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第39話 ジャム

最後の学生を送り出したあと、レインは時計を見た。 17時40分。 通常通り、やろうと思えば仕事はいくらでもある。未読の論文が二本、確認の必要な学生のデータが一件、書きかけの原稿もある。 だが、どれも家でできる。 自分が同じ理屈を月曜にも使ったことと、その日は結局何も手につかなかったことを思い出しながら鞄にノートPCを入れた。 今日は水曜日だ。 睡眠のために、ルカが歌いに来る日。 その実証実験の開始日でもある。 彼が遅くに帰るのなら——もしくは泊まっていくのなら、夜の時間は長い。 月曜の二の舞にならないよう仕事を進められるだろう。 自分にその気があれば、だが。 念のため、大学を出る時にルカにメッセージを入れておく。 以前に聞いた限りだと、平日の午後に仕事はないはずだ。だから以前、個人的な実験で彼の午後を拘束できていたのだ。 あの日—— ルカに初めて口づけた日までは。 我ながら、理不尽なことをしたと思う。 ルカによって引き起こされた感情と身体の高まりに狼狽え、突き放し、逃げたのだ。 あの時、中途半端に終わった暴露実験のイチゴは、ジャムとなって冷蔵庫で眠っている。それをまだルカに言い出せないのは、自責の念からか、己の未熟さを認めたくない自尊心か。その両方かもしれない。 帰宅するとすぐに、玄関のチャイムが鳴った。 「開いてるよ」 リビングから少し声を張る。 「こんばんは」 ドアが開き、靴を脱ぐ音。 ルカは肩にいつものバックパックを掛け、片手には紙袋を提げている。 「何だ、それ」 「夕飯」 「わざわざ用意してくれたのか」 「ヒューゴがね。どうせまともに食べてないだろうからって」 「相変わらず、母親みたいなやつだな」 アハハ、とルカは笑い声を上げる。 たった一日聞かなかっただけの軽快な声に、レインは妙な懐かしさを感じた。 「素直に喜べばいいのに」 「喜んでるし感謝してるよ。きみの分もあるの?」 「うん」 ダイニングテーブルでルカが袋を広げ、レインが皿を出す。 ローストポークと、紫キャベツのザワークラウトに、バゲットが1本。 男二人でも十分すぎる量だ。 ルカは珍しく、食べている間も何度かスマートフォンを気にしていた。 通知が来ている様子ではない。 画面を見ては、伏せる。 三度目で、レインが訊いた。 「何かあるのか」 「ごめん、もう見ない」 申し訳なさそうにスマートフォンをポケットにしまったルカに、レインは小さく息を吐いた。言い方を間違えたのかもしれない。 「咎めたわけじゃない。ただ、珍しいから」 これまで、食事の席でルカがスマートフォンを触っていた記憶がない。 単純に、それだけだった。 ルカはフォークを置いた。 そこで急に、少し照れたように笑った。 「食事が終わったら、ちょっと、話したいことがあって」 「……わかった」 レインは少し身構えたが、表には出さなかった。 簡単に後片付けを終え、ふたりは各々の手にワイングラスを持った。 リビングに移動し、ソファに並んで腰掛ける。 レインはソファの背もたれに腕を回し、何も言わずそちらへ首を傾けた。 その無言の「おいで」を理解した途端、ルカははにかみ、急いで空けられた場所へ身体を寄せた。 肩が触れ、レインの腕がそのまま背後を囲う。 そこが自分の場所みたいにぴたりと収まるのが嬉しくて、恥ずかしくて、レインの肩へ少しだけ顔を寄せた。 「あ、あのさ」 「ん?」 「この前、クリスの店にロンドンのバンドが来たの覚えてる?」 「ああ」 レインが雇われバウンサーをした夜だ。全編を見たわけではないが、ルカが途中で彼らと演奏したことも覚えている。 「その人たちから、メールが来た」 ルカがスマートフォンを手に取る。 画面にメールの文面を表示して、レインの目前にかざした。 「ベースがツアーの一部に出られなくなったんだって。それで、サポートで入らないかって」 レインはルカの手の上から自分の手を重ね、少しだけ画面を自分に近づけた。 文面に目を走らせ、数秒、何も言わなかった。 ルカの笑顔が、ごくわずかに曇る。 「……レイン?」 「ツアー?」 「うん。年末から。ロンドンから始まって、マンチェスター、グラスゴー、それからヨーロッパを何都市か」 レインは手を離し、ソファへ深く座り直した。 「どのくらいだ」 「スケジュール通りなら1か月弱くらい。