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第20話 同期しない温度
『もう一度』
その言葉は、ルカに大きな喜びを与えた。
キス一つで、冷たい鎖に絡められていた身体が解き放されたように心が緩む。
なぜ、最初のキスの後すぐに遠ざけられたのか。
ヒューゴの言うように、レインの個人的な症状による塞ぎ込みだけだったのだろうか。
または、全部が勘違いで、本当に実験の都合だったのだろうか。
ここまで積もった疑問や懸念が、ルカの中で溶けていく。
いま、レインから望まれたキスを交わしている。
誘ってくる舌と甘い唾液。
この事実だけでいい。
夢中になっていると、腰にレインの両手が添えられ、ふわりと身体が浮く。
夏に海ではしゃいだ時に抱えられ投げられたことをふと思い出すが、それよりもずっと優しく、なのに強かった。
デスクの縁に軽く座らされ、レインの片手が髪の毛に差し込まれる。
更に深くなる口づけと同時に、もう一方の手が腰から太ももへ滑り下りる。
——あ、と思った時には、ぐいと右の太ももをそのまま掴まれ、レインの上体が両足の間に割り込む。
その迷いのない雄の動作は、レインの意思の代弁だとルカは理解し——
ルカの身体に、電流のような衝撃が走った。
一瞬でカッと体温が上昇し、顔が火照ったのが分かる。
同じ男でありながら、組み敷かれる喜びに背が震える。
強く吸われる舌と、これまでになく密着する体温。
ルカの下腹部から脳天まで甘い痺れが駆け抜け、頭の芯が麻痺してくる。
その時だった。
コンコンコンコン!とドアがノックされ、「ドク、ミーティングですよ」と英語で声がかかった。
凍りついたルカの口内に、一拍遅れて、レインの唸り声が響く。
静かに唇が離され、ほんの束の間見つめ合う。
一瞬の素早い口づけ。
レインの目元が柔らかく下がり、口角がゆっくりと上がる。
「忘れてた」
レインの囁きにやっと事態を把握したルカが、「Shiiit!!」と大慌てでデスクの下に座り込んだ。
その素早さにレインは声を上げて笑った。
「大丈夫。研究室の学生だ。俺が居ても居なくても、自分たちが移動する時にああやってノックして知らせて行くんだ」
ルカがそろそろと立ち上がり、安堵の声を漏らす。
「焦った……」
「さて、俺は会議室へ行くが、どうする?ハムスターを見に行くのか」
「ん」
「なら、俺が鍵を開ける。出ようか」
「待って、その前に」
ルカはレインの正面に立つと、広い背に両腕を回した。
再び胸に頬を寄せる。
レインの力強い動悸は、ルカの血管すら揺らす。
レインはルカの髪に鼻先を差し込み、ゆっくりと深呼吸をした。
さらりとした黄金色の髪が皮膚をくすぐり、ココナツのような甘い匂いが身体を充満する。
この感触だけで、眠れそうな気がするが——
しかし試そうにも持って帰れるわけもなく、会議の時間は差し迫っている。
レインは小さくキスを落として、やんわりと包容を解いた。
ノートパソコンを片手で持ち上げてドアに向かう。
「行くぞ」
「ご、ごめん。そうだった。仕事中に来ちゃって……」
オフィス前の廊下はしんと静まり返っている。
向かいの研究室の学生は全員会議室へ移動したようだ。
視界の隅にいるルカは、白く無機質な廊下にぽつんと立ち、申し訳なさそうにしている。
先程、レインが彼を見つけた時と同じように。
この若きミュージシャンに、他人の顔色を伺う理由などないはずだ。
胸が締め付けられるような感覚に、レインは顔をしかめた。
自分は、ルカの浅く広い交流の一環にいるのだろう。
しかし、その中でも特に会う頻度が多かったのではないか。
ヒューゴの店の常連とは違い、レインとルカには『実験』という目的と、成った果実を楽しもうという『未来の予定』もあった。
そんなレインから、距離を置かれたことで不安になっていたのだろう。
浅い関係からはみ出すとロクなことがない、と——
クモの巣のように張り巡らせた浅い関係の中で、破れかけた糸は切り離さなければならない。
でないと、それがすべての破綻の原因になりうるからだ。
それがルカから口づけられた理由だと、レインは結論付けた。
今日ルカに遭遇したのは運命なのか、奇跡なのか。
ルカが持っている運なのか。
きっと彼は、「レインがどこまで許容するか」を探りたかったのだ。
レインはそれに応えた。
離れるべきだと警鐘は鳴っている。
誰かに急激に惹き込まれていく恐怖。
ルカという人物に相応しくない、猛烈な所有欲。
彼の歌声がなければ眠れないという『症状』。
