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第6話 残響

早寝早起きは、人に健康と富と知恵を与える—— レインは出勤後、ベンジャミン・フランクリンの言葉を身にしみて実感していた。 博士課程の学生への指示にも悩むことがなく、執筆中の論文は筆が乗り、己でも驚くほどのパフォーマンスだった。 後ろ髪を引かれる思いで出た講義においても、普段なら面倒で「読んでおくように」と紹介だけで済ませる論文をわざわざ簡潔に説明する気になったり、「これは余談だが」と授業の合間に、自身の学生時代についてちょっとした話が口をついて出たほどだった。 学生たちは、この強面で冷淡な外国人講師が初めて披露した雑談に大いに湧いた。 「先生、その話もっと聞きたいです!」 声を上げたのは留学生だった。日本人はどうしても遠慮しがちだが、こういう場面では声の大きい人物に助けられる。 「だめだ。君らのことだから、どうせ雑談しか頭に残らない」 「ええー!それはひどい」 「そんなことはない。『先生、もっと授業を』というリクエストが君たちから出た覚えはない一方で、雑談は聞きたい。それはどうしてか?」 今度は手が挙がり、レインが発言を促す。優秀だと覚えのある女子学生だった。 「認知心理学によると、記憶は選択式だからです」 「Exactly. まず、人間の心は物語を理解し、記憶することを非常に得意としている。教科書と異なり、雑談には登場人物や出来事の因果関係等の多様な要素が含まれているため、聞き手の感情に訴えかけ易い。その結果、自分となんら相互関係のない講義内容は一切記憶に残らない。ようは、人間の脳は覚えたいことだけを覚えるようにできているってわけだ」 「先生、それじゃあ僕らはどうやって教科書を覚えればいいんでしょうか」 「Good question. これまで努力して暗記をして来たからこそ出る疑問だな。先ほど言ったように、教科書や授業を、対立や葛藤といった物語の要素を軸にして組み立てるのは、学習にとって大きな助けになる。さらにそれは、自分と『関連性を持っている』物語であるべきだと言われている。それなら人は興味を持ち、記憶に残る、ということだな。 しかし俺は正直なところ、やや賛同できかねる。 まず一つ、自分に関連付けるには無理がある場合が多いからだ。シェイクスピアの悲劇や量子力学が直感的に身近か?これらを日常生活に引き寄せようとすればするほど、かえって不自然で、非現実的と思うだろう。 もう一つ。もし、学生に関係なさそうに見えるものを教師が上手く関連付けて説明できなければ、それは教える価値がないということになるのか?そうじゃないだろう。学校の科目を常に君たちの日常とどうつながるかの視点で語り続ければ、学生は『学びは全部自分たちのためだけにある』と勘違いするかもしれない。 もちろん、学生の関心事について話すのが無意味だと言うつもりはない。ただし、興味は『きっかけ』として扱うべきだ。そこから君たちが学問の本質に入っていくための足掛かりとして」 低く湿った声が、学生たちの耳の奥をゆっくり撫でていく。 諭すような調子は、講義というより秘め事のように心を落ち着かせ、時に体温を揺らす。言葉の意味を理解せずとも、その声の深みに酔い、ただ聞いていたくなる——そんな理由で彼の授業に惹きつけられる学生がいても不思議ではないほどだ。 僅かな沈黙の後、別の学生が反応を示した。 「じゃあ、もう雑談は無しってことですね。授業に興味を持つきっかけとなるような関連性を自分で見い出せ、と」 「まあな。しかし、日常に結びつかなくてもいい。むしろ、俺はそこから切り離されていればこそ、異質で、面倒で、そして時に美しいと思うね。そういう感覚を味わうことに価値があるんだ。もちろん、最初は辛い。関係ない、役に立たないと文句を言うだろう。でも、そこで逃げずに触れる。すると、ある瞬間にわかる。『これは俺の世界とは違う。だからこそ、面白い』ってな。 