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第9話 ふたり

日曜の朝。 ベッドから身を起こしたレインの胸には、昨夜の余韻がかすかに残っていた。 窓から差し込む光が、いつもより柔らかく、肌を撫でるように降り注ぐ。 身体の奥に——昨夜の記憶が、霧のように絡みつく。 裏庭のランタンの揺らぐ炎。 甘く響いたルカの歌声が胸の闇を溶かした瞬間。 そして、雑木林の闇で絡めた指先の温もり。ルカの掌の柔らかさ、息遣いの熱。 ただ、触れたいと思ったなど—— ルカの金色の瞳、不安げな笑みが、脳裏に焼きつく。 振りほどかれなかったのは、暗い雑木林ですがるものがそれしかなかったからだ。 灯りを拒否し、自分の手しか与えなかったのだから。 ——この渇きは、彼の歌だけに対するものだ。本人に触れてどうなるものでもないだろうに。 レインは両腿をパシリと強く叩いて立ち上がった。 コーヒーを淹れ、カップを手にし庭に出る。生家の庭が、まるで初めて訪れた他人の家のように映り、やたらと雑草が目についた。 これまで、敷地が荒れていることにすら気がついていなかったのか……。まるで荒れ地に残る空き家ではないか。 レインは手当たり次第、背の高い雑草を無心に抜いた。土の湿った匂いが、鼻をくすぐる。 突然、レインを奇妙な不安感が襲った。 ——また、あとで。 ルカから発せられた約束の言葉が、静かな鐘音のように、胸に響き続ける。 荒れ放題の庭に、老朽化した家。そんな生活状況を見られ、だらしのない人間だとルカに判断されるかもしれない。 個人的に親しくなれば、週末に歌ってもらえる可能性だってあろうが—— レインは、ふんと鼻から息を吐いた。 親しくなったところで、不眠やPTSDについて話せるわけがない。 今日限りの交流になれば、また裏庭での盗み聞きに徹するまでだ。 しかし——それにはリスクが伴う。必ず聴ける確証は、無いのだ。 今のところ、シフトの度に歌声は聴こえているが、雨の日や、時間のない日もあるだろう。 それに、そもそもの疑問がある。 なぜ彼はあそこで歌を——? ただの気まぐれであれば、ルカの気分次第で終わる可能性があるわけで。 多少マシになった庭を見下ろし、レインは本格的に敷地内を整備するために漠然と計画を立てる。幸いにも授業の無い夏季休暇に入ったが、すでに日中は暑さが厳しくなりつつある。根を張ったものやしつこい蔓性の草花も多く、重機による掘り起こしができる業者を入れるしかないだろう。 おそらく教会の事務室にその手の連絡先があるはずだ。 レインは庭を後にし、教会へ向かう。自宅はほぼ裏手にあたり、道路や教会からは荒れた様子が見えないのが幸いだった。 教会の周辺は芝生で、元教会員と祖母により手入れがされていたためすっきりとしている。その芝生の青のおかげで、古い教会につきまとう暗さが一切ないのが救いだ。 贔屓目で見ればだが、ヨーロッパの片田舎にある素朴な教会、と表現できなくもない。実際、祖母によれば、結婚式を挙げられないかという問い合わせや、撮影の打診が年に数回あるそうだ。 レインは束の間、教会の正面に立った。亡くなった母は、講堂の中からバラ窓を見るのが好きだったが、レインは外から建物全体を視界に入れる方が好みだ。 教会の扉を開け放つと、埃っぽい空気がドッと外へ吹き出す。レインのTシャツが風を孕み、素肌を晒す。それを直そうとした指が、無意識に脇腹の切傷の跡をなぞった。 レインは腰に両手を置き、堂内をぐるりと見渡した。 修繕は遅々として進んでいなかった。 咄嗟の判断で教会と家を継ぐと決めて日本に帰国したものの——家族の思い出に向き合える状態ではなかった。どうせ大半の時間を大学で過ごすため、寝床だけあればいいと、現実から目を背けていたのだ。 それが、週の半分程度とはいえ、十分な睡眠が取れるようになり、ようやく周囲に目を向ける余裕が生じたらしい。 まず最初に手を付けたのは、最も手軽で効果がある塗装だった。濃茶色のチャーチベンチは角だけでなく座面も色が剥げ、ニスを塗ってやると昔のような艶が蘇った。祭壇も同様だ。それからまた放置が続き、とっくにペンキの臭いは消えている。ひたすら刷毛を走らせる作業はそれなりに手間だったが、頭を空っぽにして行えたので気分転換になった。誰も座る予定もないベンチに、『ペンキ塗りたて』と書いて貼ったのは、達成感からくるものだったのだろう。 レインは無意識に口元に笑みを浮かべていた。 ヒューゴの店で、ルカに散々言われたのは愉快だった。 確か「すんげぇ字が汚い」だったか。ほとんど思い出し笑いのように笑顔が強くなる。 レインの日本語は流暢だが手書きによる筆記となると別だ。パソコンのキーボードで入力するだけなら全く問題はないので、授業はもっぱらPC画面を投影して行っている。