これらは、レインにだけ存在するものだ。
これら一方的な原因で、ルカが構築した『人間関係の巣』を綻ばせるべきではない。
そして彼がもし、仮説の通りに何らかの孤独を抱えているのなら、刺激するべきではない。
過去に囚われるのは——
独りで十分だ。
研究棟の正面玄関を通り過ぎ、ハムスターがいるラボで足を止めると、やや振り返り気味に背後に目線を置く。
「そう言えば、ここの学生が……君を学生食堂に誘いたいと言っていたが」
「うん。言われた」
「行くのか」
「いや、どうせなら、レインと……」
研究室の金属の扉が硬い音を立てて開く。
レインはルカを中に促した。
開いた隙間から見た感じでは内部に人は居なさそうだった。このラボの主と呼ばれるショウは午後から不在か、学食に行く相手を見つけたかだろう。
「しかし、ショウのような学内事情に精通した人物の方が楽しめると思うけどね」
「そうかな」
「俺と居ても楽しめないよ。それに……、交流は広い方がいい。だろ?それじゃ、また」
レインは挨拶代わりに手に持ったラップトップPCを掲げ、会議室のある方へ足を向ける。
「あ、待って」
「何?」
「実験、いつから始める?」
「……連絡する」
「ん、わかった。待ってるね」
ラボの扉が完全に締まり、廊下は無音となった。
レインは歩幅を広げ、会議室へと足早に向かう。
——すべて、言い訳だった。
『もう一度』
レインから求めたキスは、軽い交流の一環でもなければ同情でもなかった。
身体と心が、急くように激しくルカを求めていた。
もし、あのときドアがノックされなければ——
どうなっていたか想像したくもない。
下半身には重い熱が籠もり、布越しに触れたルカのそれも同じ状態だと知り——
脳まで焼けそうなほどに高ぶった。
未だにその炎は頭の裏側で燻っている。
ルカの澄んだ瞳に見つめられると、痛いほどに胸が締め付けられる。
しかし、その苦痛は妙に甘美だった。
もっと自分を暴いて欲しいという気持ちと、これ以上踏み込まないでくれという防御とがせめぎ合う。
そして、やり場のない所有欲。
隣のラボになど行かず、部屋で待っていればいいと願うだけで——
大人のフリをして、他者との交流を促す。
「すまない」
会議室のドアを開けたと同時にそう呟いたレインを、三人の学生が振り向く。
アリサとスタンリーは博士課程で、神経情報ダイナミクス研究室——通称NCDラボ——に所属しておりレインの直下で研究を行っている。
ダニエルは再生医学研究センター所属のポスドクで、レインの研究室とは共同研究となる。
ホワイトボードにはすでに、複雑な視神経回路の画像が貼られている。昆虫の視神経をテーマにしているアリサが、皆からのアイデアを書き込み易くするために毎度用意するのだ。
「では早速、進捗から教えてくれ」
レインは着席せず、会議机の端に寄りかかった。
この会は週に一度、彼らの主導で開催されるカジュアルな議論の場だが、ファシリテーターはレインが担っている。スーパーバイザーだが、経年で言えばこの中で最も『新人』だ。
「では、あの子たちを切ったり貼ったりしているアリサから」
名指しされた女子学生が、にんまりと笑って見せた。
『あの子』とは研究室で飼育されている昆虫のことだ。一般的に非常に嫌われている種のそれを親しみを込めて呼ぶのは、学内でレインとアリサだけだ。
しかし、実験に使うということは、命を扱うということだ。
アリサは愛する彼らの視神経を切断し、電子顕微鏡にかける。
それでも愛情を注ぎ、せっせと世話をし、繁殖すると歓喜する。
研究者たちが持つ生命への独特の情念は、本人たちにしか分からないだろう。言葉にするのが難しい『愛のカタチ』があるのだ。
「視神経を切断した個体を追跡して、視神経束から脳のキノコ体への接続を調べています」
「ああ、この蛍光色素が軸索か」
レインはホワイトボードの図に引かれた黄色い線を指さした。
「はい」
「Hmm」と准教授は低く喉だけで発する。
寡黙になり、眉間に微かな皺が寄る。
それがセクシーだと多くの学生が言うのを耳にするが、アリサにとっては違った。研究のスーパーバイザーから重要なヒントが得られるチャンスなのだ。一字一句聴き逃がせない。
「この分岐」
レインが線上で指を動かす。場にさっと緊張が走った。
「色素が入っているのは二本だが……俺には三分岐に見える」
アリサが慌てて手元のパソコンを操作し、元画像を拡大する。
「た、確かに……短いですが」
「通常は二分岐だ。しかし、疑ってみることや、仮説を立てると見方が変わる。人間の常識ってのは、研究室の冷凍庫みたいなものだがな」
