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第28話 守りたい笑顔
レインは研究室の冷たい窓際に寄りかかり、腕を組んだ姿勢で学生たちの報告を聞いていた。
190cmを超える巨躯に厳格な顔立ちとなると、慣れたラボの学生たちでさえ、普段ならレインの放つ支配者の威圧感に臆する。
しかし、その日のレインは違っていた。
リラックスし、周囲を取り巻く雰囲気が柔らい。
学生たちは萎縮するどころか、部屋ごと包み込むような頼もしい庇護の元でのびのびと意見を出し合っている。
「研究棟全体の主要ログ、集めました」
アリサが歯切れよく言った。
「温度制御、培養器、冷却装置、電力消費。電磁関連も可能な限り」
スクリーンに複数のログデータの数値が投影される。
「ここだ」
レインの反応は早い。角ばった長い指がスクリーンを指す。
「15時10分前後。ダニエルの培養室で温度が2.1度上昇。冷却装置が急に高稼働している」
ダニエルが頷く。
レインはさらに視線を鋭くした。
「電磁応用研究室の装置ログはどうなっている?」
「これです」
アリサが画面に別ファイルを表示する。
装置本体の出力ログにはアラートも無く、<通常範囲内>と表示されている。
レインの眉がわずかに動いた。
マーカーを手にホワイトボードに歩み寄り、時間軸を書き始めた。
そして、低く抑揚の少ない声で説明する。
「電磁応用研究室の装置出力ログは『通常』を示している。だが、研究棟全体の電力消費は明らかに最大出力に近い。冷却装置の稼働率も一致しない。さらに、近隣ラボの電磁干渉記録にも微弱だが異常値が出ている」
アリサが息を飲む。
「つまり……電磁応用研究室の出力ログだけが改ざんされている……」
レインは静かに頷いた。
「まだ確証はない。だが、嘘を仕込む場合、最小限に留めるのが効率的だ。範囲が拡がれば、露見する確率が上がる」
部屋に重い沈黙が落ちた。
レインは、自身のパソコンにだけ表示したログを睨み続ける。
氷のようなブルーグレーの瞳に、じんわりと影が宿る。
そのデータは、ルカの入室記録だった。
レインは、ラボの大型モニターに映し出された各種装置のログと、手元の入出記録を、頭の中でクロスさせる。
やはり、異常発生の時間帯がぴったりと重なる。
ショウであれば、ルカが研究室にいることを利用して——
最大出力で装置を回し、ルカが操作したのではという疑念の種を作りやすい。
(しかし……)
問題なのは、ルカの『耳』だ。
ルカは、昨夜のスタンリーの実験中に、初めて装置の稼働音を知ったのだ。
いくらハムスターの飼育部屋に居たとは言え、ラボ内で装置が最大出力で稼働していたとならば、彼の耳がそれを逃すはずがないのだ。
レインは学生たちに悟られないよう、そっと息を吐いた。
いずれにせよ、部外者であるルカが巻き込まれる可能性は、確実に高まっていた。
こんな陰湿で、不要な汚名など、ルカには全くふさわしくない。
音楽の道で大成するべき才能を、この研究室の汚泥に浸らせるわけにはいかない。
レインの胸の奥が、静かに燃える。
真夜中に戻ってきたルカの声。
穏やかに歌い、朝まで傍にいてくれた温もり。
夜の海でさまよう難破船を、眠りへと導く灯台のように。
レインはマーカーを置き、学生たちに向き直った。
「電力ログと冷却ログ、近隣干渉記録をさらに深掘りしてくれ。それと、いまあるだけのデータをUSBでくれ。メールはだめだ。生データのままでかまわない。俺は学部長に中間報告を入れる。……この件の責任は、俺が取る」
三名の若き研究者たちが静かに頷いた。
レインは窓の外に視線を移した。
そろそろ、ルカがヒューゴの店でアルバイトを終える頃合いだ。
観察二日目、今夜もスタンリーの実験に立ち会わせ、音の認識を確かめる。ルカの聴力にその再現性があるかどうかが重要だ。
レインはバックポケットからスマートフォンを取り出し、短いメッセージを送る。
『迎えに行く』
すぐに既読が付き、ルカからはThanksと簡潔に礼が返ってくる。
こちらの都合で大学に呼んでいるというのに律儀なものだ。
ルカが部外者なのは事実だ。
しかし彼はレインのゲストであり、研究助手として欠かせない人材である。
それをもっと広範囲に、強く印象付けるべきだったのだ。