授業で俺たち教師が渡すべきものは、『日常の延長』じゃない。『非日常』そのものだ。そこに橋をかけすぎて、川そのものを埋め立ててしまっちゃ意味がない。 ……さて、ここは生物教室であって教育学科でも哲学科でもない。今日はこのあたりまで」 レインはそう締めくくると、流れるような動作でさっさと手元のノートPCをたたみ、プロジェクターの電源を落とした。 満員御礼の教室に、学生たちの不満気なざわめきが充満する。 雑談が無くともレインの授業は分かりやすいと評判で人気だったが、今回の学生受けは格別だったようで、アンコールが湧きそうなほどだった。 「先生、今日の授業の録画はありますか?」 「ああ……復習するなら大歓迎だ。雑談部分はカットして上げとくよ」 「そんなあ」 レインは研究棟の自分のオフィスに戻り、バイクのキーとヘルメット手にするとすぐに部屋を出た。廊下にはすでにカフェテリアから昼食の香りが漂ってきている。 調子が良いのは授業だけでなく、胃も同様だった。 久しく感じていなかった食欲に急かされるように駐輪場に向かう。 午後の授業まで2時間あまり。ヒューゴの店でのんびりと論文を読むのも良い。 Kawasakiの重厚なバイクに跨がり、イグニッションキーを回した。 マフラーの低い唸りと、街の空気に混ざる排気音が、妙に自分の心拍に似ていることに気づく。低く重い振動が、胸の奥まで伝わってくる。 大きな公園の角を曲がるとすぐに目的の洋館が現れる。 レインが育った教会のある家も相当に異国風だが、祖父の出身地であるオランダを大いに模しているため、どことなく牧歌的な雰囲気がある。 それに比べると、隣国同士とは言え、ドイツ風のヒューゴの家はよりヨーロッパに近い印象を与える。 店先の駐車スペースに停められた藍色のSAABがその一環を担っているのは間違いない。レインは壁と車体の間に隙間を見つけ、バイクを押し込む。 革のジャケット、マットなタンク、少し焦げた排気の匂い—— それは、戦場で長い時間を過ごした時に感じた匂いとどこか似ていた。忘れるべきことであり、かつ忘れるべきでない記憶。静かに、でも確実に心をざわつかせる何か。 昼の日光が、店の床に影を落とす。 客はまばらで、レインはヒューゴからカウンター越しに目線を受けて、スツールに腰をかける。彼の存在感が、店の空気をほんの少し重くする。 常連客ではないテーブル席から、感嘆のような褒め言葉の囁きが聞こえてくるが、敢えて聞かないように意識をシャットアウトする。 ヒューゴと並ぶと、彼の飛び抜けた美形のせいで巻き込まれがちなだけで、自分などただ平均より大柄な男というだけだ—— しかし、本人の認識とは異なり、レインには他の追随を許さない魅力があった。 鋭い顎と頬骨は、戦場で削られた鋼のように硬質で、そこに落ちる影が彼の生き様を物語っていた。美しいだけではない、過酷を知る男の顔。 その眼差しには冷徹な理性が宿り、観察者としての知性を静かに告げる一方、底には触れれば灼けつくような熱が潜んでいる。目元は深く落ちくぼみ、強靭さと同時に疲弊をにじませている。 濃いブロンドの髪は光を受けて柔らかく波打ちながらも、理知的な額や直線的な鼻梁にかかり、洗練されていながらも野性を思わせる。 皮膚に残る戦場が刻んだ傷跡は、彼の肉体をさらに荒々しく美しいものに変えていた。 厚みのある胸板を包むシャツは、その力強さを隠しきれず、肉体の輪郭が布越しに浮かび上がる。男臭さと共に漂うのは、理屈では説明できない官能。 唇はわずかに結ばれ、そこから放たれる声を想像するだけで、熱を孕んだ官能と理性の交錯を思わせる。 ——知と肉体、理性と獣性。 相反するものを併せ持つその姿に、目を逸らすことは容易ではなかった。 ルカは、テーブル席での接客しながら、低く響いたレインの言葉に、不意に体の奥を震わせられた自分を思い出し、頬が熱くなる。 まるで触れられたみたいに、まだ声の余韻が残っている気がして。 ——仕事中だろ。 