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第37話 名前のない関係

夜になっても、昼間の空気がまだ家の中に残っているようだった。 デリバリーの夕飯のあと、どちらともなくリビングのソファに落ち着いた。それぞれの手には、ビールのボトルが握られている。 「映画でも観る?」 ルカの問いに、レインが少し意外そうな顔をする。 「今から?」 「軽いやつ。短めの」 「明日は月曜だぞ」 「僕は休み」 「俺は仕事だ」 「じゃあレインが寝落ちするまで」 「それなら。十分あり得る」 そう言いながら、レインはルカの隣に腰を下ろした。 結局選んだのは古いコメディだった。ルカが「今日は頭を使う映画は禁止」と言い張ったせいだ。 最初の十分ほど、レインはあまり興味がなさそうにしていた。 ところが、主人公がどうしようもなくくだらない失敗をしたところで、隣から低い笑い声が聞こえた。 ルカは画面から目を離す。 「笑った」 「笑うだろ、これは」 「意外」 「どういう意味だ」 「皮肉とか難しい比喩でしか笑わない人かと思ってた」 レインが呆れた顔でこちらを見る。 「俺を何だと思ってるんだ」 「医大の准教授」 「それは職業だろ」 ルカは笑いながら、ブランケットを足元まで引き上げる。 昼間よく動いたせいか、身体に心地よい疲れが残っていた。画面から流れる明るい音楽と、隣にある体温が眠気を誘う。 いつの間にか、肩がレインの腕に触れていた。 どちらも避けることなく、視線は画面に固定されたままだ。 しばらくすると、レインが腕をソファの背に乗せる。 そこから放たれる体温が、ルカにふわりと纏い付く。まるで、迎え入れてくれているような温かさだ。 ルカは少し迷ってから、身体を寄せてみた。 レインは何も言わない。 ただ、背もたれに置かれていた腕が下りてきて、そっとルカの肩を抱いた。 映画はまだ続いている。 けれど、ルカはさっきから内容の半分も頭に入っていなかった。 恋人でもない。 じゃあ何なのかと、尋ねる勇気すらない。 それなのに、日曜の夜に同じ家で夕食を食べて、同じソファで映画を観ている。 こんなふうに抱かれて。 「ねえ」 「ん?」 「これ、たぶん一人で観てもそんなに面白くないよね」 「俺も今それを考えてた」 ルカは顔を上げた。 「気が合うじゃん」 「珍しくな」 「ひどい」 レインが笑う。 ルカはまた肩へ頭を戻した。 映画の終盤、今度はレインの方が先に欠伸をした。 「もう寝る?」 時計を見ると、深夜に近い。 思っていたより時間が経っていた。 レインはリモコンを取り、エンドロールが始まったところで電源を落とす。 「そうするか」 ルカはまだレインの腕の中にいた。 レインも、それを解こうとはしない。 今日一日、何度も似たようなことがあった。 朝食を食べた。 一緒に買い物をした。 同じ場所で、それぞれ好きなことをした。 そして今、何でもない映画を一本観た。 特別なことなど、何もしていない。 それなのに、ルカにはひどく大切な一日に思えた。 「……そろそろシャワー浴びる」 ようやく身体を起こすと、肩からレインの腕が外れた。 少しだけ——いや、かなり——惜しいと思う。 「なんで明日仕事なんだよ」 珍しく強いオーストラリア訛りでルカが言い、レインは声を上げて笑った。 「月曜ってのはそういうもんだろ」 ルカはソファから立ち上がり、数歩進んでから振り返った。 レインはまだ座ったまま、ルカに顔を向ける。 「レイン」 「何だ」 「今日、楽しかった」 レインは一瞬だけ黙った。 それから、ゆっくりとまばたきをした。 「ああ、俺もだ」 ルカに笑顔が広がる。 「じゃ、主寝室の方、借りるね」 ルカが廊下へ消えたあとも、レインはしばらく動かなかった。ルカを抱いていた腕と胸に視線を落とす。 