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第4話 肌を這う声
「同じやつ、ちょうだい」
「そろそろ止めておいたら。ルカ、彼女に水を」
ルカは、言われた通りにドリンクグラスに氷を入れる。夜のBar営業のことだった。
通常シフトはランチタイムのみだが、今夜はどうしても断れないグループ客の予約が入ったため、急遽ヘルプに駆り出されたのだ。高時給に賄い付き、しかも酒も飲めるとあらば、断る理由はない。
当のグループ客は22時前には解散したが、幹事らしい女性客が独り残った。当日予約でも断れなかったのは、常連客か友人なのだろう。
彼女がカウンターでヒューゴ相手にグラスを重ね、小一時間過ぎた頃だった。
ルカは大半の片付け物を終え、そろそろまかないでも、とほくそ笑んでいた時——
コロン、とドアに付けられたベルが心地よい音を立てた。
反射的に顔を上げたルカは、ドアを開いた人物に——息を飲んだ。
ずいぶんと背が高い白人男性で、人ひとり丸ごと隠してしまうほどの影を落とす身体に、分厚い胸板に押し上げられたシャツが左右の肩までピンと張っている。
男は濃いブロンドの前髪を後ろへかき上げながら足音も無く店内に入ると、カウンターの端の席にすっと座った。
「いらっしゃい、ませ」
思わずルカは日本語で声を掛けてしまう。ここは日本なので間違いではないが、お互いの人種を考えると少しの違和感は否めない。
男は使い込んだ革のブリーフケースを足元に置き、頷きだけを返す。視線が合うこともないまま、ルカは女性客への水を出し、続けて男に冷たいおしぼりを渡す。
そこへヒューゴが「ヘイ」とだけ男に声を掛けて、黒ビールの瓶を出し、すぐに女性客の相手へと戻っていく。
ルカは栓抜きを差し出そうと手元を探るが、それよりも早く、カシュっと小気味よい音を立てて王冠が外された。慌てて見ると、男は右手に何かしらの鍵を持ったまま、すでに左手で瓶を握り、身体に流し込んでいた。
液体が喉を通る度に、しっかりとした顎のラインが浮かび上がり、いかにも低い声を出しそうな喉仏が上下する。
その男らしさは、10代からBarに出入りしていたルカでも、見惚れるほどだった。
白いシャツの前を開け、後ろで結ばれた濃いブロンドの髪はルースにほどけ、細い髪の束がいく筋か顔に流れる。
それはほとんど——ひどいと言ってもよいほどの、凄まじい色気だった。
「ちょっと、飲ませなさいよ。あたしはね、真面目な話をしてるの」
女性客の声で、ルカはハッとなる。
ただビールを煽るだけの男から目が離せなくなっていたことを自覚し、バツが悪い。
「ねえ、あなたどう思う?」
女性客は、おもむろにカウンターを移動して男の隣に座った。その時、ルカは彼の腕にグッと力が入ったことに気がついた。血管が浮き出て、皮膚が張る。
「うわぁ、すごい筋肉!」
男は腕の方をちらりと見やっただけで無反応だ。
しかしルカには、その筋肉の緊張は拒絶であるような気がした。まるで、防御のために鎧をさっと纏ったように見えたのだ。
客はそれに気が付かず、酔っ払い独自の舌っ足らずな口調で言葉を続ける。
「男がイク時って、『これで終わり』って身体が合図出すみたいで分かりやすいでしょ?でも、あたしがいつも思うのが、どうして女も終わりがあるのかってこと」
下世話な話題を持ち出す客は、ヒューゴの店にしては珍しい。だが、酷い酔い方ではない。
ヒューゴはさり気なく冷たいおしぼりを渡して、「ハーブティなら出せるよ」と囁いた。
「お願い、あれ飲むと次の日楽なのよ」と客は答え、そのまま続ける。飲みすぎている自覚はあるようだ。
