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第7話 裏庭に宿る祝福

ルカの身体には、海で育った者だけが持つ均整が宿っていた。痩せ型だが輪郭の中にしなやかな筋肉が浮かんでいる。無駄な脂肪はほとんどなく、腕や肩の線は引き締まり、背筋には自然な強さが通っていた。幼少期からサーフィンで培った姿勢は、無意識のうちに背を伸ばし、胸を張らせ、ベースに隠されていながらも身体のバランスを示していた。 肌は日差しに焼かれ、ステージライトの陰影がオリーブ色の濃淡を浮かび上がらせる。 日本に来て海へ出る機会がなくなったため多少色は薄くなったが、それでも日焼けの名残は消えず、健康そのものの光沢を放っている。 その上に淡い金が差す髪が降りかかり、潮風に削られたような無造作な明るさを作り出していた。 そして、視線。ライトを受けた金色の瞳は光を吸い込むように強く、それでいて時折、不意に翳りを帯びる。 ルカの姿は、健康的で、自然で、誰にでも好感を抱かせる。 だが——レインの目線は、その肉体と顔立ちに潜んでいる説明のつかない色気を捉えていた。若さに似合わぬ艶やかさは、本人が意識していない分だけ一層際立っている。 奇妙な後ろ暗さ。 レインは、自分がここにいることを誰にも知られたくなかった。特にルカには。 純粋に音楽を聞きに来たと言えるが、何故かと問われると答えられない。 ジャズが好きなのか、生演奏がある環境が好みなのか、偶然飲みに来ただけなのか、バンドのファンなのか、どれにも当てはめることができない。 ただ、不眠を解消するためだと——音好きが集まる夜のバーで、言えるわけがない。 音さえ聴ければいい—— レインはカウンターでビールのボトルを受け取るやいなや、一際暗い角を見つけて、長身を壁にもたせかけた。明るいステージ上からは死角であり、また、暗闇に浮かぶ大柄な肉体は威圧感でしかなく、声を掛ける客もいない。 レインはしばらくバンドの演奏に耳を傾けた。 ルカは向かって右手で、ほとんど顔が見えないほどに俯いて弾いていた。長めの髪が若い美貌を隠し、それはまるで顔ではなく音を聞けと言わんばかりだ。しかし、時折頭を上げて、鬱陶しげに髪をかきあげると、ハッとしたような張り詰めた空気が客席に走る。 その姿を、レインは無意識に細められた目で追っていた。 口に付けたビールが無くなったことで、レインは初めて時間の経過を知った。その場で小さく首を振り、素早く店を去った。 演奏は見事だった。誰の耳にも疑いない。選ばれた曲目も、技巧も、完璧だった。 だがその夜——ルカは、歌わなかった。 なぜ自分は「ルカが歌う」と思い込んだのか。 ヒューゴが「ステージに立つ」と告げた、その言葉だけで、当然のように彼の声を想像していた。あの声が響くと疑わなかった。愚かしいほどに。 実際に残っているのは、声ではなく低く確かなベースの音色だ。 ピアノ、サックス、リズムが交差する中で、耳は必死にルカのラインだけを選び取ろうとする。 厚みをもたらし、曲の土台を揺るがすことなく支える響き。寡黙な役割を果たすはずの低音が、不意に甘やかに脈打ち、心臓の裏側を震わせる。 ——それでも。 あの夜のようには、心を眠りに導いてはくれない。 薄い眠気が訪れはする。意識は緩む。 だが、それは彼の声に包まれて堕ちていった、あの深い安堵とは決して同じではない。 レインは目を閉じたまま、奥歯を噛みしめた。 眠りに足を踏み入れながらも、心は醒めたまま——。 それでも、迎えた週末は、普段より幾分かはマシだとレインは感じていた。 その証拠に、途中で手つかずになっていた古い教会の修繕を進めることができた。ペンキを塗り替えただけでは隠せない箇所、たとえば床のひび割れをパテで埋める、歪んだ窓枠を作り変えるなどだ。 父と暮らした家は、ドイツ国境にほど近いフローニンゲンにあった。