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第8話 秘密の小道

数年来、レインを苦しめてきた不眠は、嘘のように消え去っていた。 しかしその代償に、失うものもあった。 ヒューゴの店で食事をすることができなくなり、いつもテイクアウトの紙袋を受け取るだけで大学へ戻る。どうせ毎晩のように晩酌に寄るため、彼との交流に支障はないが、自炊をしないレインにとって唯一だった温かい食事にありつけないのは盲点だった。 そして—— ルカと正面から堂々と接する機会を完全に無くしてしまった。きちんと知り合うことができぬまま、一方的な『盗み聴き』による接点のみとなった。仕事を終えた彼が裏庭で食事をしたり、野菜の世話をしている姿を見ることもない。 ただ眠るために必要なだけ。 ルカの歌声をそう解釈することで、レインは自分を正当化していた。 しかし、十分に自覚はある。裏庭へ偲ぶように足を運ぶその行為が、卑怯者のマネであることを。本人に知られぬよう、姿を隠して耳をすますなど、正面から相手に向き合えない人間のすることだ。 だが、止められなかった。 同時に、自分が不眠症だと歌声の主に伝えることもできなかった。 どうしてもそれが弱さの告白であり、みじめさの露呈に思えて—— 医師であり、研究者であり、誰かを導く立場にある人間が、夜ひとつ満足に越せないなどと。 ——おそらく、自分は格好をつけたいのだ。 少し前まで、ルカから接客を受ける度に、自分に投げかけられていた目線には——多少の好奇心が読み取れていた。 それゆえに、うつろなまどろみの午前3時に自分の叫び声で目を覚ます。 そんな自分の素性を、あの真っ直ぐな目をしたルカに知られるのは——耐え難い。 ルカの歌声が途切れる週末——夜は再び牙を剥く。 金曜から月曜にかけての時間は、彼にとって休息ではなく試練だった。 それでも、眠れる日がやってきたことは、レインの日常に大きな変化をもたらした。 眉間に深く刻まれた皺は薄らぎ、目の下に影を作る窪みは浅くなった。 講義中の雑談が増え、ときには立ち見が出るほどに教室が学生で溢れる。 後回しにしていた仕事も、積極的に手を付ける気になるし、社会人としての活動にはいい事尽くめであった。 特に、オランダの母校から研究者を受け入れることができたのは、業務の面だけでなく気持ちにも大きな変化を与えた。3ヶ月の短期とは言え、母国語が通じる仲間がいるのは気が休まる。そうだろうなと分かってはいたが、これまでは、他人との交流が面倒に感じられて、手続きを後ろ倒しにしていたのだった。 そんなある初夏の日曜日、ヒューゴが「夏が本格的に来る前に」と裏庭でのBBQを提案した。 日が沈むまであとひととき、それぞれが好みの食材を手に集う。 小さな集まりだった。ヒューゴとルカ、レイン。そこにヒューゴの妹の涼子とその恋人で大学院生のケイが加わる。レインが教鞭をとる大学とは異なるが、ケイは奇特なことに生物学を専攻していて、二人の会話は弾んでいた。 頑丈なスチール製のガーデニングテーブルとチェアは、大人6人がゆったりと座れる大きさがある。涼子はそこに手書き風のラベンダーがあしらわれたクロスを敷き、中央には裏庭で取れた大小のイチゴを盛った籠を置く。傍らにはライムやレモンの輪切りと氷が詰められたウォータージャグ。 そしてヒューゴは中途半端に残ったハウスワインを片手に、炭を起こしながら時折イチゴをつまんでは、楽しげにテーブルを整えている妹を目を細めて眺めていた。 ヒューゴの両親は仕事の関係で日本で暮らしていたが、どちらもスウェーデン人だ。 父は長身で深い彫りの顔を持つドイツ系であり、母はエストニア北方の家系で美しいプラチナブランドと細く縦長な骨格を持ち、モデルとして活動していたこともあったらしい。しかし、ヒューゴが生まれてまもなくすると、母に病が見つかった。 それからはあっという間だった。 しばらく、東京で父子の暮らしをしたのち、父は同じく配偶者を亡くした涼子の母親と出会い、彼女の実家であるこの家で生活を共にするようになった。 