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第3話 プレリュード

ピアノを見つけた翌日、ルカはいつもより少し早く家を出てアルバイト先であるヒューゴの店に向かった。 教会の近くまで来ると、期待でやや小走りになる。 「やった、開いてる」とルカは小さく呟き、正面扉を抜け講堂に入る。 昨日に比べるとペンキの臭いが薄れているが、ベンチに貼られた乱雑な『ペンキぬりたて!』の注意書きはそのままだ。 (確か、入って右手に事務所があるんだよな……) ヒューゴはこの教会のことをよく知っているような口ぶりだったが、詳しいことは聞けなかった。ルカの見立てでは、彼は超合理的なアルファ性質だから、奇跡だの予言だの悪魔だのといった話が主となる宗教を信じているとは到底思えず、教会に通うタイプではない。 教会員としてではなく、個人的に仲が良かったのだろう。 ルカは、昨日と同様に人気の全くしない元チャペルを右手へ進み、それらしき小部屋の前でドアを軽くノックしてみた。 すると意外なことに、「はいはい」と女性の声で返答があった。 キィと木製のドアが小さく音を立てて開き、中から小柄な年配の女性がヒョイと出てきた。見事なシルバーヘアはふんわりとカールされていて、下がった目尻がとても優しい印象を与える。 「あ、えと、」 「あらまあ」と老婦人は金の縁取りの眼鏡を掛け直すと、思い切り首を真上に曲げてルカを見上げた。 183cmは日本でなかなかの長身であるから、思った位置に顔が無かった驚きの声だ。 「すみません、ピアノを、弾きたいんですが」 「ええ、ええ。どんどん弾いてください。あんなおんぼろでよければ」 「いいですか?突然、すみません」 「十分ですよ。私はもう帰るところだけど、ドアは開けていますから」 「いえ、ちょっとだけ。たぶん15分」 「あら、じゃあ聴いて行ってもかまわない?」 ルカにとってありがたい申し出だ。誰かに聴いてもらう方が緊張感があっていい。それにこの老婦人のゆったりした話し方は、地元の教会に集う人々を思い起こさせ、ルカの目尻も下がってしまう。 「もちろん!リクエストある?」 老婦人は有名な賛美歌曲を挙げたが、ルカには通じなかった。原題を聞いてみても英語ではないせいか通じず。そこで、軽くハミングしてもらうことにした。 「あっ。わかるわかる!」 パァッと明るい表情になるルカを見て、老婦人は更に目尻を下げて微笑んだ。『荒野の果てに』はクリスマスキャロルとして世界中で知られている曲だ。 「よかったわ、ちょっと待っててね、楽譜がどこかに……」 老婦人は簡素な木製の本棚から、ファイルケースを取り出した。 「ここに楽譜が入っているから、自由に見ていいですよ」 ルカはファイルケースを受け取り、老婦人のリクエスト曲を探し出した。地元の教会のボランティアで何度か演奏したことがあるが、そんなうろおぼえの演奏ではなく、譜面を見てきちんと弾いてあげたくなったからだ。 アップライトピアノのチェアに腰掛け、昨日と同様に音を少し確かめたあと、静かに弾き始めた。老婦人はところどころ歌っている様子だったが、日本語の歌詞なのかさっぱり分からなかった。 それでも、とても可愛らしく心地良い声なことに変わりない。 やはり観客の目線は実力を底上げしてくれる。昨日の今日で、少し指の感覚を思い出しつつあるらしい。 なんとかトチらずに弾けて、そのまま2曲目に突入することにした。 「よかったわぁ」と席を立つ老婦人を留めるかのように、ルカはジャンッ!と鍵盤を強く叩いた。さっき弾いたばかりの賛美歌のジャズアレンジだ。 「まぁ!」老婦人は少女のような歓声を上げた。そして、うん、うん、と頷きながら、時折は体を揺らして音に乗っている。 曲が終わり、ピアノの前に立つと、老婦人は腰掛けていたベンチから祭壇まで駆け寄ってきて、ルカの両手をぎゅっと握った。 それが温かくて、柔らかくて。 ルカはそっと握り返す。 「教会が開いている時間は自由に弾きに来ていいですよ。私も孫もピアノが弾けなくて、売ってしまおうかと相談していたところなの」 そこでルカは、昨日ヒューゴから聞いた幼馴染について思い当たった。 「オランダから戻った?」 「あらあら、もうご存知なのね。そう。ここを相続してくれたのはいいんだけど、仕事でほとんど居なくてねぇ。