そう自分に言い聞かせ、慌てて背筋を伸ばす。グラスを運ぶ仕草も、メニューを差し出す手つきも、プロとしての自分を必死に保つため。 それでも、視線はほんの刹那、レインに吸い寄せられてしまう。逞しい美貌に見とれたのではない。むしろ、その荒々しい影に。 まるで近づくなと告げているような冷たさ。 羞恥と抗いがたい魅力の間で、息苦しくなるほどだった。 通常、平日の昼間の営業においてヒューゴは階上のオフィスから出てこない。 しかしレインが越してきてからは、厨房でランチの用意をしつつ時間を過ごすようになっていた。レインがテーブル席に座ったなら自分もコーヒーを片手に向かい合うため、仕事ではなく、あくまで友達との時間のようだ。 そんなだから、ランチタイムはルカが独りで切り盛りしているようなものだ。 平日のランチ客はほとんどが近隣住民、しかも年配者が多く急がないため、ルカ独りでも十分に回すことができている。それに、レストランでアルバイト経験のあるからまるで水を得た魚のようにフロアと厨房を滑らかに移動しながら、常連客と言葉を交わす余裕もある。 ヒューゴはレインの昼食の用意に向けさっさと厨房に入ったため、ルカがにこやかに軽い足取りで近づいてくる。レインはその笑顔に少しだけぎこちなさを見出すが、不慣れなのかもしれないと思いすぐに気をそらした。 「こんにちわ、レイン。ランチでいい?」 裏庭でトマトに向かって口ずさんでいた歌声が、ふと耳に蘇り、レインは微かな笑みを浮かべた。 声そのものの力に、理屈では説明できない何かを感じる——軽やかで無邪気で、でも妙に芯の通った熱。 「……ああ」 レインは顔を上げた。この若いウェイターと、正面から向き合って会話をするのは初めてだ。 至近距離で見ると、ルカの明るい瞳の輝きが昼下がりの光を反射して黄金色に輝いているのが分かる。 肌にトマトの青い香りまで感じ取れる気がして、胸の奥で小さくさざなみが立った。 「……コーヒーを、一緒に」 低く、喉で転がすように言った自分の声が、妙に艶めいて聞こえる。ルカの視線が一瞬、きょとんと揺れるのを見て、レインは内心で舌打ちした。まるで誘っているような響きに、自分でも気づいてしまったからだ。 ルカは小さく頷き、注文票にペンを走らせる。だが手元の動きよりも、その横顔がやけに鮮やかに焼きついた。日に焼けてオリーブ色になった頬に、かすかなそばかす。若さと無防備さ、そこにほんのわずかな色気が混ざり合っている。 「アイスコーヒー?」 「ああ」 返す声は短く、抑えられていた。 だがルカの瞳は、ほんの一瞬、興味を帯びて彼を映した。 「ヒューゴは?」 「レインのと、たぶん自分のランチも用意しに行った。ねえ、英語でも良い?僕はオランダ語なんて話せないから」 「……楽しようとすんなよ。ヒューゴとも日本語だろ」 「ま、まあ、そうだけど」 レインはグラスの水に口をつけた。氷の音が小さく鳴り、場をつなぐ。 「昨日……」 言葉が喉まで上って、止まる。口にすれば、彼が歌っていたことを知っていると気づかせてしまう。無邪気なあの姿を覗き見たのは、自分だ。 ルカは小首をかしげて言葉の続きを待っている。 促すような、好奇心に輝く瞳。 「いや、いい」 短く答えた。 ルカはにこりと微笑み、「コーヒー、持ってくるよ」と再び軽やかな足取りで去って行く。そのさらりとした対応は、自然な優しさと知性を感じさせた。 レインは一瞬、ルカのスラリと均整の取れた背中を追いかけそうになって、首を振った。 ルカが去ったあと、テーブルに肘をついたまま、レインは無意識に深く息を吐いていた。 あの歌声は、植物のためのものだったのか。 それとも、ただ偶然そこで口にしただけだったのか。 問いは胸に沈み、舌の上では溶けて消えていった。 感謝を伝えたい——そう思っていた。 数年ぶりに眠れた夜。あれが偶然でないとすれば、きっかけは間違いなくあの歌声だ。 だが口にするには、余計なものが絡みすぎていた。 歌のことを話題にすれば、盗み聞きをしていたと白状することになる。