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第38話 途中のふたり
月曜の午後、レインは最後の講義を終えると、資料を抱えて准教授室へ戻った。
朝、家を出るときルカはまだ眠っていた。
焼き立てのパンの香りでさえ、目覚ましとして弱かったらしい。
昼前には、《起きた。パンありがと》とメッセージが届いていた。
講義中にポケットのスマートフォンが一度振動した瞬間、言葉が切れてしまった。ルカだと分かったからだ。
昨夜はあの後、もう一度ルカを求めた。
彼の手に自分を委ねたことも、その最中に見せたルカの表情も、まだ鮮明に残っている。
(今ごろ何をしているのだろう)
そう考えたところで、スマートフォンが震えた。今度はメッセージではない。通話の着信だった。
ルカなら、この時間にはもう講義がないことを知っている。
わずかな期待とともに手に取る。
画面に表示されていたのは、音川だった。
《分析終わった。時間ある?》
まだ知り合って間もないが、なぜかその単刀直入な言い方が彼らしいと思った。
《今なら》
ほどなくPC側に着信が入る。
「聞こえるか?」
「ああ」
「じゃ、画面共有するね?」
「……なんだその言い方は」
「可愛くなかったか」
「いや、全く」
「そんなはずはないんだけどなあ」
本気で不思議そうな音川に、レインは何も答えず、チャット画面に届いたリンクを開く。
表示されたのは、曝露装置の稼働記録、ハムスターの睡眠データ、研究室と飼育室への入退出ログ、実験予定を一つの時間軸に重ねたものだった。
その下には、AIが導いた仮説が、データとの整合度が高い順に並んでいる。
最上位。
《曝露装置は、正式な実験スケジュール外で意図的に作動させられている可能性が高い》
推定整合率、94パーセント。
「ここまでは俺も同じだ」
「だろうな。問題は次」
レインは下へ送った。
《装置作動時刻と、特定人物の所在との間に有意な相関が認められる》
対象人物——ルカ・ホロウェイ。
指が止まった。
「……ルカ?」
大学事務局に入館証を申請した経緯がある。フルネームを見間違えるはずがない。
「詳細を見ろ」
画面上に、別のグラフが展開された。
ルカが研究室へ入った時刻。
その中から、さらに飼育室へ入った時刻だけが抽出されている。
そこへ暴露装置の稼働時間を重ねると、不自然なほど綺麗に一致した。
ルカが飼育室へ入ったあとに起動して、出る前に止まっている。
一度ではない。
偶然と呼ぶには、揃いすぎている。
レインは黙って時間軸を追った。
あの装置は作動時、高周波域に機械音が出る。
研究室に出入りしている人間なら、気にも留めない微細な音だ。
だが、ルカなら聞こえる。
だからこそ不自然だった。
「なぜルカに聴こえていないんだ」
レインは独り言のつもりだったが、音川は「うん」と明確な相槌を打った。
「それなんだが……。これを見てくれ」
音川が別の資料を開いた。
古い施設図面だった。
「飼育室、と言ったな?研究室内に、もう一つ入退出記録を取っている部屋があるだろう」
レインは図面を拡大する。
壁、扉、換気設備。
「ああ。しかし今はただ実験用のハムスターを飼育しているだけで……」
「ふぅん。ずっとその用途だったのか?」
「いや……どうだろう」
レインは図面を拡大した。
壁材。二重扉。換気設備。
見慣れない仕様が並んでいる。
「遮音?」
「かなり徹底してる。昔は独立した実験室だったみたいだな。現行の施設資料からは、この仕様が落ちてる」
レインは黙った。
赴任して半年の自分には、ただの仕切られた部屋にしか見えなかった。
だが、この大学に長くいる人間なら。
「ラボの……高周波装置の管理責任者なら知っているかもしれない」
「教授か?」
「いや、ポスドク。講座の主みたいなやつだ。教授陣は皆別大学の卒業生だし、研究室にあまり出入りしないから」
「なるほど。どこの大学にも居るんだな」
音川の声から、冗談めいた調子が消えた。
レインはもう一度、時系列を見る。
奇妙なのは——わざわざルカがいるタイミングを選んでいることだった。
装置はまるで、彼の滞在を待っていたかのように稼働している。
「……ルカがいること自体に意味がある」
「俺もそう見てる」
音川は即答した。