「女には射精みたいに、身体が出す終わりの合図がないでしょ?だから、オーガズムなんて無くてよくない?そのままイク手前でずっと気持ちよくてもいいでしょ?ね?」
「どうかなあ。僕らには、女性の身体は神秘でしかないから」
微笑みのポーカーフェイスでそう答えるヒューゴに、ルカは頼もしさを感じる。否定をせず、女性に対する敬意を忘れない言い方は、大変勉強になる。
「モテすぎて困ってるほどのヒューゴにしては控えめなことを言うのね」
「品行方正が売りの僕になんてことを。でも……彼は人体のエキスパートだ。なんでも答えてくれるよ」
ヒューゴは掌で、女性客の隣をサッと指し示した。
途端に、男の眉間に深く皺が刻まれる。
「やっぱり!相当女に詳しそうね。かっこいいんだもん」
男から低く唸るような声が聞こえたが、それきりで言葉は無かった。
「そうじゃない。彼、こう見えて生物の先生なんだ。レイン、そうだろ」
突然飛び出した名に、ルカは弾かれたように顔を上げる。
彼が——
ヒューゴの幼馴染——レイン。
そして、あの教会の持ち主だ——
店に入って来た時から、一体何者かと想像を巡らせてはいたが、まさか教育者とは思いつきもしなかった。
あまりにも見事な体躯だからだ。傭兵だと言われれば即座に納得しただろう。
開けた胸元から覗く——いくつかの傷跡。
鎖骨のすぐ下には、星型のような跡があり、ひょっとすると銃創ではないかとルカは勘ぐる。
とにかく外見は、到底教師には程遠い。なにより、Barへ来てここまでまだ口を開いていないのだ。喋る仕事に就いている人間の態度ではない。寡黙すぎる。
ルカは無言で目を見開いていた。
「答えてやれよ、先生」
再び名指しされたレインが、カウンター越しにじろりとヒューゴを見上げる。
「ん、なんの話だ……?」
その声の深さは、ルカの背筋をビリリと震わせた。
(……ッ!なんだよ、この感覚……)
「やだ、全然聞いてなかったの?」
かいつまんで投げられた疑問に、「ああ……」とレインがため息のような相槌を打つ。
再び、ルカの腰を電流のような痺れが襲い、軽く深呼吸をして、なんとか平常心に戻す。
誰かの声に官能を刺激されることなど、初めてだった。
雇い主であるヒューゴも低音の良い声の持ち主だが、こんな風に身体が反応することなどありえない。
ルカはそれを悟られまいと、立ち位置から一歩引いた。
「質問の答えだが……」
軽い咳払いに、低く湿った声が続く。
「女の身体は、絶頂の瞬間に膣の奥で蠢き、精子を吸い上げる。内壁が波のように収縮し、子宮へ押し込もうとするんだ。——それは歓びのためじゃない、生き残るための仕組みだ」
淡々としたレインの説明に「ふぅん、」と質問者は鼻を鳴らす。女性としてどこか納得できたような、感心を示す声だった。
レインはその反応に小さく頷いて、続ける。
「しかも男女が同時に達した時、吸い上げは最も強い。互いの震えが重なり、奥まで引き寄せられる」
レインは指先でカウンターテーブルをトンと叩き、一拍おくと、指でほんの少しなぞる。意図的なのか無意識か、ルカはそれがまるで精子の動きをトレースするかのように見えて——穏やかに曲がる節、太い血管が葉脈のように広がる手の甲——
だめだ、とルカは一瞬ギュッと目を瞑った。
(僕は、一体何を考えて——)
「その結果、子宮に残る精子の数が増えることは、すでに研究されているはずだ」
レインの唇はかすかに動き、最後は囁きに近かった。
女性客が、目を丸くして、ごくりと喉を鳴らしたのがルカからも分かった。
おそらく彼女も、レインとの行為を想像して——
(彼女も、だって——?)