「というと?」ダニエルが促す。
「古い仮説が、腐らないように保存されている。捨てるに捨てられない」
一同に軽い笑いが起こった。科学者たちは自虐めいたジョークに湧きがちで、レインも例外ではない。
「汚染かもしれない。だが本物なら——新しい神経回路だ」
ごくり、とアリサの喉が鳴る。
「再現実験を。もし本物なら、この研究室の名が上がるぞ」
アリサの硬い表情に、研究への熱意が差し込まれる。
「次、ダニエル。再生芽はどうだ?」
ダニエルが前に出る。
スライドには、切断されたトカゲの尾と、その再生過程の連続画像。
「再生芽の形成までは予想通りです。問題はその後で……」
次のスライド。
細胞系譜のマッピング。
「幹細胞が筋肉系に分化する速度が、想定より30%ほど早い。本来なら神経・血管と並行して分化するはずですが、筋肉が先行しているようで」
レインはスクリーンに目を固定したまま言う。
「順序が崩れている」
「はい。結果として、再生した尾の運動機能に微妙な偏りが出ています」
ダニエルがスライドに挿入された動画を再生する。
再生尾を持つトカゲが餌に向かって歩く姿だが、わずかにぎこちない。
レインは腕を組む。
「原因の仮説は?」
ダニエルは一瞬だけ言葉を選ぶ。
「細胞培養室の温度です。培養環境が数回、設定値から外れました」
「どの程度」
「最大で2.3度」
「それだけでここまで狂うか?」
ダニエルは少し黙る。
「……普通は狂いません。もう一つの可能性は、局所的な電磁環境の変化です」
一瞬、空気が変わる。
部屋に沈黙が流れ、レインはゆっくり顔を上げる。
「まだ相関レベルです。ですが、細胞分化のシグナル経路に微弱な異常が見られます」
スライドにシグナル伝達経路の図が現れる。
「Hmm」
准教授は低い唸りだけ発して話さない。ダニエルは続ける。
「もし電磁的な影響が本当にあるなら、再生能力の制御に新しい変数が加わることになります」
レインが遮る。
「それは“可能性”じゃない。“厄介事”だ」
小さく笑いが漏れるが、緊張は消えない。
「きみはどっちを疑っている」
レインの鋭い視線を受けて、一拍の後にダニエルが口を開いた。
「……温度の問題にした方が、話は簡単です」
「だが?」
「説明が足りません」
レインは自嘲に口元を歪める。
「正直だな。損をするぞ」
ダニエルは肩をすくめ、再び笑いが起こる。
「よし、両方調べられるか?」
「両方?」
「温度と電磁環境。切り分けて考えたほうがいい」
「しかし、それには設備が足りません」
濃い眉毛を下げて懇願する顔に、レインは迷わず告げた。
「俺の予算を回す。必要なものをリストアップして」
部屋が一瞬ざわつく。
ポスドク一人にそこまで割くのは、普通じゃないからだ。しかも、予算が潤沢とは言えない講座で。
ダニエルも少し驚く。
「いいんですか?」
「データが面白い。それと」
少し下がったレインの声に、ダニエルが顔を上げる。
「電磁環境のログを全部出してくれ」
「全部……?隣のラボであればショウに聞くとすぐ出ますが」
「いや、研究棟全体のだ。嫌な一致の仕方をしている」
「ドク、まさか……電磁波の変動は偶然じゃないと?」
「偶然は繰り返さない」
真っ先に表情を変えたのはダニエルだ。
再生医学研究センターに所属している彼にとって、こちらの研究棟で第三者的立場での立ち回りに不安があった。
そして、ポスドクのダニエルにとってレインは半分上司、半分同僚だ。データを眼の前にしていたのに、自分ではなくレインがそれに気がついたことに軽い敗北を感じる。
若くして、しかも彼にとって外国である場所で准教授となっただけはある——
この短期間で何度も思い知らされた現実。
「了解。任せてください」
レインは深く頷き、「次、スタンリー。そっちの電磁波曝露実験はどうだ?」
「はい」
小気味よい返事をしたスタンリーが眼鏡をくいと上げた。
資料は最小限で無駄がない。
『低強度電磁波曝露による神経伝達速度の変化』と題されたスライドには、中心に金属の棒が放射状に円を描いて配置された機材の画像が挿入されている。
遠目で見ると、一見、太陽を模した工芸作品に見えなくもないが、よく見ると、その先端部分には、ジャンガリアンハムスターが一匹ずつ格納されている。
周囲には電磁コイルが設置され、なんともシュールな光景だ。
「運動野の神経活動を電気生理で記録しました。グラフがこちらです」
刺激の前後でわずかなシフトが読み取れる。
「変化量は?」
「平均で2%です」