アートディレクターであった父親は国内外の都市へ頻繁に出向くため不在が多く、また、子供にはできる限り自然の多い環境で育って欲しいという二人の願いが合致したからだ。 レインの家族とはその頃からの仲である。 涼子にとっては、兄が二人いるような状況だった。転んで怪我でもしようものならヒューゴがすっ飛んできて消毒を施し、人種の違う兄を持つことで涼子をからかうような男子は、長身のレインが見下げるだけで済んだ。 兄妹とレインには血の繋がりの無さなど一切感じさせない絆があった。それは、親を亡くすという大きな悲劇に幼くして直面したことと、子供にはどうしようもない事情が大人にはあると知っていることによる、一種の達観にも近い疎外感という共通点からだろう。 ヒューゴは大学卒業後に一旦母国で就職したものの、どうしても日本に戻りたいという思いを持ち続けていた。母に相談すると一も二もなく賛同され、ドイツのビジネススクールでレストラン経営やホスピタリティを学び直した後に、今の店を開いた。 実家が元は喫茶店だったことも大きな理由だが、ただ住むだけでなくカフェバーとして店内と厨房を拡張したのは、母のためにこの場所に活気を呼び戻し、存続させ続けたかったからだ。 すでにヒューゴは漠然とした思いがあった。 人生の終演を迎える時、もしかすると母は日本に帰りたがるかもしれない。その時、帰る場所があればどれほど心強いか——日本で孤独に暮らしていた父と自分に、希望と家庭の温かさを与えてくれた血の繋がらない母にできる精一杯の恩返しになるかもしれない、と。 ヒューゴは炭火の熱で揺れる大気の向こうに目をやる。 L字型の広い裏庭には、老朽化してしまったが、祖父母が使用していたアトリエがある。水道と電気しか通っていないため、今では洗濯室となっているため現在は通称がアトリエだ。 「レイン」 ヒューゴが、ふと幼馴染に声をかけた。目線だけの無言の応答は、親しい者だけに向けられる態度で、子供自分から変わらない。 「修繕の進捗は?」 ハッとレインが笑い飛ばす。「あの広さを独りでやってんだ」 「ついでにうちのアトリエも……直してもいいんだぞ」 「ふざけんじゃねえよ。……いや、待てよ。温室に改装して……あいつらを……」 それに続いたレインの言葉に、その場に居た全員が悲鳴を上げた。よりによって博士課程の学生が研究に使っている昆虫の名前をレインが挙げたからだ。 「相当増えるだろうな」 「飲食店なんだからやめてくれ!しかも、ちょうど肉や野菜も焼けて、これから食事だって時に」 ハハハ、とレインが大きく笑い、「冗談だよ」と隣に座って怯えていたルカに顔を向けた。 ルカは初めて見るその笑顔に釘付けになった。 長く暗い淵に落ちていた男に明るい一面を取り戻させているのが、自分だとは知らず。 多国籍なメンバーによるBBQでは、それぞれのお国柄が反映されがちである。 ヒューゴと涼子は迷うこと無く半身の鮭にホールペッパーをふんだんにまぶしてグリルをこしらえた。後は薄く伸ばした牛肉に香草とチーズを載せて巻き、輪切りにした断面の美しい巻きスカート風のステーキだ。 涼子の恋人のケイは日本人らしく箸で食べられるサイズの薄切り肉に、自分で漬けたというきゅうりの浅漬けと、「これ絶対旨いから!」とおにぎり。焼いたおにぎりを見たことが無い海外勢は興味津津の様子だ。 レインは自炊をしないが、オランダ男としてBBQだけは別だった。父と暮らしたフローニンゲンではボートを出して湖上でBBQをやっていたほどで、下ごしらえも抜かりない。スペアリブや鶏肉を仕入れ、近くの食料品店で手に入る限りのスパイスでマリネをして持参していた。 そしてルカ。このバイキング達の中で唯一の南半球出身者であり、多くのBBQグリルが備え付けられているビーチから来た若者が用意したのは、殻付きの牡蠣だ。 ただ焼き牡蠣にするのではない。まずダイス状にカットしたベーコンを炒めてウスターソースとオリーブオイルで調味し、それを牡蠣の身に乗せてから炭火で焼くのだ。 ルカに料理名を聞くと「キルパトリック」だと返ってきたが、発祥や由来は知らないとのことだった。 牡蠣の強いミネラルとベーコンのコクが相まって、一同はうまさに唸った。 