板書をする場合も絵や数式に英語のコメントをつける程度で、学生の集中力が落ちてきたと感じる時にわざと悪筆の日本語を披露して見せて笑いを誘う程度。それでも、確実にルカよりマシなはずだ。ある程度の漢字も書ける。 でもあまりに楽しげな様子で話すものだから、その場で汚い字の本人が登場すれば彼に気まずさを感じさせてしまうだろうと、無言であの場を去ったのだ。 午後になってすぐに、門の軋む音がした。 それから「ハロー!」と元気のよい声が掛かるまで数秒。 ルカは、膝丈ほどの派手なハーフパンツにラッシュガードという、どこからどう見てもこれからサーフィンに出向く若者そのものの出で立ちだった。ただ、手にはサーフボードの代わりにコンビニエンスストアの袋を持って、顔前に掲げている。 「昼、一緒にどう?」 レインはハッとしたように顎に手を添えた。 頭の中を占拠していた人物に指摘されるまで、空腹であることすら気がついていなかった。 「ああ、すまん」 「なにが?」 「わざわざ……」 「来る途中にコンビニがあるんだ。俺が腹減ったからついでに。それより、どこから直す?結構楽しみにしてきたんだ」 「男が一人増えたからには力仕事だな。……それより、その格好。まさか海へ行ってたのか?」 視線が全身に注がれ、ルカの頰に僅かな赤みが差した。 昨夜のレインの寝顔を思い浮かべるだけで、息が浅くなる。 今、教会の講堂で陽の光に照らされている精悍な横顔が、昨夜はランタンの光に照らされ、無防備に眠りに沈んでいた。 その後——雑木林の中で握られた手の熱。低く響く息遣い。 ルカは妖しくなってきそうな思考と、レインからの問の両方を打ち消すために、軽く頭を振った。 「行ってないよ。そりゃ行きたいんだけど車がないし。ただもう、暑くてさ。手持ちの服で一番涼しいのが水着だったってだけ」 「合理的だな。しかもここはエアコンが無いんだ。無理すんなよ」 レインは顔を上げ、作業着のシャツで額を拭った。袖をまくり上げた腕に、汗が光り、筋肉の線が浮かぶ。 いつもの無愛想な視線が、今日は僅かに溶け、灰色がかった青い瞳に柔らかな翳りが宿る。寡黙な巨躯が、ルカの前に立つだけで、空気が濃密に変わる気がした。 言葉少なに、しかし無防備な瞬間の優しさが、ルカの胸を刺す。 「う、うん。ありがとう。でもさぁ、こんなに蒸し暑いなんて。日本の方が北になるから舐めてたよ」 「そうか、日本の夏は初めてか……」 低く、喉の奥から絞り出される響きが、ルカの背筋をビリリと震わせる。まるで、レインの息が、ルカの頰を撫でたかのようだった。 ルカは息を飲み、鼓動に急かされるように弁当を差し出した。 「うん。ね、食べよ?俺もうはらぺこ」 レインは頷き、最前列のチャーチベンチに腰を下ろした。ルカが隣に並ぶと、僅かに膝が寄り、熱が伝わる。 レインの持つ静けさが、ルカにはとても心地良かった。この横顔の翳りを、指で優しく撫でたいと思うほどに。 「昨夜……楽しかったよね。レインの話は強烈だったけど、面白かった」 「もっと聞きたければいくらでもある」 「聞きたいけど、またみんながいる時がいいかな。恐怖の分散」 ハハ、とレインが軽く笑い、ルカはふいと目を逸らした。まともに見てしまうと、もう二度と目が離せなくなりそうだった。 「お店で……最近、見かけないね。どうしたのかなって思ってた」 レインは一拍置いて、箸を持つ手を止めた。 「大学が休みに入って、決まった時間にメシを食わなくてもいいから」 「……遅めの時間にテイクアウトを取りに来てるってヒューゴに聞いた。ランチの残りが無い日は、僕がレインの分も作ってるんだ」 「いつも旨いもの食ってんだな」 「材料がいいから」ルカは謙遜して見せたが、本心でもあった。「昨日の殻付きの牡蠣だって、ヒューゴの仕入先からだもん」 「あれは絶品だった」 「バイトの日は3時か4時くらいまでは店に居るんだ。夜に演奏の予定があれば別だけど、今のところ、まだ売れないベーシストだから……暇でさ。まかないだって温かい方が美味しいでしょ?だから、時間が自由になるんだったらテイクアウトせずに食べに来てよ」 鋭く指摘されて、レインはかすかに肩をすくめた。反論の余地が見当たらない。 それに、ルカがその時間まで裏庭にいることは、おそらく誰よりも知っている。 「ん、まあ……店にいるなら」 「裏庭に居るよ。あそこで昼を食べて……好きなんだ。あの場所。それに、今トマトを育てていて」 レインは無言で頷いた。これも、知っている。今更ながら、一方通行の知見の多さに辟易しそうだった。 「うん。初めて自分で育ててるんだ。それでちょっと悩みがあってさ。次は、絶対に声掛けてよ?」 「悩み?」これは盗み聞きでは得られない情報だ。 「育て方のこと。生物学者でしょ?」 「植物は植物学者の方が……詳しいと思うが。