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第40話 彼の温もりを利用する者
その夜、風呂から上がったあと、レインは寝室のベッドに腰を下ろし、ケースから睡眠計測用のヘッドギアを取り出した。ルカが興味深そうに身を乗り出す。
「それ、何が分かるの?」
「主に脳波と体動。心拍も一緒に取る」
「脳波って、寝てるかどうか分かるやつ?」
「ああ。眠りに落ちるまでの時間と、睡眠の深さ。途中で何度起きたかもある程度分かる」
レインは額にセンサーを当てながら説明した。
「起きてる時と眠ってる時じゃ、脳の電気活動のパターンが違う。深く眠れば、それも変わる。俺が“よく眠れた”と思ったかどうかじゃなく、数字で比較できる」
「僕が歌った日と、歌ってない日を?」
「そう」
ルカはますます面白そうに装置を覗き込んだ。
「じゃあ僕、今夜は実験装置の一部?」
「違う。刺激条件だ」
「研究っぽい。なんかワクワクする」
そう言いながら、ルカはベッドの脇に座った。
レインは額とこめかみにセンサーを当て、位置を確かめる。簡易的なものだが、脳波と心拍、体動の変化は記録できる。ルカの歌によって眠れるという事実はすでに何度も確認していたが、感覚だけで終わらせるつもりはなかった。
レインは枕に頭を沈め、計測開始を確認した。画面上で波形が動き始める。
「今日は何にする?」
「任せる」
「それが一番困るんだよなあ」
そう言いながらも、ルカは少し考えただけで歌い始めた。聞き慣れた声が、暗い寝室に静かに落ちてくる。
レインは目を閉じた。
ジャムとチーズ。一本空けたワイン。風呂上がりの熱。
ルカがいる。
そのことを最後に考えたところから先は、覚えていなかった。
歌い終えた頃には、レインは完全に眠っていた。
ルカはしばらくその寝顔を見ていた。額には物々しい計測機器が付いているのに、表情は拍子抜けするほど穏やかだった。
そのまま帰ろうかとも思った。明日は昼から仕事だ。
けれど、歌う前に交わした会話を思い出す。
「泊まってもいいし、帰ってもいい」
「僕に決めさせるの?」
「きみの都合で決めろ」
「じゃあ、帰る時は起こす?」
「いや。そのまま出ていい」
「鍵は?」
「開けたままでいい」
ルカは本気で耳を疑った。
「駄目に決まってるだろ」
「この辺で空き巣なんて聞かない」
「そういう問題じゃないよ。元軍人のくせになんでそこだけ不用心なの」
しばらく睨み合ったあと、レインは眠気の混じった顔で天井を見た。
「……合鍵があったはずなんだが」
昔、父が使っていたものとは別に一本作った記憶がある。引き出しか、玄関脇の収納か。それとも書斎だったか。長いこと必要がなかったせいで、どこへしまったのか思い出せない。
「探しとく」
「え、でも……鍵なんてそんな」
尻すぼみになるルカの声に、レインは被せた。
「毎回泊まるか、合鍵を持つか。きみが決めろ」
「今夜は?」
「答えはもう出ている」
結局、ルカは泊まることにした。
理由は鍵だった。
少なくとも本人は、そういうことにしていた。
翌朝、レインが目を覚ました時、窓の外はまだ薄暗かった。最初に目に入ったのは、昨夜のまま頭に付いている計測機器。次に、隣で眠っているルカ。
少しだけ寝癖のついた髪が、枕に広がっている。
時計を見ると6時半だった。
慎重に身体を起こし、機器を外す。計測を終了すると、昨夜のデータが保存された。睡眠開始までの時間、中途覚醒、心拍、体動。細かい解析はあとでいい。グラフをざっと眺めただけでも、昨夜も比較的安定して眠れていることは分かった。
ランニングを兼ねて、いつものパン屋へ向かう。
扉を開けると、焼きたてのバターとシナモンの香りがした。
「おはよう」
奥から店主の妻が顔を出す。レインを見るなり、妙に嬉しそうに笑った。
「……何だ」
「別に?」
全く別に、という顔ではない。
レインは棚を見る。
「フランツブロートヒェン、ご近所さんにも好評でね。毎日焼くことにしたの」
レインの手が一瞬止まった。
彼女はにこにことしている。
「毎日は来ない……食うやつがいる日だけ」
ぶっきらぼうに答えながら、二つ取る。
「知ってるわ」
レインは黙った。
頬がわずかに熱い。
店主の妻はそれ以上何も言わず、機嫌よくパンを袋へ入れた。
家に入る手前で、教会の事務室に寄る。ここに合鍵がなければ、もうオマに尋ねるしかないのだ。彼女からすれば別にどうということもないのかもしれないが——