裏庭でのルカは、あまりに無防備で、無垢だった。他人がその姿を物陰から眺めていたことを知れば、彼はどんな顔をするだろう。 さらには、自分の不眠のことを話さざるを得ない。 戦場の記憶を、人前で軽々しく口にする気にはなれなかった。事実を述べれば、同情や詮索を引き寄せる。それが何より耐え難い。 言葉が詰まるのは、ルカに隠し事をしたいからではない。むしろ逆だ。心のどこかでは、初めて眠らせてくれた存在に誠実でありたいと願っている。 だが、その誠実さを形にするには、あまりにも多くを晒さなければならない。 「……」 溶け始めた氷をひとつ、口に含んだ。冷たさは喉を通り抜けても、胸の奥の澱みを拭いはしなかった。 ただ一言、「ありがとう」と言えればいい。 だが、それだけでは軽すぎて、伝わらない。 かといって全てを打ち明けるような、親しい間柄ではない。 職場のオーナーの友人、もっと言えば、ただの客というだけだ。 どちらに転んでも、不均衡だ。 それを理解する理性が、口を固く閉ざさせる。 耐えきれずにルカをちらりと視線で追いながら、レインは思った。 感謝とは、こんなにも不器用で、こんなにも言い難いものだったか、と。 食事を終えてややすると、ルカがアイスコーヒーのお代わりを持って来て、空いた皿を手にしてすぐに去っていった。 ヒューゴはルカに小さく礼を伝えた後、ふとした調子で言った。 「毎週金曜の夜、ステージで演奏してるよ。ほら、この間紹介しただろ、クリスの店。生演奏の日は音好きが集まる。ルカの音は、不思議と人を呼ぶんだ」 レインは聞き流すふりをしたが、胸の奥に妙なざわめきが残った。 氷がグラスに当たる音が、やけに乾いて響いた。 ——金曜の夜。クリスの店。 ヒューゴには相槌だけを返し、午後の授業のため大学に戻る。 いつもの日常。 静まり返った廊下に、学生たちのスニーカーのソールが乾いた音を刻む。白衣を脱いだ男女が、笑いながら去っていく。 講義を終えたばかりの教室は、まだ人いきれの名残を漂わせている。 レインはその空間に再び足を踏み入れ、板書の消し忘れを無言で指先で拭った。 研究棟の自室では、書類の山が彼を待っていた。 データの数字は冷たく、規則的で、安心するはずのものだった。 だが、その均一な羅列の背後に、妙な「余白」がちらつく。耳の奥でまだ響いている音——ルカの残響。 「馬鹿げている」 独り言のように呟き、キーボードを叩く。 指は迷いなく進むのに、思考は絡みついて離れない。 眠れたのは偶然だ。 疲労か、たまたま神経が切れただけだ。そう自分に言い聞かせる。 だが、ルカの歌声が頭を占めていたことも、事実だった。 講義の途中、生徒に問いを投げかける。 「環境刺激は、生物の行動にどう作用するか?」 黒板に書かれる数式や模式図は、進化心理学の定石どおりだ。 だが頭の裏では、もうひとつの答えが忍び込んでくる。 ——声が眠りを誘うのは、環境刺激の一形態か? ——ならば、あの若者の声は、偶然ではなく必然の作用なのか? あり得ない。そんなもの、論文にも残されていない。 そう結論を下しながら、チョークを握る手に微かな苛立ちが走る。 帰宅後、シャワーを浴び、タオルを頭にかぶせ、ベッドに腰を下ろす。 だが眠気は訪れない。であれば、裏庭でのルカの声を—— だが、音は徐々に薄れていった。 まるで布に染みついた匂いが、風にさらされて消え失せるように。耳の奥で鳴っていた低い振動が、ひとつ、またひとつと消えてゆく。 時間は、時に優しく、時に残酷だ。 良い記憶も、悪い記憶も、すべて消し去ってしまう。 消えゆく音は、最初は静かに、次第に確かな欠落となって彼を襲った。余韻が薄れるたびに、胸の中にぽっかりとした空洞が広がる。あの安らぎが「現象」だったのか、それとも単なる錯覚だったのか。音が遠のくにつれ、その線はさらにぼやけていく。 指先に伝わるシーツの感触が現実を取り戻させる代わりに、むしろ虚しさを際立たせた。胸の奥で、何かが冷たく固まっていくようだ。 