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第5話 静かで、恐ろしい夜

ルカは、教会の持ち主であるオマの好意で、金曜の午後はびっしり3時間ピアノを弾かせてもらっている。 オマというのはオランダ語で「おばあちゃん」を指すらしく、レインの祖母であることから幼馴染のヒューゴもそう呼んでいるし、まだ教会が稼働していたころは会員の若い世代は意味を知らずに、ニックネームのように使っていたとのことだ。 ヒューゴからの受け売りで、「オマって呼んでいい?」と確認したルカに、教会の元持ち主はにっこりと微笑んで答えた。そう呼ばれることを喜んでいるようだった。 今週は初の試みでベースも弾く。一応小さなアンプは持参しているが、教会の高い天井と石タイルの床でどう響くかは未知だ。 もしスタジオと同等に音が出せるのであれば、ピアノとベースどちらも練習ができる。 家から教会までの道のりを、ベースにアンプにエフェクターという大荷物で徒歩で進む。6月の日本の蒸し暑さに、くらりと立ち眩みを覚え、途中の日陰で立ち止まる。 つい口から罵りの言葉が出るが、オーストラリア人としては口癖のようなものだ。 ぜえぜえと息を切らしながら、重い頭を上げると、公園の木々が目に入る。 (あ……そういえば、レインが) 昨夜、公園の中へ消えていった大きな背中が脳裏に浮かんだ。 近道なのかどうか確証はないが、スマートフォンの地図アプリを見る限りでは、公園の形が大きくうねっており、うまく使えば目的地まで短縮できそうではある。 公園と言えば正方形や長方形で広大であるという固定観念から、これまで思いつきもしなかったが、試してみる価値はありそうだと踏んだ。 もし、さほどの短縮にならずとも、木陰で休むことはできるに違いない。 ルカは、まるで梅の実があると曹操に騙された兵士の気分で、身体を引きずって公園を目指した。 「それにしてもなんて湿度だ」 ルカは藤棚の下にベンチを見つけて、荷物を丁寧に下ろしてから、自分はどかりと倒れ込むように座った。 目線の先には水道があり、これ幸いと小走りで向かって、おもむろに頭から水をかぶった。スーッと熱が引いていくのを感じ、公共の場でこのようなきれいな水が使える日本の環境に感謝しながら、プルプルと犬のように水を切る。 オーストラリア出身者とって、6月は初冬だ。1月の真夏であっても30度を超えることはあまりなく、真夏日でもカラリと乾燥している。 24年間に渡り南半球で作られた身体は、日本の夏に適応するには時間がかかりそうだ。 「海、入りたいなあ」 独り言にしては大きい声が出てしまう。それほど、皮膚にまとわりつく湿度が鬱陶しいのだ。 実家は、海まですぐの距離だった。水着にサンダルの姿で自転車にまたがり、サーフボードをひっかけて出かければあっという間に波間に身体を委ねることができる。 しかしここは……浜辺の街ではないから、移動には車が必要だ。頑張れば海まで自転車で行けなくもないが、水着一枚の外国人男性が自転車に乗っていたら、通報されかねない。 「車かあ」 またしても独りつぶやき、大きなため息をつく。 修行はまだ始まったばかりだ。あれが欲しい、これが欲しいという状況ではない。 パシパシと両の頬を軽く叩き、ルカは立ち上がった。 いつものように教会の敷地内に人影はなく、ルカはオフィスを覗き込んだ。オマは不在のようだった。 いつも、オマが居れば少しおしゃべりをしてから練習に入る。不在ならば楽譜を借りてすぐにピアノの前に座るだけだ。 手近なベンチ——すでにペンキは乾いているため、もうあの張り紙はない——に荷物を置き、両腕をストレッチしながらピアノに向かう。 まずは指の動作のための練習曲を2曲。 