まだ細かいところは調整中みたいだけど」 「返事はしたのか?」 「まだ」 「なぜ?受けない理由があるのか」 「ないけど」 そう言ってから、ルカはスマートフォンを膝に置く。 「ここで、レインと一緒に返事したかった」 レインが見る。 「ここで?」 「うん、なんとなく……」 ルカ自身、うまく説明できないらしい。 少し考えて、それでも結局、「レインがいるところで返したかったんだよ」とだけ言った。 その声があまりに素直で、レインは目を逸らしかけた。 「だめかな?」 「いや」 「なんかさ」 ルカは画面を見ながら笑った。 「こういう話、初めてなんだ。ちゃんと向こうから呼ばれて行くの」 そう言ったルカの頬が、いつにも増して輝いていた。 レインの中で何かが静かに確定した。 やはり、間違っていなかった。 ルカは必ず音楽で成功する。 初めて演奏を聴いた時から思っていた。本人は技術だけだと謙遜するが、そうではない。 ルカは全体の音を組み立て、そして他人の音の中へ入りながら、それでも自分の存在を消さない。 そして、これをスター性と呼ぶのかレインには定かではないが、音だけでなくルカ自身に何か際立ったものがある。 人目を引く。 誰もが好意を持つ。 その場にいるだけで、華がある。 本人だけが、自分をまだ何者でもないと思っている。 「ようやくだな」 レインは、間近にいるルカに笑顔を向けた。 心から嬉しかった。 「ようやく?」 「誰かがきみの価値に気づいた」 ルカが一瞬、きょとんとした。 それから頬を緩める。 「……レインは前から気づいてたみたいな言い方」 「そりゃあね」 あまりに当然のように言われて、今度はルカが黙った。 「きみの音には特別なものがある」 「……うん」 耳が少し赤い。 「返信、するんだろ」 「今?」 「そのために俺のところへ持ってきたんじゃないのか」 ルカが笑う。 「うん。ちょっと緊張する」 返信画面を開き、ルカはそう長くない文章を打った。 一度読み返し、レインにも見せる。 ルカらしい、丁寧で好感の持てる文章にレインは頷いた。 ルカが親指を送信ボタンの上へ置いた。 「押すよ?」 「なぜ俺に訊く」 「一緒にって感じがするじゃん」 「なんだそれ」 ルカは微かに笑い声を上げ、ボタンをタップした。 小さな送信音がして、メールが画面から消える。 「……送った」 「ああ。これで決定なのか?」 「いや、他にも候補者はいると思う。書いてないけど、普通はオーディションがある」 「厳しいな」 「ほんと。競争社会ってやつ」 「オーディションがあるとして、まさかロンドンまで呼び出されるんじゃないだろうな」 「レイン……」ルカは小さくため息を吐き、「インターネットって知ってる?」と言い出した。 「お前……おい」 「何曲か演奏した動画を作って、相手に送るんだよ」 「……ご教示どうも。で、それについて書いてないってことは、もう内部ではルカで決定しているんじゃないか?きみ以外の候補者には、最初のメールですでにその動画とやらを送らせているかもな。万が一、きみが断った場合に備えてね。俺ならそう読み取る」 ルカはスマートフォンを傍らへ置いた。 「本当にそう思う?」 「ああ。確信できる」 「どうしよう、やばい」 ルカは両手で顔を覆った。 「何が」 「嬉しい」 指の隙間から笑っている。 「すごく嬉しい」 レインも笑った。 「よかったな」 「うん」 ルカはツアーの日程を何度も見直しながら、ロンドンから始まることや、行ったことのない街がいくつもあることを話した。 「アムステルダムもある」 「そうか」 「出身、もしかしてアムステルダム?聞いたこと無かったなと思って」 「フローニンゲンだ。北部の街で学生が多い。小さいから、自転車で全部回れる」 「へぇ、小さい町って住みやすそうで好きだな」 「若者ばかりで、夜はにぎやかだ。ただし冬は暗い」 レインがそれ以上説明しないので、ルカも深く追わなかった。 「ベルリンも楽しみだな。コペンハーゲンも」 話すたび、ルカの世界が広がっていく。 それを見るのが嬉しかった。 心から、本当に。 だからこそ、レインは理解していた。 この才能を、自分の都合で一つの場所へ留めてはいけない。 ルカは言った。 ——レインのものになりたい。 きっと、生涯忘れられない言葉だろう。 だからといって、自分がそばにいることで、ルカが選べる道が一本でも減るのなら、それは望んでいるものとは違う。 