レインは椅子の背へ身体を預けた。
そこまでして、なぜ。
正規の研究スケジュールを外れて装置を動かすだけなら、もっと安全な時間はいくらでもある。
隠したいだけでは説明がつかない。
「クバ」
「ん?」
「仮に、その管理責任者が関与しているとして」
一度、言葉を切る。
「一体、何が目的だ」
「そこはデータだけじゃ出ない」
当然の答えだった。
「現状で言えるのは、ルカの存在が装置の運用条件に組み込まれていた可能性が高い、そこまで。動機を入れた瞬間、推測になってしまうからな」
「そうだな……」
レインの声が低くなる。
ショウが何かを隠している。
問題はその先だ。
なぜ、そこまでして装置を動かす必要がある。
そして——なぜ、ルカを巻き込む。
「すまないが、推測も出してくれないか」
「いいよ……でも、あんた、自分で推論を組み立てるのが好きそうなのに。AIにやらせていいのか?」
「ああ、感情を挟みたくない」
レインは即答した。
感情が視野を狭める、選択を見誤る確率はある。
それに、焦って動けば、相手にこちらの手の内を知らせるだけだ。
「了解。もう少し掘り下げてみるよ」
通話を切った直後、スマートフォンが震えた。
今度こそ、ルカだった。
《冷蔵庫の卵使った。あとコーヒーも》
少し置いて、もう一件。
《ピアノ弾いててもいい?それとも、帰った方がいいかな……?》
レインは画面を見つめた。
家にルカがいる。
自分の家で、自分の母が愛用していたピアノを弾こうとしている。
その穏やかな事実と、目の前の分析結果がひどく噛み合わなかった。
《好きにしていい》
そう返してから、もう一行加える。
《俺が帰るまでいてくれ》
数秒後。
《うん》
レインはスマートフォンを伏せ、再び分析画面へ目を戻す。
腹の底に沈んだ冷たさは消えていない。
研究室に出入りする学生はルカだけではない。学生もいる。研究員もいる。
それなのに、ショウは、わざわざルカを選んだ。
なぜ。
もしこの件がルカに何らかの被害を及ばすのであれば、表に出す順序は選ばなければならない。
明日の講義資料を一通り確認し終えると、レインはノートPCを閉じた。
時計を見ると、まだ19時にもなっていない。
普段なら、ここから論文の続きを書くことも珍しくなかった。学生が帰ったあとの研究室は静かで、執筆には向いている。気づけば日付が変わっていたことも、一度や二度ではない。
けれど今日は、ここに残る理由がなかった。
スマートフォンには、その後ルカから連絡は来ていない。
(まだ家にいるだろうか)
大学を出る足は、普段よりいくらか速かった。
教会の門扉を抜けたところで、レインは足を止めた。
ピアノが聞こえる。
秋の夜の静けさの中を、途切れ途切れの旋律が流れてくる。
完成した曲ではないらしい。
同じところを何度も弾き直し、時折そこで止まり、また少し形を変えて続いていく。
レインは家へ向かわず、そのまま教会へ歩いた。
扉を開けても、ルカは気づかない。
ピアノに向かった背中がある。
譜面は置かれていなかった。
何かを探すように鍵盤を辿っている。
レインは入口近くでしばらく聴いた。
一度。
二度。
三度目で、旋律が少しだけまとまる。
そこでようやくルカが顔を上げた。
「あ」
手が止まる。
「おかえり」
「ああ」
ルカは壁の時計を見る。
「思ってたより早いんだ」
「そうか?」
「もっと遅いと思ってた」
「日による」
レインはそれ以上言わなかった。
大学で論文を書く理由などないと、わざわざ言う必要もないと思った。
「何弾いてた?」
「まだ何でもないやつ」
「きみの曲?」
「曲になるかも分からない」
レインはピアノのそばまで歩いた。
「もう一度弾いてくれ」
「夕飯は?」
「聴きながら考える」
ルカが笑った。
旋律が戻ってくる。
レインはすぐ近くの長椅子へ腰を下ろした。
大学では、ルカが何者かの計画に利用されている可能性について考えていた。
今は、その本人が数メートル先でピアノを弾いている。
同じ一日の出来事とは思えなかった。
曲が終わる。
「どう?」
「さっきより曲としてまとまって聞こえた」
「本当に?」
「ああ。途中の低音は前の方が好きだったが」
ルカが振り返る。
「ちゃんと聴いてたんだ」
「聴けと言ったのはきみだろ」