レインは奥歯を噛みしめる。
自分が知らぬところで、ルカが研究室のトラブルに巻き込まれていたことが悔やまれて仕方がなかった。
ショウであれ誰であれ、ルカを利用してもよいと思わせたのは、紛れもなく自分だ。
あの日——初めてルカと唇を合わせた日。
レインはある意味で絶望し、実験を止め、距離を置いた。
ルカの歌声と、唇の甘さ。
世界の他のことなどどうでもよくなるような陶酔感。
それと同時に訪れる、自分をすっかり失ってしまうような恐怖感。
その際どさの渦に翻弄されながら、迫り上がる欲望。
そして諦めかけていた不眠への治療。
ルカの歌で眠れるという事実が、そこに治癒の希望を落とした。
しかし——
レインは、そのあまりの影響力に恐れをなして逃げた。
ルカだけが救済であってはならない。
でなければ、俺は生涯——
後悔先に立たずという日本にことわざを胸に刻み、レインは研究棟から駐車場に向かう。
秋晴れの空に、西から分厚い雲が動いてくる。
その影は、白い研究棟を覆い、ゆっくりとしかし確実に形を成し始めていた。
夜半には雨になるかもしれないと、ぼんやりと考えながらレインは車のエンジンを掛けた。
◆ ◆ ◆
14時を少し回った時、ヒューゴはルカに上がってよいと声をかけた。
まだ客はちらほら残っているが、もうランチは売り切れてしまっているし、後片付けもたかが知れている。
「今日も大学へ?」
「うん!」とルカからは元気な応答。
「ランチ、用意していないみたいだけど」
ヒューゴはエプロンで手を拭きながら尋ねる。
ルカはレインの自宅庭での実験の際にも、必ず自分のまかないと合わせてレインの分もこしらえていた。
そうするよう仕向けたのはヒューゴだ。ルカができるだけ早くレインに会いたがっているのは明白だったからだ。自分のまかないまでスキップして行きそうなくらいに。
それに、ヒューゴは幼馴染の体調を気にかけている。
医者であるレインに向けて健康のアドバイスなど野暮なことはしたくないが、食生活に関してはヒューゴの方が知見がある。
「今日はレインと学食に行くんだ」
「ほう……うちのランチより旨いのか」
ヒューゴが少しだけ不満気な声を出したため、ルカは吹き出した。
「そんなわけない!ヒューゴが作るものは世界一旨いよ」
「さすがにそれは言い過ぎだ」
分かりやすい褒め言葉に、ヒューゴが楯突く。
ルカはニヤリと口角を上げた。
「僕が知っている世界はそんなに広くないからね」
「……なるほど。それなら納得だ」
ひとしきり二人で笑い合った後、ルカが二階の事務所へ上がる。
その時、ヒューゴの目が、窓の外をゆっくりと通り過ぎる深い色のランドローバーを捉えた。
私服に着替え終えたルカがフロアに降りてきて、常連客と二言三言別れの交わす。
ヒューゴはカウンターに戻ってきたルカに、窓際を指すように顎を上げて言った。
「お迎えが来てるようだよ」
「もう?少し待つつもりだったのに」
「あいつこそ、キミがドアから出てくるのを待つつもりだったんだろ」
ヒューゴが言い終わる時にはすでに、店のドアの小さな鐘が鳴っていた。
ルカは道路へ続く階段を駆け下り、左右にレインの車を探してすぐに目が止まる。
角ばったシルエット。古いランドローバー。
現代の車に混じると少し時代遅れにも見えるのに、なぜかレインが乗ると最新モデルよりずっと目を引く。
頑丈で、不器用で、必要なものだけ残したような佇まい。
どこか本人に似ている気がする——
そう思いながら、公園脇の木陰に停められている車に向かっていると、運転からレインがするりと降りてくる。
そのまま助手席のドアが開かれ、そこで初めて、ルカに視線が向けられた。
絡み合う視線はルカの胸の鼓動を跳ね上げ、そのまま腹に降りるとくすぐったさに変化する。
ルカは顔がほころぶのを止められず、下唇を噛んで必死に隠しながら駆け寄る。
「ありがと」
レインは軽く頷いただけで、無言のまま運転席に戻り、エンジンをかけた。
「迎えに来てくれるなんて、珍しいね」
「ん、まあ、一応」
レインはやや言い濁し、ルカが小首を傾げながら視線を向けた。
「一応って?」
「……呼んだ側として、送迎するのがマナーかと」
「前回はそんなこと一言も言わなかったのに?」
「……気が回らなかった。すまない」