眠りは再び、レインの元を去ってしまった。 深く沈められたはずの交感神経が再び目を見開き、呼吸が浅くなる。喉の奥に残る乾き。目を閉じても、暗闇はもはや包み込んではくれない。 これまでに無かった、「眠れるかもしれない」という期待が奪われた空白が、彼を苛む。 時計を確かめる。まだ夜明けには早い。だが時間の経過は救いにはならない。レインは身を起こし、窓の外を見た。街は動き始め、新聞配達のバイクの金属音が遠くで目覚めの合図を鳴らす。自分の心拍だけが、静かに速まっていった。 机へ向かい、コーヒーを淹れる。苦味が舌に残るが、熱は手元の震えを収めはしない。ノートを開き、データを眺める。数値はそこにある。厳格で、冷たい秩序。だが目は字を追えず、思考は枝分かれしてどれも先へ進まない。 あの声が遠のいた穴を、仕事で塞げばいい——自分にそう言い聞かせる。だが、紙の上に書かれる論旨は今の空虚を埋められない。 再びベッドに戻ってみても、体が拒む。目を閉じれば、眠れた夜の記憶が一瞬だけ戻るが、すぐに消える。手許に残るのは、音が抜け落ちた痕の寒さだけだ。 自分の心と身体が、たった一つの声に深く影響を受けている。 「馬鹿馬鹿しい」 レインは独り言ちて、思考を止めた。 まるで麻薬の禁断症状ではないか。これまで付き合ってきた不眠に、戻っただけだ。 分析や説明ができないからこそ恐ろしい。そんなものに、首を突っ込んでどうなるというのだ。眠れた記憶を完全に忘れる方が身のためだ。 レインは、ヒューゴから聞いた情報を忘れることにし、クリスの店には行かない選択を選んだ。 ——しかし、それは木曜深夜に訪れた。 レインは浅い眠りに漂っていた。眠りと呼ぶにはあまりに頼りなく、ただ身体が沈むのを許しただけの状態。だが、そこに現れるものは決まって悪夢だった。 その夜は、とりわけ酷かった。 耳をつんざく爆発音。砂埃にまみれた空気。焼けた鉄の匂いが喉を刺す。叫び声と、小さな手が自分の袖を掴んでくる感触。振り払うことも、掴み返すこともできず、ただ血に濡れた土の匂いに押し潰されていく—— 「……ッ!」 レインは、荒い息を吐きながら闇に目を凝らした。 濡れたように額に張りつく髪。耳の奥にはまだ、爆ぜる銃声と悲鳴が残っていた。 夢なのか、記憶なのか。あの場面が現実だったのか、それとも自分が頭の中で作り上げた、さらに残酷な虚像なのか。もう区別がつかない。年月が経つほど、記憶は輪郭を失い、悪夢の中で肥大化していく。しかし、戦場のあの匂いが肺に絡みつく。 レインは深く息を吐いた。いつものことだ、と自分に言い聞かせる。 だが、その夜ばかりは違っていた。 この夢を繰り返すくらいなら—— 消し去ることができなかった。 ルカの歌声を聴いたあの瞬間の静けさを。ヒューゴの店で不意に耳にした旋律が、自分の胸のざわめきをどれほど鎮めたかを。 「……ル、カ」 その名を口にした瞬間、レインの喉は焼けつくように熱を帯びた。 胸の奥がざわつき、硬い筋肉の下で心臓が乱れた鼓動を打つ。 唇に残る余韻が、まるで口づけの後のようにやけに甘い—— その名を繰り返せば、もっと深い場所へ引きずり込まれる気がして、唇を噛む。 だが舌先はなお、禁じられた果実の蜜を欲するように震えていた。 レインは額を押さえた。 若いウェイターの声一つに縋るなど、愚かだ。だが、理屈では片付けられない。 金曜の夜、ルカが歌う。 その情報だけで、彼の胸は何日も揺さぶられ続けていた。 そして今、悪夢に背を押されるように、決心が固まっていく。 あの声をもう一度聴きたい。いや、聴かなければならない。 眠りに手を引き込む鍵がそこにあるのなら、どんなに惨めでも構わない。 レインは枕に背を預け、深い闇の天井を見つめた。心臓はまだ速く打ち続けている。それでも、行くべき場所が一つできたことで、夜の闇がわずかに薄らいだ気がした。

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