浅瀬を蹴り、潜り、しぶきを上げては姿を消す。
かと思えば、数メートル先で水面からひょいと顔を出す。
濡れた髪が額に張りつき、笑いながら手を振った。
「レイン、早く!」
「子どもか」
そう言いつつ、レインの口元がわずかに緩む。
ルカはまた潜った。今度はレインの足元をくぐり抜けて、背後から現れる。
波とともに、ルカの指先がふくらはぎをかすめ、レインは思わず身を震わせた。
「……おい、やめろ」
「ははっ、弱点発見したかも」
ルカの笑い声が、海に溶けていく。
レインはため息をつくふりをしながらも、肩の力を抜いた。
こんなに笑っている自分が、少し信じられない。
ルカが再び潜って消える。
波間に残る光のきらめきだけが、彼の居場所を示す。
やがて真横から、水飛沫とともに顔を出したルカに、レインは低く笑った。
「……人魚かよ」
ルカは目を細め、肩まで海面に沈みながらにやりと笑う。
「ばれたか。ベーシストになりたくて人間になったんだ」
冗談とも本気ともつかないその言葉に、レインは返事をしなかった。
代わりに手で水面を叩き、ルカの肩にしぶきを浴びせる。
波が、笑い声と一緒に弾けた。
「海に行きたくなったら連絡してくれ。知ってるだろうが夏の間なら授業も無いし身軽だからな」
「いいの?」
「車ならいつでも出してやれる。だが、一つ条件」
ルカは小首を傾げた。
「何か……歌ってくれ。人魚なら得意だろう?」
「それはセイレーン。下半身が鳥の方」
「人魚じゃないのか、歌で惑わせて沈めるのは」
「あ、それならローレライだよ」
「……どれも同類だ。で、歌ってくれるの?くれないの?」
「そこまで言ってくれるのなら、喜んで歌うよ。でも、こうやって深い所に引き摺り……うわっ」
ルカはレインの両腕を引っ張って水中に倒そうとしたが、目論見は叶わず手は一瞬で剥がされ、腰をがしりと両手で掴まれ、そのまま水面から持ち上げられてしまった。
「倒せると思った?」
「降ろせよ!」
足をバタつかせ暴れても、レインの両腕はぴくりとも動かない。
ルカは仏頂面をしているレインの口角がほんの少し上がるのを見て、「うわわ、ちょっと待って」と急いで自分の鼻を指でつまんだ。
その読みは正しく、レインは一度ルカの身体を水面に沈めてから、浮力を使い空中に勢いよく放り投げた。数メートル先で大きな水しぶきが上がる。
ほどなくしてレインの元に泳いで戻ったルカは息を切らして、目を輝かせている。
「もう一回!」
「君、幾つだっけ?」
「こんなの大人でも楽しいに決まってる!もっと深く沈めてから投げてみてよ!」
「覚悟しろ。この体重なら10mは投げられる」
大げさにレインは宣言し、再びルカの細く引き締まった腰に手を回した。
そうして夜の海にルカの絶叫と嬌声——ジェットコースターから聴こえてくるような——が響き渡り、存分にはしゃいだ二人は肩で息をしながら砂浜へ上がった。
半日、肉体労働をした後での激しい水遊びは、軍で鍛えたレインにも堪えた。ルカはほとんどだ折れ込むようにして座り込み、息も切れ切れだ。
波の音がゆっくりと潮騒へ変わる。
波打ち際に横たわるルカに、レインは肩を並べる。潮の香りと砂の温もりが混ざり合い、夜の海はまるで呼吸しているようだった。
「……大人になってから、こんなに楽しい海は初めてだよ」
ルカが笑う。
「同感だ」
レインも、珍しく素直に答えた。
月の光は冷たいはずなのに、なぜか今はとても柔らかく二人の肌を包んでいた。
波が寄せるたび、砂が背中を押し上げ、潮のリズムに合わせて身体が揺れる。
レインは静かに目を閉じた。
胸の奥に、言葉にできないほど穏やかな感覚が広がっていく。
潮が、海風が、皮膚の古傷も、心のざらつきも洗い流していくようだった。
まるで、自分の中の悪いものがすべて殺菌灯の光で焼かれ、浄化されていくような——そんな奇妙な、だが心地よい錯覚。
数年間、戻ることの無かった心の静けさ。
その静けさが今、たった一人の青年の笑い声と、波の音の間に——確かにあった。
「……このまま、時間が止まればいい」
低いつぶやき。
隣のルカが何かを言いかけたように顔を向ける。
だがレインは、それきりただ小さく息を吐いて目を閉じた。
降り注ぐ月光が、砂の上でふたりの影をそっと溶かし合わせていく。
砂の上に横たわる二人の間に、言葉はなかった。
どっと潮風が二人の身体に吹き寄せた時、レインの指が静かに動いた。
ほんの一瞬の逡巡のあと、彼は手を伸ばした。
触れた瞬間、ルカの肌が驚くほど熱い。
潮の冷たさに慣れた指先が、その温度を確かめるように絡む。
「……少しだけ」
理由にすらならない言葉だった。
ルカは何も言わず、ただ、指をわずかに握り返す。
世界に残されたのは、潮の音と二人の呼吸だけだった。
ともだちにシェアしよう!