古いが頑丈で、エントランスの床には建築当時のモザイクがそのままの形で残っており、訪れる人の中にはその価値を知る人も少なくなかった。 そんな家を立てた祖父によりデザインされたこの教会も、日本人大工たちが限られた建材を工夫してこしらえた、素晴らしい建物となっている。 ここを売ってしまうなど、到底考えられなかった。 どんなに時間がかかろうと、直して—— レインの家系は、代々牧師を輩出してきた。祖父はフローニンゲンの小さな町から日本へ渡り、この教会を建てた。今では壁はひび割れ、ステンドグラスは煤け、雨の日には堂内に水が落ちる。 幼いころ、その空間は祈りと沈黙の象徴だった。だが成長するにつれ、レインは「奇跡」よりも「因果」を信じた。神の意志よりも、血流と神経とシナプスが作る真実を。医学を選んだのは自然な帰結であり、信仰を裏切る行為ではなかった。——少なくとも、自分にそう言い聞かせてきた。 だが、祖父が残した教会の老いさらばえた姿を見るたびに、胸の奥で錆びた罪悪感が疼く。受け継ぐ気のない自分のせいで朽ちていく。瓦が落ちる音は、断絶の音に聞こえる。 祖母はそんなレインの心を包み込むように優しく微笑みかける。 それは嬉しくもあり、辛くもあった。 それでもレインには、おぼろげながらも夢がある。 教会を修繕し、礼拝堂を外来患者の待合に変え、説教台のあった場所に診察机を置く。静かな祈りの場を、治療の場に変える。人を救うという一点において、祖父と同じ志を貫くために。 だが、彼らと異なる手法を選んだことは冒涜になるのではと考えることもあった。 答えは出ない。出そうとすると、背後から祖父の影が見下ろしている気がする。 ただ——こんなにも壊れてしまった自分では、人を救うことなどできるわけがない。 ——克服しなければならない。 家族、友人、そしていつでも暖かく接してくれる幼馴染。大切な人たちのために、意義のある存在であれるように。 ◆ ◆ ◆ 火曜日になるのを待ちかねて、レインはバイクに跨がりヒューゴの店に向かった。 日曜と月曜はヒューゴの店が定休日。二日間空くだけで、耳にかすかに残っていたベースの音は完全に消え去っていた。 あえて時間をずらしたのは仕事のせいではない。 裏庭に足を運べば、ルカがまた声を響かせているのではないか——そうした期待にあった。 店の駐車場にバイクを停めるのではなく、少し離れた公園の駐輪場にヴァルカンを置いた。エンジン音で来店が気づかれるのを恐れたからだ。ヘルメットを外し、風を切ってきた熱の残る髪を手で撫でつけながら、静かに歩を進める。足音ひとつでも邪魔をしたくなくて、レインは自分が人目を忍んでいることに、ほとんど子供じみた緊張を覚えた。 そして、手前にある脇道に入った。そこから、直接ヒューゴの家の裏庭に繋がっているのだ。裏門の鍵はずっと昔から壊れているが、この辺りの住民には他人の土地に入るような人間はいない。 脇道は背の高い草で覆われ、長年人が通っていない様子だった。ヒューゴ宅の裏庭はL字型をしており、家屋から直線上に進んでから直角に曲がって初めて、この脇道と裏門の存在が分かるようになっている。 ここは幼少期にヒューゴとよく過ごした場所で、生い茂る木々が林のように隣家との隔たりを埋めている。周辺家屋や通りからは一切見えないため、二人はここに秘密基地をこしらえて、スナック菓子や漫画を持ち込み、ゲーム機で遊んだ。テントを建ててキャンプの真似事をしながら何日か過ごしたこともある。 庭の奥にはブラックベリーやミントが生い茂り、先へ進むことが困難に見えるし、まさかL字型に続いているとは誰も気が付かないだろう。葡萄棚や石窯がある位置からは死角で、まず見つかることはない。 レインは子供時代を懐かしみながら、そして再び、バーで足を忍ばせたときに感じた自分の幼稚さに自嘲した。 