日本にいること。 眠りのために歌うこと。 ここで過ごすこと。 そのどれも、ルカ自身が選ぶから意味がある。 自分のためであってはいけない。 まして、ルカの音楽がこれからもっと遠くへ届くのなら。 その行き先を、自分が塞ぐことだけはしたくなかった。 「レイン?」 気づけば、ルカがこちらを見ていた。 「何だ」 「なんか考えてた?」 「少し」 「ツアーのこと?」 「ああ」 レインは少し顔を傾け、ルカの髪に小さなキスを落とした。 「きっと上手くいく」 ルカがこぼれんばかりの微笑みを向けてくる。 そこから目を逸らすなんて到底無理だった。 「レイン……?」 ためらいなくルカに口づけた。 すぐにルカの息が上がり、呼吸の合間に小さな喘ぎが漏れる。 「ん……。キス、好き……」 「ああ、俺もだ」 唇の合わせ目が、レインの低い声で震えた。 レインはルカに大き被さり、上体をすっぽりと包み込んだ。 角度を変え、更に自分に引き寄せる。 身体が、ルカを離すことを拒否している。 知ればそうなると最初から分かっていたからこそ、あの日、距離を置いたのだ。 キスが終わっても、ルカはしばらくレインの腕の中にいた。 離れる理由が見つからない、というより、探す気がなかった。 レインの腕はソファの背に回ったままで、その内側に身体を預けていると、そこだけ妙に居心地がいい。顔を上げればまた唇が触れそうな距離なのが少し恥ずかしくて、ルカは視線を落とした。 するとレインが、不意にルカから腕を外した。 名残惜しく思う間もなく、レインは立ち上がってキッチンへ向かった。 「何?」 返事はない。 冷蔵庫の扉が開く音がして、しばらくして戻ってきたレインの手には、小さなガラス瓶があった。 赤いものが詰まっている。 ルカは目を瞬いた。 「ジャム?」 「ああ」 レインがテーブルに置く。 イチゴだった。 そこでようやく、ルカにも思い当たる。 「あ」 「覚えてるか」 「もちろん」 あの実験だ。 歌を聴かせたイチゴと、聴かせなかったイチゴ。 音が何かしらの影響を与えるのか、半ば冗談のように始めた自宅での検証。 結局、最後まで続かなかった。 途中でレインが突然距離を置いたからだ。 ルカは瓶を手に取った。 「これ、あの時の?」 「そうだ。俺が作った」 「レインが?」 「ああ」 思わず笑ってしまう。 「なんで笑う」 「いや。ジャム作ったんだなと思って」 「ちゃんとヒューゴに作り方を習った」 「そう……なんか、いいね、それ」 ルカは瓶をシーリングライトの灯りにかざした。 赤い果肉が少し残っている。 あの頃は、こんなふうに同じソファに座ってキスをするようになるなんて思っていなかった。 少なくとも、自信を持って想像できる未来ではなかった。 「……悪かった」 レインが言った。 ルカは瓶から視線を上げた。 「何が?」 「あの時」 それだけで分かった。 「ああ」 ルカは少し考え、それから肩を竦めた。 「まあ、ちょっとショックだったけど」 レインの眉がわずかに寄る。 「ちょっと?」 「うん、ちょっと」 ルカは笑った。 「でも、もういいよ」 レインは何も言わなかった。 「ほんとに」 ルカは瓶をテーブルへ戻すと、少し空いてしまった距離を自分から詰めた。 さっきまで自分を囲っていた腕を取り、その内側へもう一度身体を収める。 「だって、今こうして隣にいるし」 レインがルカを見る。 「キスも、その先だって……」 「……ああ」 「またここに来てるし」 ルカはそのままレインの胸へ頬を寄せた。 「終わったことじゃん」 あまりにもあっさりした言い方だった。 何でもないことのように、過ぎたものを過ぎた場所へ置いてしまう。 レインはしばらく、その横顔を見ていた。 「何?」 「いや」 視線を外さないまま、レインは言った。 「きみは、強いな」 ルカが少し眉を上げた。 「そう?」 「……ああ」 その声音がいつもより明瞭だったので、ルカは少し照れたように笑った。 「別に強くないよ。僕が覚えてたいのは、そっちじゃないし」 ルカが言った。 「じゃあ何だ」 「今」 即答だった。 レインの目がわずかに細くなる。 「今、こうしてること」 ルカは腕の中でさらに身体を預けた。 「あと、この先」 その言葉に、レインの腕がほんの少し強くなる。 ルカは気づいたが、何も言わなかった。 「僕、これからどうなるかの方が楽しみなんだよね」 ツアーのこと。 音楽のこと。 