昨夜、ルカの反応がレインにも伝染してしまい、妙にくすぐったい。
不用心だから、鍵を閉めて帰るため。
目的はそれだけのはずなのに。
結局事務室に鍵はなく、レインはスマートフォンのTO DOリストに『オマに電話』を加えた。
家のドアをできる限り静かに空け、ダイニングにパンの紙袋を置く。
すぐに自室の浴室で手早くシャワーを浴び、支度をして家を出る。
寝室からは物音一つしない。
平日の仕事はランチタイムのみと聞いているから、10時に起きれば十分間に合うだろうと踏んで、念のためTO DOリストに『10時にルカに電話』も加えておく。
大学に着いた頃には、いつもの顔に戻っていた。
頭は冴えている。
午前の講義を終え、レインはそのまま研究室へ向かった。扉を開けると、すぐにアリサが振り返る。
「お疲れさまです」
「お疲れ」
アリサの背後で、飼育ケースの中からカサコソと小さな音がしている。レインは足を止め、中を覗き込んだ。
「今、何匹いるんだ?」
「先週二匹使ったので、十匹くらいです。子供を入れたらもっと」
「逃がすなよ」
ダニエルが冗談めかして眉をひそめる。
「逃げないよ」
一般にゴキブリといえば素早く走り回る印象が強いが、実験用に飼育しているのは比較的おとなしい種類だ。余計な刺激を与えなければ、餌を食べているか、段ボールの隙間でじっとしている。
「アリサの管理下なら問題ないだろうが、仲間は日本一嫌われてるらしいからな。かわいいのに」
「ドクター、『かわいい』の用法、間違ってますよ」
スタンリーが横からケースを覗き込み、露骨に顔をしかめた。
「僕もだいぶ慣れましたけど、腹側のダニだけはまだ直視できません」
「寄生してるわけじゃない。身体に溜まる有機物を食べて掃除してくれる。住む場所をもらって、その代わりに掃除をする。なかなか良くできた同居人だろ」
スタンリーはしばらくレインを見たあと、口元を歪めた。
「じゃあ、ドクターはダニと共存できますか?」
「掃除してくれるなら考える」
一瞬、沈黙が落ちた。
ダニエルが吹き出す。
「条件付きなんですね」
「共生は双方に利益があるから成立する」
言ってから、レインは飼育ケースへ視線を戻した。
——双方に利益がある。
その言葉が、わずかに引っかかった。
ルカは、自分から何を得ているのだろう。
歌う。
眠らせる。
自分はそのたび、以前なら考えられなかったほど深く眠っている。
——では、ルカには。
そこまで考えて、レインは思考を切った。
「先生?」
アリサの声で顔を上げる。
「何でもない」
レインは肩をすくめ、時計を見る。
そろそろ向こうへ行く時間だった。
「午後は?」
「僕とダニエルはこのまま解析です。アリサは飼育記録まとめるって」
「分かった。何かあれば連絡しろ」
「ドクターは?」
「別のラボに行く」
鞄からノートPCを取り出し、必要な資料だけを抱える。
「高周波の方ですか?」
アリサの表情が少しだけ硬くなった。
「そうだ」
レインは短く答え、研究室を出た。
廊下へ出ると、背後で再び学生たちの声が聞こえた。スタンリーが何か言い、ダニエルが笑っている。
その穏やかな空気が、扉一枚を隔てて遠ざかっていく。
曝露装置のある研究室は、同じ建物の別区画にある。
レインは廊下を歩きながら、手にした資料へ目を落とした。
装置の利用記録。
ハムスターの睡眠データ。
ルカの入退室ログ。
さっきまで考えていた「共生」という言葉とは、似ても似つかないものがそこに並んでいる。
レインはカードキーをかざし、曝露装置のある研究室へ入った。
PCの前で話し込んでいる学生たち。何かの装置の前で腕組をして険しい顔の院生。そして奥では、ショウが自分のデスクで何かを読んでいる。
いつもと変わらない午後だった。
レインは空いているデスクへ鞄を置き、PCを立ち上げた。正式な曝露装置の利用記録を開く。
研究計画番号、使用者、開始時刻、終了時刻。表面上は特におかしなところはない。
だが、音川が抽出した異常稼働の時刻と照合すると、記載のない時間帯がいくつも存在する。
その一つにカーソルを合わせた。
15時17分。予定表には何もない。
15時22分から15時48分、装置稼働。
ルカが飼育室へ入ったのは15時19分。出たのは15時51分。
別の日を開く。
ルカが入る。
装置が動く。
止まる。