ルカの身体が羞恥でカッと熱くなる。
「じゃあ、せんせ。同時にイッたら妊娠しやすいってこと?」
「予想では。だが、妊娠率をどこまで高めるかは、まだ証明できていない」
「学者らしい言い方だな」とヒューゴがからかい、「納得しましたか」と客へ向き直った。
「しましたとも。もう文句は言いません」
「で。ルカ、彼がレインだ。大学で生物を教えている。専攻は生殖ではなく脳神経だそうだ。レイン、うちのアルバイトのルカ、本業はミュージシャン」
「あ……よ、ろしく」
ルカは突然の紹介に戸惑いながらも、右手を差し出した。
「レイン」
喉の奥だけで自分の名をつぶやき、握手を交わす。しっかりと強く握られたが、身体の印象に比べて長く骨ばった指から、ルカはレインに神経質そうな印象を持った。
「じゃ……ヒューゴ、また」
レインはそう簡潔に言い、いつの間にか女性客に掴まれていた腕をすっと引き抜いて、颯爽と店を後にした。
「あ、ありがとうございます」
ルカは、急いでドアまで駆け寄り見送った。
このまま、無言の接客で終わらせたくなかった。正直に言えば、もう少し声が聞きたい。
後ろ手にドアを締めて、小道へ続く階段を降りるレインの背後から声を掛ける。
「今日は、バイクじゃ?」
先日、行き違いになってしまった時を思い出して、言葉をかけてみた。
高々それだけのことに、多少の勇気が必要だったことに自分でも驚きながら。
「……飲酒運転」前を向いたままの返事に、ルカは胸が締め付けられるのを感じる。
「あの……タクシー、呼びましょうか?」
レインがふと振り向く。
視線が交わったのはほんの一瞬だった。
「いい。歩いて帰る」
「あ……そう、なんだ。お気をつけて」
レインは小道を越えて、公園の中へと消えていった。突っ切ると近道なのかもしれないと漠然と思いながら、広く張った背中が見えなくなるまで見送った。
始めて交わした会話が——まだ、腰の辺りでくすぶる。
ルカがカウンターに戻ると、ヒューゴと当の客が談笑している。
「逃げられちゃった」
「はは、気難しい男なんだ。でも、良い先生でしょう」
「……そうね。生徒だったら単位全部取ってるわ。ねえ?」
カウンターに入り、テーブルを拭いているルカに声が掛かった。微かに微笑んでアイコンタクトを返す。
「新入りさん?初めてよね、お会いするの。あたし、近くのスナックでチーママやってんの。たまーに寄らせて貰ってるだけの酔っ払いよ」
「よろしく。僕、ルカです。日本語はまだあまり。いつもはランチタイムだけ」
「ねえヒューゴ、あんたの周りってこんな綺麗な子ばかりなの?」
「どうだろう。ま、どうしても自分が基準になってしまうから、自然と……ね」
「うわ、自分で言うんだ」
ルカのそのつぶやきに、女性客もヒューゴも声を上げて笑った。
「いけない。最後の客になっちゃった。あたしも帰るわ。またね、ルカ」
嵐のように過ぎて行った後ろ姿に、ヒューゴは目尻を下げた。
「涼子の友達なんだよ。ざっくばらんで、気持ちの良い性格でね。飲みすぎると好奇心旺盛な猫みたいに、雑多な質問がとめどなく出てくる」
涼子とは、両親の再婚によってできたヒューゴの妹だ。店の手伝いや仕込みで来ることがあるため時折見かける。穏やかな雰囲気がまるでヒューゴそのもので、遺伝子の違いなど全く感じさせない。
「レインのこと、気に入ったみたいだね」
「ん?あれは酒の席のノリみたいなものさ。どこにも本気なんてないよ。彼女が店に残ったのは、酔醒ましと、恋人が迎えに来るまでの時間調整」
「なぁんだ」
ルカの掌がそっと胸に置かれる。
その、無意識だろうが明らかな安堵の仕草をヒューゴは見逃さなかったが、敢えて口は閉じられた。
どこか微笑ましく、可愛らしい感情の片鱗を見た気がして——そっとしておくのが最善だと判断したからだ。
「レインはピアノのこと、知ってると思う?」
ルカはふと疑問に思った。オマから聞いていないはずがないのだ。
「どうだろうね。だとしても、キミがその子だとは知らないんじゃないか。オマがキミの名前を伝えていれば話は変わってくるが」
「確かに。気付いたのかも」
「なにか不都合でも?」
「いや……」ルカは、寡黙な傭兵そのものな姿を思い起こす。「怖そうな人だから。見た目もそうだけど、ちょっと厳しそうな……僕を見て、なんだこいつって思わなかったかな?ピアノ、使っちゃだめって言われたらどうしよう」
不安げな声を出したルカを、途端にヒューゴが笑い飛ばした。
「ねぇよ!オマがキミを気に入って自由に出入りさせているんだ。彼女を楽しませている謎のピアニストの存在に、レインは喜んでいるはずだ」
「僕はベーシスト」
ルカは人差し指を立てて鋭く言い直した。