腕の中から消えた体温だけが、妙にはっきり残っていた。 ルカの存在が眠気を誘うのは、ほぼ確定してよいだろう。もしここに歌が加わっていれば、静脈麻酔で落ちるようにソファで眠っていたかもしれない。 レインは小さくため息をついて立ち上がった。 主寝室から聞こえる水音を背に、自室の浴室へと向かう。 帰国後すぐに主寝室をゲストルームとして整えた。自室は狭いが、使い勝手が良いから部屋替えはしなかった。 そのうち、オランダから友人が尋ねてくるか可能性は十分にある。 しかし—— レインはシャワーのコックを全開にした。 熱い湯を頭から落としても、一昨日見たルカの美しさを脳裏から消すことはできなかった。 もはや、ルカ以外があのベッドを使う様子など、想像できなかった。 ◆ ルカは借り物のTシャツと、洗いたての自分の下着を付けて浴室を出た。頭からバスタオルを被ったままでリビングへ戻ると、そこにレインの姿は無かった。 奥の浴室からも水音はしない。 「レイン……?」 呼びながら部屋の方へ進むと、「なんだ」と応える声が半分開いたドアから聞こえる。 「まだ寝ないの?」 「ああ、俺はここでいい」 レインは自室の椅子に座り、本を開いていた。 褪せたカーキ色のTシャツに、黒のロングボクサーが太ももの筋肉をより目立たせている。 「……なんで?」 「昨日、きみが隣にいるだけで眠れた」 「それなら、なおさら一緒に寝ればいいじゃん」 ルカは畳み掛けるように言ったが、レインは少し黙った。 「だからだ」 意味が分からず、ルカは眉を寄せる。 「眠れるからって、きみを隣に縛り付けておくわけにはいかない」 胸の奥が、すっと冷えた。 ついさっきまで、同じソファで身を寄せていた。 それなのに、突然線を引かれた気がした。 フローリングの床にある自分のつま先が、いつもより白く見える。 「なにそれ?遠慮してんの?」 「きみにはきみの時間がある。うちに泊まるから俺の隣で寝なければならない、という義務感を持ってもらいたくない」 「レインはいつもそうやって決めつける」 「決めつけてるわけじゃない」 義務感や同情で、ルカが本来持っているべき選択を奪いたくないだけだった。至極まともでフェアな対応だと考えた。 ルカに反論されることが、レインには少し意外ですらある。 「……僕が、レインの隣で寝たいと言っても?」 ルカには、勇気のいる言葉だった。 「きみは優しいから、同情心からそう言うだろうね」 ルカは思わず顔を上げた。 「ふざけんな!義務?同情?」 思ったより強い声が出た。 けれど、止められなかった。 「言っとくけど、僕はそんなお人好しじゃない」 レインは黙っていた。 「僕がここにいたいって言ってるのに、それすら僕の意思じゃないみたいに言うなよ!」 レインの目が伏せられる。 ルカは続けた。 「二度と、勝手に違う意味にしないで」 長い沈黙が流れた。 ようやく、レインが小さく息を吐いた。 「……すまない。俺が悪かった」 本心だった。 反論されてようやく、ルカを自分の型に当てはめようとしていることに気が付いた。 ——そして、自分に向けられているものが、同情でないかもしれないとも。 ルカは身体の力を抜き、レインのベッドにすとんと腰掛けた。 「レインがここで寝るなら僕もここで寝る」 「ルカ」 「嫌なら、僕を家から追い出せばいい」 きっぱりとした口調に、レインが目を瞬いた。 その口元が、ほんの少しだけ緩んだのを、ルカは見逃さなかった。 「無理だ。このベッドは狭すぎる」 そう言うと、レインは部屋の灯りを消し、主寝室へ向かった。 クイーンサイズのベッドの傍らに立ちブランケットを剥ぐ。 昨夜と同じように、隣を半分開けて、長駆を横たえる。 ルカは、ベッドの下に敷かれてあるラグを軽く蹴った。 そのまま勢いよく、レインの腹に飛び乗る。 「っ!おい!ルカ!」 