ルカが出る。
順序まで揃っている。
偶然として片づけるには、出来すぎている。
「何見てるんですか」
突然背後から声がしても、レインは画面を閉じなかった。
ショウだった。
「ああ。装置の利用記録だ」
「何かありました?」
「この日」
レインは一件を示した。
「予定外で動いてる」
ショウは画面を覗き込んだ。
「ああ……」
ほんの一瞬だった。考え込んだようにも見えたし、ただ記憶を探しただけにも見えた。
「点検じゃないですかね」
「点検?」
「古い装置ですから。調子悪い時あるんですよ。業者呼ぶほどじゃない時は、こっちで動かして確認することもあります」
こっちというのは、ショウが所属している先端電磁応用研究センターのことだろう。
「そうか」
「はい」
ショウはそれ以上気にする様子もなく、自分の席へ戻った。
レインは別のシステムで設備点検記録を開いた。
日付を入れる。
該当なし。
前日にも、翌日にもない。
自主点検なら正式な記録を残さないこともある。
それだけで嘘だとは言えない。
だが。
スマートフォンが震えた。
音川だった。
《もう一個見つけた》
レインは席を立ち、准教授室へ移動した。扉を閉めてから返信する。
《何だ》
すぐにPC側に着信が来た。
「今大丈夫?」
「ああ」
「装置の稼働時間だけじゃなくて、生成されたデータのタイムスタンプまで重ねてみた」
音川により、共有画面上で資料が開かれる。
「見えてるか?」
「ああ」
ルカの入退室記録。飼育室の電子錠。装置の起動ログ。そして新しく、測定ファイルの作成時刻。それらが一本の時系列に並んでいる。
ルカが飼育室に入る。
数分後に装置が起動し、その直後から測定データが作成される。
装置が停止。
数分後、ルカが飼育室を出る。
次の日付けも、その次も。
ルカが来た日に装置が動いている。
「……随分きれいだな」
「だろ」
音川の声には、いつもの軽さがなかった。
「これ、後からログだけ見たらどう見える?」
レインはすぐには答えなかった。分かりきっているからだ。
外部者が飼育室に入っている。
その時間に予定外の装置が動き、データが残っている。
それだけを見れば。
「……ルカが関わっていたように見える」
レインの顎に力が入る。
「ああ。ただし、まだ“そう見える”だけだ。意図的にそうした証拠はない。偶然の積み重ねって可能性もゼロじゃない」
音川の慎重さに感謝しながら、レインは画面を見つめた。
沈黙の中で、スマートフォンがもう一度震える。
ルカ。
《パンありがと。ジャムも付けていい?》
レインはしばらく画面を見た。
今朝、半分ほど残ったジャムの小瓶を冷蔵庫へ戻したことを思い出す。
《好きにしたらいい》
少し迷って、もう一言。
《全部きみのだ》
すぐに返ってくる。
《僕たちの、でしょ》
口元がわずかに緩んだ。
「どうした?」
PCの向こうで音川が訊く。
「いや」
スマートフォンを伏せる。
「続けてくれ」
画面にはルカの名前が並んでいた。
無機質な文字列として。
レインが知っているルカとは、あまりにも違う。
「クバ」
「ん?」
「これ……装置の音をルカに聞かせないためだけじゃないな」
「うん。俺もそう思い始めてる」
レインはもう一度ログを見る。
一つの可能性が、輪郭を持ち始めていた。
「……後から見た人間に、ルカがそこにいたと分からせるためかもしれない」
「そうなんだよな。第三者であればあるほど、そう見える」
「だとしたら、目的が変わる」
稼働音を隠すためでもない。
記録に残すため。
そこまで考えた時、レインは不意に、先ほどのショウの声を思い出した。
——点検じゃないですかね。
「クバ。まだ仮説でいい。ルカが“そこにいたこと”を必要とするケースを洗ってくれ」
「責任の所在?」
「それも含めて」
「分かった」
通話を切ったあと、レインはしばらく椅子から動かなかった。
ショウを疑う材料は増えた。
だが、まだ足りない。
コンコンとドアがノックされ、反射的に「Come in」と返す。
「先生」
アリサだ。レインはそちらを見た。
「昨日のデータなんですけど、ちょっと見てもらっていいですか?」
「ああ」
返事と同時に立ち上がる。
その時、ポケットのスマートフォンが短く震えた。
少しだけ、ルカであってほしいと思った。
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