「これは……店で出すべきだな」 レインがヒューゴに向けて、確信したように言った。 「ちょうどパーティ用のメニューにシーフードを増やしたかったんだ。どうしてもスモークサーモンに偏ってしまうのが悩みでね」 「おい、それじゃ俺みたいなただの客には縁が無いってことか」 「そ、それなら僕が……個人的に」とルカがパッと顔を上げた。「ランチに来てくれたら……作れるはず」 レインは一瞬、小首を傾げてから、僅かに下唇を噛んだ。 ルカにとってみれば、レインがランチタイムに顔を出さなくなって久しいことに、今更ながら気がついたからだ。 「ああ、そうだな。最近は……」 「そうしろよ、レイン」とヒューゴが明るく発する。「夏季休暇中は時間も自由になるだろ」 「まあ講義が無い分はな。研究はあるから出勤は免れないが」 「ルカの出勤は火曜から木曜だ。知っていると思うが。仕事の後は野菜の世話をしたり食事をしたりと、だいたい3時頃までは居る。だよな、ルカ」 「うん。だから、レインのタイミングが合えば、いつでも来てよ」 「……わかった」 「毎日ここで牡蠣を焼いてもいいんだぞ」ヒューゴが牡蠣殻をナイフでコツコツと叩きながら、レインを横目で見た。 「過剰摂取は痛風や銅欠乏症のリスクが上がるぞ」 医者らしい側面を見せたレインに、ケイがやや羨望の目線を向けながら「でも牡蠣に含まれる亜鉛は男にとって有益だよね。テストステロンの生成に関わる」 「というと?」涼子が恋人を促した。 「精子の形や活動、さらに言うと勃起力の向上などだね。しかも、薄毛の予防効果もあるんだ」 滑らかに説明する若者をレインは目を細めて見て、続きを請け負った。 「科学的には微量元素にすぎないが、男にとっては触媒だ。精力を高め、欲望を煽り、持続させ、尽きない衝動を生む。つまり——愛の元素だ。男の身体を研ぎ澄まし敏感にする」 ヒューゴが軽く舌打ちをした。これはネガティブなものではなく、北欧でよく見られる感嘆のリアクションだ。そしてからかいの眼差しをルカに向ける。 「であれば、牡蠣を持ってきたルカに下心があるってことでいいかな」 「待って。英語でもう一回説明してほしい。牡蠣の何が愛だって?」 そこでレインは、少しニュアンスを変えて、ルカ個人に響くよう言い直した。 「誰かを煽るために牡蠣を持ってきたのか」と囁くような低い声でレインにからかわれ、ルカはかすかに赤面しながら大慌てで否定した。 レインはルカの反応を受けて楽しげに微笑み、話を続けた。 「と言っても過剰な追求は想定外の結果を招く。以前、若い男性患者が、何度も食中毒に似た症状で受診してきたことがあった。聞けば、相当数の牡蠣を食べていたんだ。海の近くで、新鮮な牡蠣がたくさん採れるのをいいことに。一日20個から30個を毎日だ。最初は好物だからと言っていたが、何度腹を壊しても止めない。さっきも言ったが痛風のリスクもかなり上がるため強く諭したら……結局、ペニスのサイズを大きくしたかったと涙ながらに白状した。どこかで聞きかじったんだと。その日は嘔吐と腹痛と酷い勃起が一度に起こって……あまりに収まらないからナースたちは見物に来るし、俺は笑いを噛み殺すのに必死だったよ、ハハハ」 「……レイン。みんな食事中なんだが」 軽くたしなめながらも、ヒューゴは久しぶりに幼馴染が見せる笑顔と饒舌さを心から喜んでいた。 本来のレインは陽気で、話し好きで、どんな集まりにでも誘われる社交性を持ち合わせているのだが、戦場から戻った彼はまるで別人になってしまっていた。 近頃は、昔の彼に戻りつつあるのではと思わせる瞬間が徐々に増えてきていたが、今日でそれは確信に変わった。 涼子はB級ホラー映画等その手の話が好きらしく、レインに他のエピソードは無いのかとせがんだ。 生物学准教授は強靭な両腕を胸の前で組み、考える素振りをして見せ「あるよ」とニヤリと笑った。 ルカたちは目を輝かせレインを促すが、「後悔しても知らないぞ」とヒューゴは警告する。欧州に戻ってからも交流があった彼は、すでに知っているからだ。 「医大で当直をしていた時だ。