その次に、いつかオマに聴いてもらおうと思っている讃美歌を1曲。これはサプライズだから彼女が不在の時にしか練習できないので、何度か繰り返す。 最後は、自分が作曲途中のメロディを少し。 そして1時間程が過ぎ、「さて」と自分へ声を掛けながら鍵盤の蓋を閉じる。 いよいよ今日のメイン、ベースのターンだ。 ルカは立ち上がって全身を大きく伸ばし、ぐるりと頭を回した。 講堂の中は薄暗く、ペンキが乾いた今は、古い木材の匂いが漂っていた。 鍵盤の余韻がまだ壁に残る。 ひとつ深呼吸し、ルカはベースを抱えた。 弦を撫でるように、低音をゆっくり響かせる。 最初の一音で——空気が変わった。 クラブのアンプから出す乾いた音とも、スタジオの密閉された音とも違う。 ここでは、ベースの音が柔らかく拡散し、古びた壁や天井に吸い込まれながら、しっとりと教会全体を満たしていく。 指先が弦を滑るたび、音がまるで湿度を帯びた風のように、肌を撫でる。 自分の身体の内側まで震わせて、蕩けさせる。 音が――濡れている。 あり得ない感覚に、ルカは目を細めた。 こんな感覚は初めてだった。 自分の音なのに、現実から一歩浮いたような、夢の中に沈むような、ぽわんとした心地よさに飲まれていく。 気づけば、時間は過ぎていた。 二時間。ひたすら弾き続け、ただその響きに身を委ねた。 胸の奥に確かな満足が広がっていた。 この音を自在に操れるようになれれば—— その夜、クリスのクラブでの演奏は満足の行くものだったが、教会で出せた艶は再現できなかった。 それでも普段よりは、音に深みがあった気がした。例えるなら、グラスの中で氷が溶けた時に出るような、柔らかな自然さを持った音。 演奏後にカウンターで飲んでいると、何名かの客がわざわざ声をかけてくれたから、評判は上々だと実感する。 それでも、ルカは物足りなさと疑問が拭えない。 あのしっとりと濡れた音。 艶美で、柔らかくて、甘い---- その週末は、自宅でアンプにヘッドホンを繋いでひたすらに弾いた。 しかし弾けば弾くほど遠のいて行くような焦燥感に苛まれる。なのに止めると、今度は身体があの感覚を忘れそうで、不安になる。 ——本当は分かっている。 あの場所だ。 古い教会の祭壇。 しかし、それでは意味がない。 一生、あの場所だけでしか理想の音が出せないなんて馬鹿げているからだ。 自分の音にするまで、追い求めるしかない。 「ッ……!」 とうとう、最も皮が薄い左の小指に亀裂が入った。他の指先はもっと硬化しているが、それでも限界だった。 これ以上は来週のステージに響く。 ルカは、乾いた笑いを漏らした。悔しさと安堵がないまぜになったまま、ベッドに倒れ込む。 翌週、アルバイトを終えたルカは、いつものように裏庭へ向かった。 そこにはヒューゴが料理やカクテルに使うハーブが幾種類も育っていて、好きなものを取ってよいと言われている。 あまり自炊をしないため貰って帰ることは少ないが、ヒューゴいわく「もうどうしようもない」ほどに茂ったミントは別だ。カクテルやデザートの飾りに使う芽は残して、茂った葉を遠慮なくむしり取る。 新鮮な葉で作ったミントティーは、ルカの大好物だった。 生の葉をこれでもかとグラスに詰め込み、熱湯を注ぐ。蜂蜜を溶かし、冷蔵庫でキンキンに冷やしておく。 特にこの時期は、強烈な清涼感がたまらなく癖になる。 しかし他にも、アルバイトの度に毎日裏庭に立ち寄るのには理由があった。 裏庭の一角で野菜と果物を育てているのだ。 オーストラリアの実家では様々な野菜や果物が成っていた。 それは母方の曽祖父母が当時入手できなかった日本の野菜を育て始めたことが始まりで、それなりの広さの畑となっている。個人での植物の輸入が厳しく禁止されている今では、特に京野菜が育つ庭は希少で、両親の自慢だった。 