日付が変わる前になんとか店のクローズを終え、ルカはヒューゴの車で送ってもらうこととなった。徒歩で通える距離だと固辞したが、ヒューゴは聞き入れなかった。
平日は滅多に飲まないため、車通勤が常だと聞く。知れば知るほど真面目で、客との色恋営業とも無縁の男だ。
しかし、近頃のヒューゴは少し浮ついていて、ルカまでつられて笑顔になるほどだ。
「例の、きれいな人とはどうなの?」
車内という密室が、ヒューゴとの距離をさらに縮めたような気がして、ルカの口は滑らかだった。仕事中は控えているプライベートな話題でも、今は適している。
ヒューゴは低く咳払いをして、「週末は店に来てくれる」と柔らかな声を出した。
「それじゃあ僕のシフトとは絶対に被らないじゃないか。残念だな」
「ま、そのうち」
「余裕じゃん」
「そんなことはない。毎週ちゃんと来てくれるか不安でね」
「どういうこと……まさか、付き合ってないの?」
ヒューゴは一瞬黙り、「んー」と低く喉を鳴らす。「友達でいい、と考えることの方が多いかな」
ルカは顎が外れそうなほどに口をあんぐりと開け、運転席のヒューゴを凝視した。
「嘘だろ……。もしかして、男同士だから?」
「まあ、それもあるかもな」
「ヒューゴに口説かれたなら、性別なんてどうでもよくなりそうなのに」
「はは、ありがとう。でも、友達として幸せを願うだけでもいいんだ。むしろ、このまま店と客の関係でも……。長く傍に居られるのなら、なんでも」
ルカは喉の奥に石が詰まったような圧迫感を感じ、目をしかめる。
そんな恋愛は、したことがない。そこまでの気持ちを、誰かに持ったことがなかった。
「わかんねぇなあ。その人のこと、欲しくないの?」
10分もせずにルカの自宅マンションまでたどり着き、車は微かなブレーキ音を軋ませて停止した。
「欲しいさ。でも、そんなのは愛じゃないでしょ。さ、明日は金曜日だ。クリスの店で演るんだろ?」
「ああ、うん」話題を切り替えたヒューゴにルカは合わせることにした。例え興味があったとしても、しつこくするのは好きじゃない。「昼間は教会でピアノを弾かせてもらって、ベースも練習するんだ。あ、元教会だね」
「ほう」
「講堂の広さがちょうどいいエコーになるかもしれないって、オマが。これで練習スタジオ代も浮かせられたら、もう僕言う事ないよ。感謝しなきゃ」
「レインの帰宅も遅いし、あの敷地なら隣家に音が漏れたところで微かなものだろう」
何気ないヒューゴのコメントに、ルカは目をぱちくりと瞬きさせた。
「……レインって……あそこに住んでるの?」
「ああ、そうだが。聞いてないのかい」
「……確か、仕事でほとんど居ないってオマが……そういうことだったのか」
「教会の敷地内に家屋があるだろう。薄い青の壁板の」
「あれはオマの家じゃないの?」
「いいや、彼女は隣町のマンションに独りで住んでいる。近所の元教会員が時折見回りに来ることになっているが、皆もう高齢だからね。そろそろ売りに出されるんじゃないかと噂はあった」
「じゃあ、レインが相続したのは、売るため?」
「いいや。住み続けるためだ。オマはレインに迷惑をかけたくないから売るつもりだったらしいが、彼からしてみれば寝耳に水さ。思い出の場所は永久にあるもの、と漠然と思いがちだが、現実はそうじゃないと気付かされたと言っていたな。もっと早くに相続していれば、と」
ヒューゴが話すにつれて、ルカは亡くなった叔父の家を思い出していた。
そういえば、記憶の中には生活感そのままで残っている。雑多な物が置かれた床、壁に掛けられた何本ものギター、町並みを窓から一望できるリビングの大きな窓。成功したミュージシャンらしい、高台の豪邸。
もう誰かの手に渡っているはずだが、ルカの中ではまだ叔父の家だ。
「レインと……よく話すの?」
「ああ。閉店直後に来る方が多いかもな。ボトルを持って公園を散歩しながら、近況を報告したり。なんせ、数年ぶりだからね。お互いに積もる話はある」
「意外だ……さっきなんて、無理やり喋らせたようなものなのに」
はは、とヒューゴはおかしげに笑い飛ばした。
「今度、講義に忍び込んでみろよ。涼子の職場にアルバイトの学生がいるんだが、レインの授業、面白いらしいぞ」
「分かる気がする」
先程の短いレクチャーですら、どこか惹き込まれるようなものがあった。声のトーン、言葉の選び方、ちょっとした仕草。
ノートを取るのを忘れて聞き入ってしまいそうな……
「だろ。すっかり話し込んだな。じゃ、おやすみ、ルカ。今夜は本当に助かったよ」
「おやすみヒューゴ。また火曜のランチタイムに」
藍色のSAABは、運転席に座る男の金色の髪をサラリと揺らしながら、静かに走り去った。
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