いっそ、ヒューゴに隠れてここに自分専用の隠れ家を再構築してやろうかと頭をよぎる。 ゆっくりとその場にたどり着き、小さく深呼吸をする。 木漏れ日と青臭い土の匂いの中に、その声はあった。 透明でいて研ぎ澄まされながらもどこか甘やか。 胸腔を震わせ、骨の奥にまで染み込むような響き。 言葉を理解するより早く、音そのものが血流に溶けていくような感覚に、レインは立ち尽くした。心臓が不意に鼓動を強め、耳の奥で血が打ち鳴らす。 音響学の専門家なら、倍音、周波数、共鳴を科学的に説明するだろう。だが、この瞬間、ルカの声はただ声以上のものとして、彼に降り注いでいた。 それは、祝福のようだった。 ——そうとしか言えなかった。 レインは長居をせず、そっと踵を返した。まだ歌の余韻が耳朶に残るうちに、音を乱さぬよう静かに去る。 店内に回ると、ちょうど上階からヒューゴが降りてくるところだった。軽く挨拶を交わし、料理を注文することもなく店を出ようとするレインをヒューゴは呼び止めた。 「ずいぶん忙しそうだな。ちょっと待ってて」 ヒューゴは素早く厨房に入ると、すぐに小さな紙袋を持ち出して来てレインに手渡した。 「どうせ何も食ってないんだろ」 「ああ、助かる……。そうだ、明日もテイクアウトで頼めるか」 「もちろん。ランチが売り切れていたとしても、ちょうどルカのまかないの時間だ。食いっぱぐれることはない。今日はローストポークのサンドウィッチだってよ」 レインは手に持った紙袋を軽く掲げた。 「というと、これは彼が?」 「ああ。僕も自分の料理に飽きを感じることがあるから、よく作って貰うんだ。肉とパンだけのサンドウィッチなんてオーストラリア人らしいが、やっぱり旨いよ。なんなら、ルカもまだ裏庭で食べている頃じゃないかな。声をかけてみたら——」 「いや、いい。また」 短く告げて、やや慌て気味に去って行った幼馴染に、ヒューゴは背後から笑いかけた。 バイクのエンジン音がないままでも、レインが来店していることは気がついていた。 数年前、店で使う野菜を裏庭で育て始めたところ、動物に食べられるようになり、裏庭にモーションセンサーの監視カメラをつけたのだった。主に、どんな動物が来ているのかを知るためで、防犯や獣害対策はおまけみたいなものだったが。 まさか、昼間からあんなに大きい生き物がやってくるなんて—— 「切っといてやるよ」 ヒューゴは笑いを噛み殺しながら独りつぶやき、二階のオフィスに上がると裏庭の横道を写しているモニターをOFFにし、ついでにカメラ側の主電源を切るため庭に降りた。 数年前は最新だったが今やモノクロで画素が低く、外壁に走るポイズンアイビーの蔦に巻き込まれてほとんど一体化している。元軍医で過酷な戦場を経験したレインがカメラの存在に気が付かなかったのも納得だった。 ヒューゴは躊躇なくそのままカメラ本体を外し、廃棄することに決めた。 脇道側からは見えずとも、すでに裏庭にルカの気配は無く、トマトの青々した香りがかすかに漂っているだけだった。 一体レインが何のために裏庭で佇んでいたのかは不明だが、今日の彼はいつもより顔色が良く、短い会話でもわかるほど声のトーンも弾んだ調子だった。 幼少期を思い出すことが彼の救いになるのかもしれない。であれば、なおさらカメラなど不用だ。 ヒューゴは踵を返し、再びオフィスへと戻った。 その日を皮切りに、遅いランチのテイクアウトを理由に、店の裏庭を訪れることがレインの日課となった。 いや、正確には「歌声に触れるために」足を運ぶ。自分の中でその行為をどう名付ければよいのか、レインにはまだ分からなかったが、滑稽だとは自覚していた。 ただ一つ分かるのは—— ルカの居ない金曜日から、再び出勤する火曜までがやけに長く感じられるという事実だけだった。

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