ルカが選んだのは、フィンガーライム、キウイベリー、ミニトマト。トマトは単にもぎたてを食べたいだけだが、その他は一般的な小売店では見られないフルーツだ。 子供の頃は、何もわざわざ育ててまで……と和野菜の世話をする両親を見て思ったものだが、立場が変わって初めて理解できた。 慣れ親しんだ味が手に入らないのは、味覚の不足と言うよりも、悲しみに近い。 苗で購入したフィンガーライムは、シンボルツリーのように大きくなって欲しいという希望を込めて、ヒューゴが日当たりの良い場所を選んでくれた。 キウイベリーは蔓性で茂ることから葡萄棚を使用している。もう葡萄は育てておらず、ちょうど棚が空いていたのが、キウイベリーを選んだ理由の一つでもある。 棚下にはBBQコンロとガーデンテーブルが置いてあり、葡萄が茂っていた頃はとても良い日除けだったのだろう。 ルカはそのテーブルに、まかないを乗せたトレイを置いた。 ちょっとした畑仕事をしつつ、ここで遅い昼食を取るのが日課であり、一日の楽しみだった。 まかないとは言え、ヒューゴのランチは相当に旨い。プラス、いつもグラスワインやビールを1杯つけてくれる。 新鮮な野菜と肉料理が乗ったプレートに、香ばしく焼かれたバゲット。目を上げれば様々なハーブが少々野性的にのびのびと育っている庭。隅には年季の入った石窯もあり、ヒューゴ曰く、涼子の曽祖父の自作で100年モノらしい。建物は本格的に西洋風で、庭と合わさると、ここが日本であるとは到底思えなくなる。 日本は好きだ。自分に流れる日系人の血だって気に入っている。しかし、自然へのアクセス面がルカの感覚と違い、遠すぎる。 なにもカンガルーやオウムが居る風景を求めているわけではない。 ただ、ちょっとした静かなスポットで、地球の大きさ、雄大な自然を感じる時間が欲しかった。 この場所は、ルカにとって一種の『ホーム』になりつつあった。さらに、北欧のエルフのような見た目をしているくせに心は日本人というヒューゴの存在は、日系人の血を半分引いている自分とほんの少し近いような気もして、すこぶる居心地が良い。 この場所があるから、ホームシックにならずに頑張れているのだと、いつも感謝をしながらのランチタイムだ。 食事を終えた後は、トマトのプランター前にガーデンチェアを移動させ、足を組んで軽く腰掛ける。 そして、ルカはおもむろに歌を口ずさみ始めた。 どこかで『植物に音楽を聞かせるとよく育つ』というのを聞きかじり、それを実践しているのだった。やるのだったら比較対象として歌を聞かせないトマト苗も用意しておくべきだったと気がついたのは後の祭りで、ただトマトの前で歌うだけの男となってしまったが。 高校でも生物を専攻した覚えはないので、基礎的なことしかわからないが、水と日光と風通しが良ければ作物は育つはずだから、歌の有無で失敗はない。実がよく育つかどうかも比較対象がないから分からない。 でもルカは、黄色い小さな花をたくさんつけているトマトの観客を相手に、好きな歌を歌うこの時間が好きだった。 自作のメロディーに適当な歌詞を付けたものだったり、知っている曲だったりと様々だが、そこで好きなだけ歌う。とは言え15分もすれば飽きてしまうのだが。 その時。 ヒューゴの店で、遅すぎる昼食を終えたレインは、コーヒーの余韻を舌に残したまま外に出た。 夏休みを間近に控え、大学の講義と試験の処理で立て込んでいたせいで、昼食は午後三時を回っていた。身体は重く、頭の芯も鈍い。 ただ、帰り支度にバイクへ跨ろうとしたとき——風に溶けるような声が耳に触れた。 わずかな旋律。だが、音と呼ぶにはあまりに素朴で、実験室のノイズにも似ていた。 それなのに、不思議と耳を引いた。 レインは片足をステップから外し、わずかな逡巡のあとで裏庭へ回った。 