俺自身、博士課程に居たから学生とは面識もあって何かと相談に乗っていたんだが……夜中に突然宿直室がノックされて、ドアを開けたら、幽霊みたいに蒼白の男子学生が、下半身にバスタオルを巻いて必死の形相で立ってたんだ。急いで室内に呼んでも、なかなか入って来ない。どうしたのかと傍に行ったら、尻から長い棒が飛び出していて……」 「う……聞くのが怖い」とルカが両手で顔を覆う。 「……やめようか?」 「だめよ、レイン」 「さすが涼子だ。……で、学生寮から宿直室まで徒歩数分の道を1時間かけてたどり着いたってんだから、もうこれ以上歩かせられない。車椅子に前後逆に座らせて、ようやく診察室まで運んで、バスタオルを剥がすと……トイレのブラシのな、ブラシ部分が尻に……」 「ちょっと待って。今、ブラシって言った?」ルカが英語で確認する。 「そうだ。柄は外へ出ている。ブラシ部分が入って抜けなくなってたんだ」 「どうしてそんなことに……?」 「さあな」 「原因を聞かなかったの?」ケイが当然の疑問を抱く。 「聞かれたいか?君がそいつの立場だったら」 「確かに……本当のことは言えない、かも」 「だろう。それが治療に必要なら聞いただろうけどね」 「それでどうなったの?」 「慎重に取り出したまで。3日もすればケロリとしてたよ。ま、深夜の異物挿入はよくあることだが、なぜか皆、俺が当直の時に限ってくるんだよな、ハハハ」 またおかしげに笑うレインに、ヒューゴは呆れ顔を向ける。 「こいつの持ちネタはこっち系ばかりで嫌んなるよ」 「Never invite a biologist and a doctor to dinnerって言葉を知らないのか。生物学者であり医者である俺を呼んだ時点で覚悟しとけ」 「レイン独りで2倍楽しめるってわけね」と涼子がはずんだ声を上げる。ヒューゴの言うようにレインはこの手のネタに尽きないが、「今夜はここまで」と打ち切った。 さすがに、食事時にして良い話題のボーダーラインが低いだけで、良識を欠いているわけではない。 炭火の赤が小さくなる頃には皆の腹も膨れ、ランタンの灯がゆらぐ。 湿り気を帯びた夜風が、庭に育つトマトやハーブを揺らすたび、影が柔らかに揺れては戻った。 ワインを傾け、取り留めもない話を続けるうちに、ルカがウクレレを取り出した。 小さな楽器から、やわらかな低音が流れ出す。彼は炎の残り火を見つめながら、声を低く落とし、夜に寄り添うような歌を紡いだ。 その歌声が庭の奥にまで染みわたったとき、ふと涼子が小さく声をあげた。 「……見て。レイン、寝ちゃってる」 皆が振り返ると、椅子にもたれたレインが静かに目を閉じていた。 呼吸は深く、肩の力は抜け落ちている。 ヒューゴは思わず眉をひそめた。彼はレインの不眠を知っていたからだ。何年も眠れぬ夜を重ねてきた男が、仲間に囲まれた夜の真ん中で眠りに落ちている——それはほとんど奇跡のように思えた。 「……嘘だろ」 呟くヒューゴに、涼子は微笑み、ケイは「寝顔すら精悍だ」とただ感嘆の息をもらした。 涼子は「せっかくだから、寝かしておいてあげよう」と提案し、店の厨房からデザートを持ち出す。ヒューゴの作るデザートの中でも絶品と評されるクレームブリュレだ。 「そんなこと言って、レインの分も食べるつもりなんだろう」と兄にからかわれて軽くむくれる。仲の良い兄妹だ。 そうして、スモーキーな食事と甘美なデザートをエスプレッソで締めくくっても、レインは目を覚まさなかった。 他の者たちが帰り支度を始めるなか、ルカがヒューゴに近寄る。 「俺、ここに残っていい?レインが起きるまで」 その瞳には、抗えぬ必死さが宿っていた。 ヒューゴはしばし迷ったが、やがて黙って頷き、店の鍵をルカに渡した。レインもルカもここから徒歩圏内に住居があるため、時間に囚われることはない。 レインがランチタイムに顔を出さなくなって以来、ルカの言葉の端々に寂しさが滲んでいることに、ヒューゴは気がついていた。 今日のルカは久しぶりに見るレインに飛びかかる勢いで挨拶をし、隣を真っ先に陣取って何かと話しかけていたり、彼が席を離れれば目線で追っている。 レインは確実に、ルカがいる時間を狙って裏庭に通っている。