「言ってないよ。レインが勝手に聴き始めたんだ」
「そうだったか」
楽しそうに笑うルカを見て、レインはようやく立ち上がる。
「食いに行くか」
ルカも立ち上がりながら少し考えた。
「夕方、買い出しに行ったんだ。夕飯でも作ろうかなって。ほら、週末ずっと泊めてもらったし」
「気にするなと言いたいところだが……手料理か」
「うん。ヒューゴから教えて貰ってるしね」
二人で教会を出る。
ほんの数歩先にある家へ向かいながら、レインが言った。
「じゃあ、頼もうかな」
「任せて!」
「俺も手伝う。包丁さばきには自信がある」
「外科医としてだろ」
「かもな。それに、きみはベーシストだ」
「料理と何の関係があるの」
「指を守れという意味だ」
「ああ、なるほど。はいはい」
家へ入る頃には、ルカの声に笑いが混じっていた。
ルカが肉を焼き、レインが野菜を切る。
途中で、切り方が大きすぎるとルカが口を出し、レインが「食べれば同じだ」と返した。
「火の通りが違ってくるんだよ」
「細かいな」
「レインって科学者のくせに雑なところがあるよね。料理は科学って言うでしょ?」
「音楽だって数学だろ。だが、数学者がみな優れた音楽家とは限らない」
「そういう理屈っぽいこと言う人、ミュージシャンに嫌われるよ」
「なら、もう言わないようにする」
レインは何でもない調子で言った。
ルカの手が止まる。
「……そういうこと、普通に言うよね」
「何が」
「何でもない」
まただ、とルカは少しうつむく。
自分の頬が熱い。
本人だけが気づいていないのか。
それとも、気づいていて大したことだと思っていないのか。
まだルカには分からない。
食卓についた時には、20時を回っていた。
昼間に何をしていたのか。
講義はどうだったのか。
さっき教会で弾いていた旋律がどこから出てきたのか。
取り留めのない話をしながら食べた。
大学で見た分析結果について、レインは話さなかった。
まだ話せる段階ではない。
少なくとも、不確かな情報だけを渡してルカを不安にさせるつもりはなかった。
その代わり、目の前で食事をするルカを何度か見た。
ここにいる。
今はそれでいい。
食後、ルカが時計を見た。
その仕草だけで、レインには分かった。
「帰るのか」
「うん。明日、昼からヒューゴの店」
「ここから行けばいいだろ」
言ってから、少し間があった。
ルカも同じことを考えたらしい。
「……冗談だ」
半分くらいは。
「だと思った」
そう笑顔で言うと、ルカはソファの背に掛けていた上着を取った。
昨日も、その前の日も、その前の夜も。
ここにいた。
たった三晩のことなのに、玄関へ向かう背中が妙に遠く感じる。
「送る」
ルカは断ろうとしたが、止めた。遠慮をする癖は、もう必要ない。
「ありがと」
「少し……歩きたい。車でなくてもいいか」
「うん。僕も」
道中、ぽつりぽつりと会話はあった。
しかし、ふたりともどこか静かだった。
やがてエントランスの前に辿り着く。
「着いたぞ」
「だね。送ってくれてありがと」
ルカは、すぐには正面ドアを開けなかった。
「明日、何時まで大学?」
「分からない。講義は午後まで」
「そっか」
「店は?」
「平日だからランチタイムだけ」
「分かった」
何が分かったのか。
どちらも訊かなかった。
ルカがようやくオートロックのパネルへ手をかける。
「じゃあ」
「ああ」
「……またね」
レインは一拍遅れて答えた。
「また。おやすみ」
その言葉に、ルカが少しだけ笑う。
ドアが閉まっても、レインは、ルカがエレベーターホールから消えるまで動かなかった。
静かになったエントランスで、ようやく踵を返す。
家までは歩いて15分ほどだ。
いつもなら、考えるほどの距離ではない。
だが今夜は、まっすぐ帰る気になれなかった。
途中の公園へ入り、街灯から少し外れたベンチに腰を下ろす。
夜気は冷たかった。秋はもう終わりに近く、木々はかなり葉を落としている。風が吹くたび、乾いた葉が舗道の上を転がっていった。
レインは背もたれに身体を預けた。
ポケットの中のスマートフォンに触れる。
ルカから連絡が来ているわけではない。
来る理由もない。
今、別れたばかりだ。
それでも一度画面を確かめてしまう。
数日すれば、また会う。
ルカは歌いに来る。自分を眠らせるために。