まあ、俺が答えられなければ同僚に聞けばいい」 たかが個人のトマトの栽培にも関わらず真摯な態度を見せたレインに、ルカの胸がじんと温かくなる。 「ねぇ……」ルカの声が、僅かに震える。「僕ら、まともに話をするの、初めてだよね?」 「ん?ああ、そう……だな」 レインの口角が僅かに上がる。鋭い輪郭が柔らかく溶け、店での無愛想な態度しか知らなかったルカにとって、まるで別人のように映った。 「今のレインとヒューゴから、小さい頃があったなんて想像できないな。どんな子供だった?」 「想像できないか」 ルカは、自分の視線がレインの開いた胸元にすばやく走るのを止められなかった。皮膚に避けたようなケロイド状の痕。そして鎖骨上の……銃創。 「まあ、おとなしい方では無かったな。家よりも外を駆け回って……。さ、食い終わったなら作業開始だ。ほら、よこせよ」 レインは弁当の空き箱をルカから受け取り、廃棄のためにその場を離れた。そして、瓶ビールを2本手にして講堂に戻る。 「冷えてるうちに」 言われるまでもなく、ルカはその炭酸の弱いビールを一気に飲み干す。 レインは喉を鳴らすルカの前にしばし立ちすくんでいた。喉仏がゆっくり上下し、汗の雫が首筋を滑る。視線が、そこに吸い寄せられ——急いで自分のボトルを掲げ、天井付近へ視線を泳がせながら同じように飲み干した。 「ああー!うまい!これだね!夏は!」 すっかりリフレッシュできたのか、ルカが跳ねるように立ち上がった。 「さて、やるぞ!天井の雨漏りがずっと気になっていたんだ。染みになっちゃってるのは上から塗るしかないとしても、まず屋根を直さなきゃ」 「おい、それは大掛かり過ぎるんじゃないか。業者に……」 「オマがもう連絡したらしいけど、2ヶ月先まで予約でいっぱいだって。それまで応急処置しておこうよ」 「オマを知ってるのか?」 「うん。また後で話すよ。僕が屋根に登って様子を見てくるから、レインは下にいて。はしごはある?」 「ああ、煙突から登ることはできるが……危険だ」 「レインが登ったら屋根が抜け落ちるかもよ」 ぐうの音も出ず、レインは渋々の体で建物の裏へ回った。細身のルカに比べれば、暖炉の煙突には、掃除の際に登るための固定ラダーが付けられており、レインが数段登った感じでは今でもしっかりと埋め込まれておりぐらつきもなかった。 それでも、再度レインはルカに声を掛けた。 「気をつけろ。落ちるときは方角を言え。下で受け止める」 そのいかにも断定的な口調は、ルカを大いに楽しませた。明るい笑い声が大気を揺らす。 「あははは!ほ、方角だって!?わっかんねぇよ」 「太陽を正面に見ろ。正午を過ぎたばかりだからそれが南だ」 「これから落ちるって時に、とっさに太陽に向いて方角を把握しろって……まさか、レイン、できるなんて言わないよね?」 「簡単なことだ。やってみせようか?但し、君が俺を下で受け止めると約束するならだが」 ルカがごくりと喉仏を上下させ、数歩後退る。 「無理無理!その巨躯が屋根から落ちてきたら、潰されるくらいじゃ済まないよ!地面に埋まってそのまま墓にされちゃう。でも、どうしてそんなことができるの?」 「そりゃSERE訓練を受けてるからに決まって……」 思わず口をついた言葉が、自分の胸に茨のように刺さった。肉体にも頭にも、生き延びるための術を徹底的に叩き込まれている。地球上のいかなる場所で独りきりになろうが、敵軍の捕虜にされようが、耐えて生き延び、脱出しなくてはいけない。 「それって……戦場に居たってこと?地元の友達から聞いたことがある。NATOでとんでもなく厳しい訓練があったって」 「まあ……その友人の言う通りだ」 レインの声に、僅かな濁りが広がる。青い瞳が伏せられ、陰りを生む。 「よかったぁ」 レインはルカのあっけらかんとした言い方に、弾かれたように顔を上げる。 「ただ者じゃない身体と目つきしてるはずだよ!あーあ、なんだか気が抜けちゃった」 「どういう意味だ」 「アサシンとか、スパイだとか、裏社会の怖い人だったらどうしようって思って……こうして話すのだって少し頑張ってたんだ。なーんだ。元軍人かぁ」 「……失望させてしまったようだな」 「あはは。でもさ、安心した。だってレインって最初は本当に雰囲気がピリピリしてて、顔は怖いし、身体は大きいし、ヘマしたら一発で殴り殺されそうだったんだもん。それがさ、久しぶりに昨日会ったじゃん?ずいぶん顔色がよくなったなって思ったんだ。こんなふうに気軽に話せるなんて、想像もできなかったよ」 ルカの言葉が、ふいに覆ってきた戦場の残響を掻き消した。 闇に飲み込まれるよりも先に、ルカの金色の瞳、無防備な笑みが——脳裏に激しく焼きつく。

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