ヒューゴにはその目的は分からないが、極々プライベートなことなのは間違いない。 ——二人の間に何かが芽生えようとしているのであれば、自分はほんの少しの肥料でいよう。 ヒューゴは微笑んだ。 「好きなだけいるといいよ」 そう言い残し、ルカに鍵を預けて庭を後にした。 静寂が戻った裏庭。 虫の声と、風に揺れる葉音だけが夜を満たしていた。 ルカは時折囁くように歌を口ずさんだり、急に黙り込んだりしんがら、椅子に腰掛け微動だにせず眠り続けるレインをじっと見つめた。 ランタンの光に照らされるその寝顔は、昼間の鋭さを脱ぎ捨て、ただ無防備な安らぎを浮かべている。 閉じたまぶたと穏やかな唇の線が、レインの持つ拒絶の影をやわらげ、ひどく無防備な美しさを与えていた。まるで嵐を知る海が、一瞬だけ凪いだときの静謐さ。 見つめる者を、抗えない引力で引き寄せてしまう。 匂い立つような欲望にも似た切なさが、喉を焦がした。 「……ずっと見ていたい……ような」 ぽそりとした囁きに、自分自身の胸が締めつけられる。 ルカは低く、息を吐くように歌を続けた。 レインがその声に導かれて、深く眠り続けることを祈りながら。 ——午前一時。暑くもなく寒くもない、心地よい月夜だ。 レインはふと目を開けた。 その目にルカが映り、思わず息を呑む。 「一体……」 驚きと戸惑いが入り混じる声。長い間、不眠に縛られてきた自分が、人前で眠り込んでしまったことに羞恥すら覚える。 ルカは静かに笑った。 「すごく、気持ちよさそうに寝てたよ」 その笑顔に、レインの胸は不思議な安堵で満たされた。 「そう、か」 「疲れてたの?まあ当然か。学生の相手、大変そうだし」 「ああ……」 ルカの歌声だけが眠りをもたらすとは、言わなかった。 それがない週末は、やはり元通りの暗い不眠に陥っている。ヒューゴからBBQに誘われた時に真っ先に浮かんだのは、もしかしたらルカが歌うかもしれない、という淡い期待だった。 傍らにウクレレを持っているルカを見てすぐに確信し、それからのレインは安堵に見舞われ上機嫌だった。 「医者のヘルスネグレクトってやつでしょ」 からかうような明るい口調だが、その一生懸命に日本語で話そうとしている様子にレインは微笑んでいた。 (この若者は、こんな些細な会話ですら俺の心を軽くさせるのか——) 「医者の不養生、な」 「難しい言葉だね。やっぱり起きるまで放っておいてよかった。こんないい夜に、日本語の授業なんてされたらたまんないよ」 ルカはランタンの明かりに映されたレインの笑顔に、また見惚れる。 引き締まった体に低い声。そんな人物は、地元にだって沢山いる。 でも——こんなにもレインに惹かれるのは—— 彼の存在は、ルカの周囲の大気を震わせる。 声は鼓膜だけでなく呼吸にまで入り込んで来て体内の神経に直接触れてくる。 レインは瞬き一つで、波紋のように存在を知らせ、どうしてたってそちらに目を向けさせる。 それなのに、俺に触れるなとばかりの無愛想な態度に、深く刻まれた眉間の皺。シャツの空いた胸元から覗くケロイド状の傷跡。 「もう——こんな時間か。皆は?」 「とっくに帰ったよ」 「……君は?なぜここに?」 「なぜって……。あ、店の鍵を預かって……」 「戸締まりのために残ったの?」 ルカがかすかに頷いたのを見て、ふぅん、とレインは低く喉を鳴らした。 「残ることになったから、戸締まりを任せられた。そうだろ?」 「……そう、かも」 はにかみながら顔を伏せたルカに、レインは笑いかける。 「居てくれて助かったよ。朝まで目覚めなかったら、蚊にやられて酷いことになっただろう。さて、俺たちも帰るか」 戸締まりを確認し、二人で裏庭を後にする。 レインは店の前から公園に入り、そのまま横切って藪に入り込んで行く。 「来い。近道を教えてやる」 公園の周囲には背の高い木々が生い茂り、自然体のまま雑木林として、この辺り一帯を覆い隠している。もちろん街頭もない。そんな暗闇を、レインはまるで暗視ゴーグルでも着用しているかのようにズカズカと歩みを進める。 「あ、待って」ルカは足元を照らすためスマートフォンを取り出そうとしたが、間に合わなかった。 