「再現性は?」
「あります」
「条件は?」
「周波数帯は2.4ギガヘルツ付近」
レインとスタンリーの淡々としたやりとりに、ダニエルが口を開いた。
「この装置って、隣のラボの……?」
「そうですね。借りてます。なんなら、このハムスターたちも」
うーん、とダニエルが小さく唸る。口を開くのをためらっているようだ。
「……ちょっと気になっただけなんだ。僕の方の観測日と同じ日がある。こいつの最大出力って……」
「高いです。でも、私の実験では絞っています。出力は環境基準以下です」
「でも、遮蔽は完全じゃないはずだ」
「完全な遮蔽なんてありませんよ」
険のある言葉に聴こえ、ダニエルは口をつぐんだ。
多国籍のメンバーでは、その日本語能力にばらつきがあるため日常会話や会議は英語で行われる。ここにネイティブの英語話者はいない。だからこそ、誤解やすれ違いもあるのだが、いかんせん日本語で会話をすると話が進まないのだ。
ダニエルは言葉こそ濁したが、スタンリーが機械の操作を誤ったのではと疑った。それにスタンリーが傷ついたのだと受け取った。
「悪い。几帳面なきみのことだから、操作を誤ることはない。僕が軽率だった。データを疑ったんじゃないんだ。機械の不具合もありえるから」
「時間帯は?」レインが短く問う。
「僕の方は午後です。14時から17時までに集中しています」とダニエル。
「じゃ、私は関係ないですね。こちらの曝露実験は夜間のみ。昼は装置が空いていないから」
事実だけを淡々と述べるスタンリーに、レインは軽く頷いた。
このタイプは研究職に多い。人間関係で歪を起こしやすいが、本人には何ら悪意はない。事実だけを伝える方が、正確で、わかりやすいからだ。逆に、これが丁寧さだと思っている節もある。
「実験日が重なった日のログを出してくれ」
スタンリーはノートパソコンの画面をスクリーンに投影する。
20:15 開始
22:47 終了
「ダニエル、そっちの温度装置の異常はいつだ」
レインに促されてダニエルが口頭で述べる。
「14:00と15:00に異常の警告が出ています」
「一致しないな。スタンリー、きみに装置の使用を夜間とするよう告げたのは?」
「ショウです。あのラボは彼が仕切ってるから」
トントン、とレインが指でデスクを軽く叩く音が会議室に響く。
「二手に分かれよう。きみたちは、研究棟全体の装置のログを集めてくれ。できるかぎり多くの装置だ。俺は隣のラボ……電磁応用研究室の教授にあたる。学部ミーティングでは、うちが借りている以外に装置の使用が告げられていない。俺が聞き逃している可能性もあるがな」
「了解」とダニエルが応え、アリサ、スタンリーもそれに続く。
「では、今日はこれで解散」
レインはそう告げると、足早に会議室を後にする。
当該のラボには、ルカが出入りしていると聞いている。出入りを認めたのはレインだ。正式に手続きもしている。
しかし、いつ、どれくらいの頻度でルカが来ているのかレインは把握できていない。
おそらく、それを知っているのはショウだけだ。
今日は偶然にも彼をラボに入れたのはレインであり、どんな責任でも負うことはできるが——
いくら懐疑主義のレインでも、ルカがこの問題に関与しているなどとは微塵も考えていない。
正式にここの学生でない彼が、疑われてしまうのではないかと気掛かりなのだ。
トラブル時に真っ先に疑われるのは、決まって部外者だ。それは特に、大学の研究室という閉鎖された空間においては尚更だろう。
ラボのロックを解除しドアを開けると、ガチャリと音が立つ。
足音すら鳴らさないよう訓練された元軍人にとって、ありえない行動だ。
ラボ内を見渡すもルカの姿はない。
レインは奥の飼育室へ一直線に向かった。
手前にあるショウのデスクは無人で、それは珍しいことだった。
——ルカと彼が部屋の中に居る可能性に、レインは無意識に眉をひそめていた。
無施錠のドアも迷いなく開く。
途端に、穀物のようなにおいに包まれる。
「ルカ」
無人に見えたが、念のため声を掛ける。
やはり返事は無い。
あれから小一時間経っているのだから、とっくに去っていてもおかしくはない。
しかし、レインの鼓動はいつもよりか早かった。
直感が——それは前頭前野からのシグナルというより扁桃体が発する感情のトリガーだった。
説明の出来ない『嫌な感じ』。
レインは眉をひそめたまま、低く鳴り続ける機械音を背に、電磁応用研究室を出た。
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