それも分かっている。
永久の別れでもなければ、長い不在ですらない。
抜け道を使えば、家はもう目の前だ。
なのに、帰る先を思い浮かべると、胸の奥に妙な空白ができた。
誰もいないリビング。
音のしないキッチン。
暗い寝室。
ほんの数日前まで、それがレインの日常だった。
一人で帰り、一人で食事をし、一人で眠れない夜を過ごす。
何年もそうしてきた。
それが普通だったはずなのに。
ルカが三晩いただけで、その普通がひどく古いもののように感じられる。
レインは息を吐いた。
馬鹿げている。
たった三日だ。
それだけで、誰かがいる家に慣れるほど、自分は単純ではないはずだった。
けれど、今こうして公園のベンチに座っているのは——
レインはしばらく動かなかった。
大学で見た分析結果が頭をよぎる。
ルカの名前。
曝露装置の稼働記録。
不自然に重なる時間。
誰かが意図的に彼を利用している可能性。
それを考えれば、胸の奥に再び冷たいものが沈む。
だが、今ここに自分を座らせているものは、それとは別だった。
もっと単純で、もっと始末が悪い。
ようやく、レインは立ち上がった。
冷えた手をジャケットのポケットへ入れ、家へ向かって歩き出す。
数分の道のりが、今夜は妙に長かった。
レインは家へ戻ると、その静けさに敢えて気が付かないふりをした。
冷蔵庫から水を取り出し、書斎に入る。
論文を書くつもりでノートPCも開いた。
けれど、一行読んだところで視線が止まる。
集中できない。
おかしな話だった。
大学では、ルカの待つ家へ帰れば仕事などいくらでもできると思っていた。
それが、今はルカがいないから、仕事にならない。
レインは椅子の背にもたれた。
「……まったく」
誰に向けたものでもない。
しばらくして、PCを閉じた。
当然、眠れる気はしなかった。
一方で、自分の部屋へ戻ったルカも、奇妙な虚無を感じていた。
狭いわけでも、居心地が悪いわけでもない。
自分の部屋だ。
それなのに、妙に空っぽだった。
靴を脱いでも、「ただいま」や「おかえり」を言う相手がいない。
今日の出来事を報告する相手はいない。
ベッドへ腰を下ろす。ひどく広く感じる。
腕を伸ばしても、何もない。
たった三晩。
それだけで、身体はもう別の温度を覚えてしまったらしい。
「……やだな」
小さく呟いて、自嘲する。
シャワーを浴び、明日の準備をして、寝る前にスマートフォンを手に取った。
レインへ何か送ろうかと思った。
《送ってくれてありがとう》
すでにもう口頭で言ったことだ。意味がない。
《おやすみ》
まだ少し早い。
意味もなく画面を眺めていると、メールアプリの未読表示に気づいた。
一件。
見覚えのある名前だった。
ルカは身体を起こす。
数か月前、クリスの店にゲストで出演したロンドンのインディーズバンドのリーダーだ。
その夜、少しだけ一緒に演奏した。
楽屋でメンバー皆と話もした。連絡先を交換したことは覚えている。
けれど、それきりだった。
本文を開く。
最初は、次の来日公演の知らせかと思ったが——違った。
ベーシストがツアーの一部に参加できなくなったこと。
クリスの店で一緒に演奏した時のことを覚えていること。
急な話で申し訳ないが、もしスケジュールが合うなら、サポートとして参加する気はないか。
ルカはそこまで読んで、動きを止めた。
約一ヶ月の欧州ツアー。
年末のロンドンを皮切りに、幾つかの都市を周り、またロンドンで幕を閉じる。
ずっと欲しかった話だった。
胸の奥から、じわじわと熱が上がってくる。
こういう機会を待っていた。
自分の音を必要とされること。
次の場所へ呼ばれること。
ルカはもう一度、メールの文面を最初から読み返した。
ツアーのスケジュールにある、アムステルダムで目が止まる。
同時に、レインの顔が浮かんだ。
今の自分では、まだ遠いと思っている相手。
仕事も、立場も、積み重ねてきたものも、自分とは比較にならない。
けれど。
これをやり遂げたら、少しは近づけるだろうか。
ルカの口元が、自然に緩んだ
次にレインに会う時、この話をしよう。
そう思っただけで、胸が高鳴った。
さっきまでの虚無感は一気にどこかへ消えていた。
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