木陰に身を潜め、そこから見えるのは土の匂い漂う小さな畑。 トマトの苗の前で、ルカが低く、途切れ途切れに歌っている。 距離があるため、ただ声帯を震わせ、空気に色をつけているだけに聞こえる。 それでも、その声は葉脈を透かす夕陽のようにやわらかで、耳の奥に残る。 レインは自分の観察癖に気づいた。 音程は正確で、倍音の響きが澄んでいた。 声の高さは青年のものだが、抑揚は子供めいて自由で、一方で胸腔に響く低さが時折混ざり、成熟の影をちらつかせる。 無邪気さと艶、その境目が曖昧だった。 それはひたすらに——心地が、よかった。 理由を自問しながらも、しばらくその場を動けなかった。 科学者としての分析にすり替えながら、ただ耳を奪われていた。 歌声が途切れ、レインは小さく息を吐き、物陰から離れた。 特別な意味はない。ただの偶然。ただの声。 そして、店から離れたところまでバイクを押して移動し、そこでエンジンを掛けた。 自分でも、理解できない行動だった。 ただ、自分が出す音と、ルカの声が混ざることが、正しくないように思えたのだ。 夏の夕焼けのような瞳を持った青年。 店で見かける度に、その無邪気な明るさに少しだけ目を奪われる。 自分とは真逆にいるような、陽気で、正しくて、清潔な——。 歌声は帰り道の間じゅう、耳の奥にこびりついていた。 エンジン音にかき消されることもなく。 大学に戻ったレインを迎えたのは、蛍光灯の乾いた白さと、机に積み重なるレポートの山だった。 紙の束は、講義やゼミが終わった証拠であり、同時に准教授としての義務の象徴だった。 「論拠不足」「統計処理の不備」「検証方法が甘い」 赤インクの痕が増えるたびに、彼の心も冷たく固まっていく。 科学に対して、甘えは許されない。 データが足りなければ、それは失敗でしかない。 静寂が濃すぎて、息苦しくなった。 集中力を途切れされないために、PCからオランダのラジオを流す。 母国語の響き。知っているイントネーション。 いつもなら、寂寥を埋めてくれるもの。 だが——今夜は違った。 耳に触れた瞬間、馴染むはずの声が、異物のように脳内でざらつきを生む。 「なんだ……ってんだ」 短く呟き、すぐにスイッチを切る。 その瞬間、脳の奥で別の音がはっきりと浮上した。 ——あの歌声。 トマトの苗に向かって無邪気に響かせていたルカの声。 あれは旋律というより、単なる鼻歌だったのかもしれない。 しかし、研究者の耳はそれを“音の現象”として捕らえてしまう。 声帯が生む基本振動。 胸腔と喉で増幅され、空気を伝って波動となる。 ただの波に過ぎないはずのものが——妙に心地よい周波数で、彼の鼓膜と神経を揺らす。 まるで特定の共鳴音がガラスを震わせるように。 「……馬鹿げている」 自分の感覚を否定するように首を振った。 だが、否定すればするほど、あの声が残響として響き続ける。 その時、不意にオフィスにノック音が轟いた。 この時間なら同じく残業中の同僚だろうと気安くドアを開ける。 しかし、立っていたのは女子学生だった。 焦りを隠しきれない表情。 「せ、先生……その……単位が足りなくて。もうどうしようもなくて……」 レインは冷たい視線を返す。 「提出期限は過ぎている」 「わかってます。でも……どうしても必要なんです。留学がかかっていて……私、なんでもします!先生の言う事なら……なんだって」 その声は、先ほどのルカの歌とは対照的だった。 必死で、濁っていて、響きが鈍い。 空気を満たすどころか、ただ重たく沈む。 「くだらない」 レインは即座に切り捨てた。 「先生!私、本当に困って……」 今にも脱ぎだしそうな女子生徒を、レインは一瞥して鼻で笑った。 「期日を守った他の学生をひどく侮辱している上に、俺にもその手助けをしろって?