レインから想定外の謝罪の言葉が出て、ルカは目を見開いた。
「違う違う!本当にただ疑問に思ったんだ。だって、大学行きのバスが公園前から出てるんだよ。だからわざわざ迎えに来てくれたのは理由があったのかなって」
「んー……」
低く喉を慣らしただけのような返事と、レインの掌がステアリングをさらりと滑る音が同時に鼓膜をくすぐる。ルカはその耳障りの良さに一瞬うっとりとする。
人からよく、聴覚が優れていると言われるが、ルカ自身は、音の好き嫌いが他の人よりはっきりしているだけだと思っている。
耳に入れて心地の良い調和された音はずっと聞いていたいし、そうでない音はすぐにシャットアウトする。
今のところ、レインから発せられる音はすべて----彼の声を筆頭に----極上の部類だ。
レインからはこれ以上なにも聞けそうになく、ルカはFMラジオのボタンに指を置いた。
「つけてもいい?」
「許可なんて必要ない」
「そうなの?」
「この車だって好きに使っていいと言ってあるのに」
レインはため息交じりに言った。
サーフィンをしたがっていたルカのために、教会の事務所にスペアキーを置いてある。しかし知る限り、車が使われた形跡は無かった。
「まさか、ペーパードライバーだと言うんじゃないだろうな?」
ただのからかいだが、もしそうだとしても、オーストラリアも日本と同様に右ハンドルで左側通行だ。左ハンドルで右側通行のオランダで免許を取っているレインに比べれば、抵抗は少ないはずだ。
「……助手席の方がいい」
少しだけ拗ねたような声に、レインはルカを横目で見やった。
ナビをいじったり、カーラジオを操作したりと楽しげだ。
確かに、ルカは助手席が妙にしっくりくる。
自分の居場所はここだというように。
慣れているのは運転ではなく、左助手席に座ることなのか——
ルカならあり得る。
これほどの容姿と、無邪気な性格。喜怒哀楽がはっきりとした、素直な会話。そこにいるだけで、こちらの気分をすっと楽にしてくれるような青年だ。
隣に乗せて、どこまでもドライブしたくなるのは間違いない。
今のレインが、まさにそう感じているように。
ヒューゴの店から大学までは、車でおおよそ15分だ。さほどの距離ではないが踏切や右折車で渋滞しがちだ。バスならばもっとかかるだろう。
助手席に収まったルカは、自分のスマートフォンを車に接続できないか試行錯誤している。レインはそのこと自体はどうとも思わないが、ルカが車に近づくと自動接続されるはずだ。
それに、走行中に着信があれば車のスピーカーから声が流れる。
「誰かとの会話が、俺に筒抜けになってもかまわないのか」
「別に、いい」
ルカからの返事はあっさりしたものだった。
それがレインの興味をそそった。
「なぜ?」
「なにかのセールスとか、そんなのしかないから」
「意外だな」
正直な意見だった。
Barで演奏しているくらいだから、友人や知人が多いだろうと思っていた。
そこで、広く浅い交流を楽しんでいるのだろうに。『浅い交流』がどの範囲を指すのか、レインは敢えて考えないようにしている。
「ショウくらいだよ、友達の中で電話掛けてくるの」
突然出てきた名前に、レインは無意識に眉をひそめる。
ルカの耳は、高周波暴露装置の稼働音を判別した。
今日はその再現性を検証するために大学へ向かっている。
ルカの聴覚と、装置の出力量ログは不一致となっている。
その一方で、ルカの研究室の入退室ログと、出力量ログが一致する。
----どちらかが嘘をついている。
そして、分があるのはデータの方だ。
ルカを除く関係者全員が研究者なのだから、データを信じるに違いない。
その中で、レインはルカの感覚によって、データを覆そうとしている。
それがいかに困難であろうと、自分の立場を脅かすものであろうと。
ルカがショウを友達と呼んだことに、胸が微かに痛んだ。
利用されているとも知らずに----
職員用駐車場に車を停め、レインは素早く助手席側に回り込む。
ルカのためにドアを開ける。少し照れたような微笑みが見られるのは、その褒美だ。
俺は----この笑顔が----
レインは胸に沸き立った言葉を押し殺した。
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