直すと言ってペンキを塗ってくれただけ」 「そーぞく?あ、ごめんなさい、僕、日本語があまり……」 「相続……インハリットだったかしら。もう英語も忘れちゃって、嫌んなるわ。亡くなった主人も娘婿もオランダ人の牧師だったのよ」 「ヒューゴから聞いた。僕、彼の店でウェイターしてて」 「まあ、そうだったのね。近いうちにオマがコーヒーを飲みに行くって伝えておいて。あの子、きっと綺麗になってるでしょう」 「子供のヒューゴしか知らない?ならきっとびっくりするよ!そろそろ行くね。明日も来ます。ピアノ、弾かせてくれてありがとう」 ルカは、ぴょこんとお辞儀をした。まだ慣れない仕草のため少々大げさになってしまうが、老婦人にはそれが大層かわいらしく映った。 教会を出てから店まで、ルカはほとんど走るようにして向かった。 裏口から2階の事務所に駆け上がり、半開きのドアを勢いよく開く。 「ヒューゴ!」 「Gosh!なんだよ。ビビらせんな」 「ピアノ!いつでも弾いていいって!」 「誰かに会えたのか?」 「そう、おばあさんが居て、毎日弾いていいって。とても可愛いらしい人だよね」 「オマと話したのか?」 「孫がペンキ塗って仕事に行ったらしいよ。あの教会を相続したんだって。あっ、オマが近いうちにコーヒー飲みに行くからって、伝言」 ルカの省略した物言いにヒューゴは目尻を下げた。 「それは楽しみだな」 「その孫ってのが、昨日オープン前に来てた人だよね?幼馴染って言ってた……」 ヒューゴは頷く。 「元から家族付き合いがあってね。僕らがスウェーデンに帰国した後まもなくしてレインの母親が病気で亡くなって……牧師の父親とオランダに越してきてからは年に1、2度会う機会があった。デンマークのサマーハウスでよく一緒に釣りやキャンプをした。僕が17歳で日本に留学してきた時には、すでに教会は閉鎖されてたから、日本に残ったおばあさんには会えないまま」 「レインって言うんだ」 「ああ。とにかくガタイが良いやつで」 北欧人の中でも長身の部類に入るヒューゴのこの発言はルカを驚かせた。 「父親は山のようにものすごく大きい人だった印象があるが、母親は日本人とのハーフでどこかミステリアスな所があって、とてもきれいな人だったな。オマも、レインも、みんな彼女の思い出が詰まった教会で暮らしてくのが辛かったんだろう。想像だけどね」 「ふーん。そんな場所に戻るのには……きっと、かなりの覚悟が必要だったんじゃないのかなあ」 まるで独り言のように呟いたルカに、ヒューゴは微笑む。 ほとんど身元も知らずに採用したようなものだが、ルカの、人に対する思いやりや想像力の豊かさ、心の優しさについては、クリスから十分に聞いていた。そんな人間なら、どんなにシフトが空きがちだろうが、雇う価値がある。 「これからはベースの修行にピアノも加わるのか。忙しくなれば、ここのバイトの優先順位を下げてくれていいからね。さ、ランチの準備だ。僕も店に出るよ」 「へー?珍しい。グループ予約でも入ってるの?」 「いや、そういうんじゃないけど、ちょっと店に居たくて」 「でも夜の営業は独りでしょ。無理しない方がいいんじゃない?」 「ん、まあ……」 「業者か何かのアポなら、来たら呼ぶよ」 「うーん、業者じゃないんだ。まあ、そうだな」 ルカの目に、珍しく言葉に詰まるヒューゴが映る。 「……平日だから、まずランチタイムには来ないとは思うが……。もし、とてもきれいな人が来たら教えてくれ。見ればすぐ分かると思う。ちなみに、日本人の男だ」 ルカはオフィスチェアに座るオーナーを見下ろしたまま、口をあんぐりと空けた。 「だから最近毎日ジムに行ってるんだ!おかしいと思ったんだよなぁ」 「いいだろ別に」 「へーへー、呼びますよ、きれいな人ね。あ、『とてもきれいな男』ね」 ルカは顔がニヤつかせ、ついからかった。 「くそ、言うんじゃなかった」 「もう遅い。目玉ひん剥いて見ておくよ、お客さんの顔」 ルカは事務所を出ると、鼻歌を歌いながらパントリーへ向かった。 音楽との関わりが増えただけでなく、知り合ってからこの半年間、色っぽい話の気配すらないヒューゴが、首元まで赤くなる姿を見られるとは。 今日は楽しい一日になりそうな予感がした。

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