バカバカしいにもほどがある」 女子学生は声を詰まらせ、扉の外に立ち尽くす。 「俺はもう帰る」 レインは椅子から立ち、キーを掴む。 追い払う手段だったが、そう告げてしまった以上、オフィスから立ち去るしかない。 それに、女子学生の様子から、若干の手慣れた素振りが感じ取れ、室内の空気が淀んだようで不快極まりなかった。 こんなことは考えたくもないが、他の課目では通用したのかもしれない。 もし仮に、レインが不埒な講師だったとしても…… 戦場でのPTSDにより、身体も心も壊れてしまっている自分には、欲望を持つことが物理的に不可能だった。 バイクを走らせ、夜気を切り裂く。 風は生暖かく不快だったが、先程の出来事を吹き飛ばすには十分だった。 帰宅し、シャワーを浴び、湯気に包まれて、ようやく一息つく。 ベッドに腰を下ろし、仕事を続けようとPCを開く。 しかし数式は視界を素通りし、ページの文字は霞んで見える。 脳の奥に、異様な疲労を感じた。 それは研究によるものではない。 ただの波動——ルカの声が、内耳と神経の奥に居座っている。 瞼を閉じると、あの歌声がまるで再生されるように流れ出す。 耳で聞くのではない。 脳の内側で共鳴している。 その柔らかさは——、眠気という久しく忘れていた感覚を呼び起こし—— ——そして、気づけば朝だった。 数ヶ月ぶりに深い眠りに落ちた自分に、レインは驚愕した。 目を覚ました瞬間、筋肉にわずかな重さを感じた。 熟睡によってしか得られないだるさ——戦場で負傷者を抱え走り回ったあの感覚に似ているが、もっと穏やかで、身体の芯を静かに沈めていくような疲労だった。 「……馬鹿な」 言葉が漏れる。 自分の不眠は医師としてもよく理解していた。 トラウマ由来の覚醒状態、過覚醒。 脳が危険を探知し続け、交感神経が休まらない。 薬で一時的に眠れたことはあったが、自然に落ちることは、ほぼ不可能だと知っていた。 だが今、確かに眠った。 夢さえ見なかった。 ただ、闇の中に溶けるように。 何が引き金になったのか——科学者として、因果を追うまでもなかった。 答えはひとつしかなかった。 ——あの声だ。 ルカの歌声。 植物に向けて気まぐれに放たれた旋律。 どこにでもある鼻歌にすぎないはずの音が、自分を眠りに導いた。 「ありえない」 声が震えた。 音声学、生理学、心理学——どの理屈を持ってきても、説明がつかない。 人間の声が心拍や脳波に影響を及ぼすのは事実だ。 だが、それは統計的な傾向であり、誰にでも起こる普遍的な現象ではない。 ましてや、自分のように深刻な不眠症を抱える人間に、こんな即効性のある効果を示すなど。 説明できないからこそ、恐ろしかった。 戦場で医者として従軍した4年間、体内に埋め込まれた銃弾の軌道を読み、出血量を計算し、命の残り時間を算出してきた。 すべては数字と理屈で捉えることで、恐怖を押し殺してきた。 それが、自分を守る唯一の方法だった。あの出来事があるまでは—— だがルカの声は、理屈では測れない。 まるで自分の内側の「獣」に直接触れてくるようだった。 知らぬ間に、壊れてしまった頭の奥へ侵入されてしまったようで。 「……Fuck」 額を押さえる。 兵士として、誰よりも警戒心を研ぎ澄ませてきた男が、ただの声に心を許した。 その事実が、何よりも受け入れ難かった。 けれど——事実は覆せない。 眠ることができた。 あの酷い記憶のフラッシュバックも、ふいに鼻の奥に蘇る焼けた人間の臭いも、すでに記憶なのか想像なのかもわからない悪夢も、己の絶叫での目覚めも——何もなかった。 それだけで、体の芯に抗えない確信が芽を落とす。 あの声を、また欲してしまうかもしれない、と。

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