「うわっ」 足元の何かに躓き、上体が大きくつんのめったその時—— 「ッ!大丈夫か」 両腕の下に腕を回され、ほとんど宙に足が浮くほどがっしりと支えられていた。足元には木の根が地面から盛り上がっている。 「う、うん。平気だけど……よく視えるね?」 「この道は……獣道ですらないが、俺とヒューゴが子供の頃に作ったルートだ。お互いの家を最短で行き来できるんだが、もう草に埋もれてしまっていたのを復活させて……俺は目を瞑っても歩ける程だが、すまん、気が回らなかった」 態勢を立て直したルカは左右を見渡した。確かに通れなくはない程度に除草がされている。 「どれくらい近道になる?」 「10分程度は短縮できるはずだ。君も使えばいい。店まで徒歩だろ」 「いいの?」 「別に私有地じゃあるまいし。ただ、夜の独り歩きは控えたほうが……」 レインはそう言ってからすぐに、この治安の良い地域で、しかも長身の外国人男性が危険な目に遭うリスクがいかに低いかを自覚した。同時にそれは、ルカからの返答でも証明される。 「そう?僕らみたいなのが日本で襲撃されるとは思えないけど」 「では……こう考えろ。深夜にこんな藪からひょっこり外国人の男が出てきたら、相手のほうが驚くだろう。警官なら職務質問は免れないぞ」 「確かに」 コクリと頷いたルカの素直さに、レインは胸が締め付けられるような感覚を覚えた。 「進むぞ」 力強く、しかし驚くほど静かな仕草で、レインはルカの指を絡め取る。 「あ……灯りを……」 「必要ない」 夜のざわめきを裂くように、低く短い声が、闇に溶ける。言い訳のようでいて、拒絶を許さない響きを帯びていた。 繋がれた手は温かく、余計な言葉を挟む余地を与えない。そのまま歩き出したレインに、ルカは振りほどく素振りを見せることなく、ただ真っ直ぐについて行く。 夜風が木々を揺らす音さえ、どこか遠くに感じられる。 やがて雑木林を抜けると、向かい側には、すでにレインの教会が姿を表している。 道路を渡り、街頭の灯りに照らされ、ようやく視線が絡む。 言葉にしなくても互いの鼓動が伝わりそうな距離で、ただ数拍の沈黙が流れた。 それでも最後には、レインが不器用に指を解き、淡い吐息を漏らす。 指先に残った温もりが胸の奥でざらりと広がる。 「……ここが俺の……」 「知ってる」 「だろうな。ヒューゴは君に何でも話しているらしい」 「うん。でも……個人的に、知ってる」 「ん?もう教会としては機能していないが……」 「ねえ、明日……もう今日だけど、教会に来てもいいかな?」 「ああ、構わないが……?」 「いろいろ直してるって聞いた。僕でよければ、手伝わせて」 「大歓迎だ。来たら声を掛けてくれ」 「それじゃあ、また……後で」 「ああ」 それは別れの言葉であり、同時に約束を孕んでいた。 ルカは笑顔で軽く手を振ったが、足は鉛のように重い。それでも数歩離れ、振り返らなかった。 レインは突っ立ったまま、掌をじっと眺めた。 呼び止めたい気持ちは、声にならず喉の奥で絡まる。 夜風が、それぞれの背中を押すように吹きすさんだ。 互いの未練を知りながら、沈黙を貫いて、互いの帰路へと別れさせる。 レインは、じっくりとシャワーを浴びてから窓辺に立った。まだ若干の眠気が残る身体が心地よかった。 この夜がすぎるのが惜しい。しかしルカが来る明日が待ち遠しい。 幾年ぶりかの——何も恐れない夜。 その同じ時刻、ルカはベランダで夜風に吹かれ、月を仰いでいた。 浮かぶのは、眠りに落ちたレインの顔。 ふいに握られた……手の温もり。 胸の奥でじんと疼く感情に抗えず、彼は小さく口ずさむ。今夜、最初に歌った旋律を。 同じ瞬間、レインも夜空に輝く月を見上げていた。 気づけば、あの歌が脳裏に蘇り、無意識に唇からこぼれ出る。 ——それぞれの場所で、同じ月を仰ぎ、同じ歌を口ずさむ。 その響きは互いに届かないはずなのに、確かに夜空の下で重なり合い、裏庭に宿った祝福の残り火をふたりの胸に灯していた。

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