「一回やってみたかったんだ」 ルカはニンマリと笑ってから、そのまま上体を倒し、胸をレインに添わせた。 首筋に額を埋める。 「いい匂い」 瞬間、レインの呼吸が止まった。 両腕が、ルカの背をゆっくりと抱く。 ルカはしばらく呼吸で上下する胸の厚みを楽しんだ。 このまま、眠ってしまうのも悪くはないけれど—— ルカは少し迷ってから、顔を上げた。 「……もう、僕には触りたくない?」 レインの目がこちらを向く。 「逆だ」 「え?」 背中の腕が、ぐいとルカの腰を掴んで、そのまま下方へずらされる。 「あ……」 硬く、熱いものがルカの内ももに力強く当たった。 「だから困ってるんだ」 胸の奥が大きく鳴った。 それだけで十分だった。 ルカはレインの頬へ手を伸ばした。 柔らかな無精ひげが指先をくすぐる。レインの体毛はブロンドに近く、ナイトスタンドからの灯りで輝いている。 レインはすぐには動かなかった。 ほんの数秒、ルカの顔を見つめる。 それから、静かに唇が重なった。 軽く啄むように、ルカの柔らかな唇にふれる。 何度目かに、唇がわずかに開かれ、ルカの熱い舌がレインの唇を撫でる。 「もっと深くして」 そう唇に囁かれ、レインは息を飲んだ。 抑えていたものが一気に溢れる。 確かめるように、何度も唇が重なる。 頬に触れ、髪を撫で、耳の後ろへ指が滑る。 ルカは目を閉じた。 触れてくる柔らかな感触と、発せられる荒い息。 その乖離が、たまらなく嬉しかった。 身体がぐいと抱き寄せられ、体勢が入れ替わる。 レインの重みが背をマットレスに押し付け、Tシャツの裾から手が差し入れられた。 指が腹をゆっくり撫で、肋骨の下を辿り、ルカが息を詰めた位置で一度止まった。 「続けてもいい?」 耳に囁かれた声は低く、鼓膜を揺らす。 胸が疼く。 ルカが頷くと、レインの表情が綻ぶ。 自分が望んだことを、この人は嬉しそうに受け取る。 何かを奪うためではなく、与えるために触れている。 「いちいち聞かなくていい」 「でもね……」 「レインのものになりたいって言ったこと、もう忘れた?」 即答すると、レインが低く笑った。 「……忘れない。たぶん、一生」 しばらく見つめ合う。 それからレインは、ルカの額へ口づけた。 頬へ。 喉元へ。 鎖骨を唇で押さえ、胸の先を舌でひと舐めしてから、下へ降りていく。 触れ方はゆっくりだった。 金曜の夜よりもずっと静かで、それなのに、ルカには今夜の方が深く感じられた。 どこへ触れられるかよりも。 どうして触れられているのかが、分かる気がしたからだ。 レインはルカの硬くなっているものへ、一度だけ指を這わせ、顔を上げる。 言葉はない。 しかし、レインの瞳は、まるで懇願するかのように許可を訴えてくる。 ルカは頷くことしかできなかった。 最初に触れたのは、先端だけだった。 唇が、熱を包む。自分の熱なのか、レインの口の熱なのか、境がすぐ分からなくなった。 舌が裏筋をゆっくり舐め上げ、腰が勝手に浮く。レインがそれを許さないかのように強く抑え、無意識にうめき声が出てしまう。 根元を指で軽く握られ、そのまま、口の中へ沈んでいく。 レインの呼吸の速さで、深く含まれては引かれ、また含まれる。 唾液の音が、部屋の静けさの中ではっきり聞こえた。 「見て」 くぐもった低い声。 反射的に見下ろすと、レインと目が合った。 欲望に満ちて暗い瞳を閉じないまま、自分を含んでいる。欲しいものを、自分の速度でしか受け取らない顔だった。 顎のシャープな線は、喉の奥までルカを受け入れている証だ。 ルカは堪えきれず、レインの髪へ指を絡めた。 声を抑えようとすると、レインがそれを止めるように、空いた方の手でルカの手を握る。 「声、聞かせて」 その一言に、胸の奥まで熱くなった。 レインは再び深く含み、喉の奥をすぼませる。 