この家へまた来ること。 次の週末。 その次。 まだ知らないものが、いくらでもある。 ルカにとって未来は、怖れるものではなく、開けてみるものだった。 レインは何も言わなかった。 ただ、腕の中にいるルカを見つめた。 こういう人間だからなのだろう、とふと思う。 音楽のことだけではない。 誰かの目を引く才能や、特別な聴覚のことでもない。 この男がどこへ行っても、きっと人を惹きつける。 レインには、そのことが少しも疑えなかった。 「……ジャム食べようよ」 ルカが言った。 「さっきのバゲットの残りでいいか」 「チーズもあれば最高」 「ある」 「やった!ワインもお代わりしよう」 レインが立ち上がろうとすると、ルカは腕を離さなかった。 「何だ」 「でもあとちょっとだけ」 レインは何も言わず、またソファへ身体を戻した。 ルカが満足そうに寄りかかる。 「難しかった?イチゴジャム」 「正確に計量しないと、糖と酸で粘度が変わる。かなり化学だな。途中で状態を見ながら止めるところまで、実験とあまり変わらない」 「ジャム作りでそんな感想になる?」 「なるだろ。お陰で料理に少し興味が出たよ」 「じゃ、楽しかったんだ」 「まあね」 コーヒーテーブルの上にある小さな瓶を、レインは見つめた。途中で終わった実験の残骸だと思っていた。けれど、イチゴは捨てられたわけではない。形を変えて、今ここにある。 「ねえ、レイン。それって、なんか良いと思わない?」 「どういう意味だ」 「んー。そうだな。レインは、一つの目的に向かって、古い姿から新しい姿に変わる瞬間を見ながら積み上げていく、その過程を“楽しめた”ってこと」 「……ああ」 レインは低く応じた。ルカが言おうとしていることは、なんとなく感じ取れた。 「僕が曲を作る時もそう。先にある素晴らしいものしか見てない。それしか見えない」 レインは黙って聞いていた。 「僕はずっと……それでいいんだって、レインに伝えたかった」 レインはもう一度、瓶を見る。 ルカは、こういうふうに生きてきたのだろう。 上手くいかなかったものを、失敗だったと抱え続けるのではなく、その先へ持っていく。 自分には、ずっとできなかったことだった。 そしてもう、できないのだと諦めかけていた。 「レインが楽しんで作ったジャム。僕が全部食べちゃお」 レインの頬に、温かいものが流れた。 堪えきれなかった。 「えっ、ごめっ、冗談だって! ちゃんと分け——」 「ルカ」 レインはようやく声を絞り出した。 「俺は……生きていて良かったんだろうかと……ずっと考えて……」 「レイン」 ルカは両腕を伸ばし、大きな背に回した。 「もちろんだよ。じゃないと僕がレインに出会えてない。だろ?」 「ああ……」 微かに笑ったレインの、濡れた睫毛にルカが小さく口づける。 「こうしてさ、いろんなものを何か別のカタチに……別の、もっといいモノに変えていこうよ。だから僕に、その手伝いをさせて?」 「ああ、ルカ……」 ルカはもう一度、レインの濡れた睫毛に口づけた。それから少し身体を離し、泣いたあとの顔を確かめるように覗き込む。 「僕、今夜は歌いに来たんだ」 「ああ」 「だからさ。まず、このジャムとチーズを肴にしてワインを一本空ける。それから、ゆっくり風呂に入る」 レインがわずかに眉を上げた。 「一本空けるのか」 「二人でだよ」 「なら、いい」 「で、そのあと僕がレインを寝かしつける」 ルカは指を折るように一つずつ並べてから、満足そうに笑った。 「ほら。もう、楽しいことしかない。レインといると、いつもそう。楽しくて仕方ないんだ」 レインはその顔を見つめた。 ついさっきまで、自分は過ぎた時間の中にいた。変えられなかったこと、戻せなかったもの、失ったもの。 けれどルカは、そんな場所に長く立ち止まらない。 それがあまりにもルカらしくて、レインは目元を拭いながら小さく笑った。 「……そうだな。きみといると、心が軽くなる」 「でしょ?」 「ああ」 「じゃあ、チーズ取ってきて」 「俺が?」 「僕はジャム係」 「蓋を開けるだけだろ」 「重要任務だよ」 レインは立ち上がった。 無論、頼まれずとも何でも持ってくるつもりだ。 今度は、先ほどまでとは違う意味で胸がいっぱいだった。 ルカの言う通りだった。 今夜はまだ始まったばかりだ。

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