舌の腹で裏を押し、先端を締め付け、ルカが震えるたびに速さだけを少し上げた。 視線が、時折ルカと交わる。 見ている。 見られている。 しかしもう、ルカは耐えられなくなっていた。 「レイン……!」 目をきつく閉じ、名前を一度だけ呼んだ。 吸い上げが強くなる。 腰を押さえていた手が、太腿の内側へ移り、開かせる。 最後まで離さず、舌で清めるように舐め取ってから、ようやく顔を上げる。 レインは唇の端を親指で拭い、ルカの隣へ身体を戻した。 しばらく、ルカはまともに息ができなかった。 身体の奥に残った余韻が、まだ細かな震えになって手足まで走っている。 レインは何事もなかったように、立てた肘で頭を支え、ルカを見ている。 さっきまで自分をあれほど乱した男とは思えない静けさだった。 それが妙に腹立たしい。 ルカは横向きになり、レインを見る。 「……ずるい」 「何が」 「僕だけ」 レインの眉がわずかに上がった。 ルカは視線を下げる。 褪せたTシャツの下の胸。腹。そこからさらに下へ続く身体。 自分は何も身につけていないのに、レインだけがまだ服を着たままだ。 「足りない?なら、もう少し……」 「ま、待って。僕はもう、よくて……」 ルカは胸へ顔を埋める。 「というと?」 「したい。その……レインのを」 レインの呼吸が、一瞬止まる。 「……それは」 「また、義務感だとか言ったら殴るよ?」 レインは笑い声を上げた。 「そこまで言うのなら……」 声が低くなっていた。 それだけで、身体が熱を思い出す。 Tシャツの裾へ指をかけると、レインの腹がわずかに動いた。 止められない。 けれど、助けてもくれない。 ルカはゆっくり布を持ち上げた。 金曜の夜は、触れられることで精一杯だった。 今は、自分から知りたいと思う。 ルカは掌を腹へ置いた。 温かい。 鎖骨の下。肩。古い傷の縁。 どれも白く薄れているものもあれば、まだ皮膚の色がわずかに違うものもある。 レインの身体は大きい。 自分が両手で触れても、到底すべてを知ることなどできない気がした。 傷跡も、数えられない。でもそのことが、少しだけ嬉しかった。 これから触れられるところがある。知っていくことができる。 「……綺麗だね」 レインが目を細めた。 「何が」 「傷」 「傷を綺麗だと言う奴は初めてだ」 「そう?」 ルカは気にした様子もなく、一本の傷跡を指の腹でなぞった。 「だって、レインの身体にちゃんと馴染んでる」 「褒めてるのか?」 「すごく」 レインは少しだけ困ったように笑った。 ルカの手がさらに下へ移る。 脇腹に、斜めに走る傷があった。 他のものより長い。 肋骨の下あたりから、腹の横へ向かって伸びている。 ルカの指が、その途中で止まった。 「これは?」 レインは一度だけ視線を落とした。 ただ、見ている。 その視線が怖いくらい真っ直ぐで、ルカの方が耐えられなくなった。 ルカは傷の端を、壊れ物に触れるような慎重さではなく、ただそこにあるものを確かめるように撫でた。 「話すの、辛ければ……」 「いいんだ。きみになら」 低い囁きが落ちる。 その響きだけで、心臓が速くなる。 レインは少し黙ったあと、何でもないことのように言った。 「破片だよ」 「何の?」 「迫撃砲」 ルカの手が止まる。 レインはその反応を見て、すぐに続けた。 「俺を狙ったわけじゃない」 あまりにも平然と返されて、ルカは眉を寄せた。 「そういう問題?」 「重要な違いだ」 レインは苦笑する。 「基地に落ちた。着弾したところから少し離れてたんだが、飛んできた破片をもらった」 「どこ?」 「アフガニスタン」 分かっていた答えなのに、その言葉を聞くと急に傷が生々しく見えた。 ルカはもう一度、指の腹でそっと縁を辿った。 「深かった?」 「そこまでじゃない。腹壁まではいってない。運がよかった」 「自分で分かるもの?」 「ああ。出血の量と痛み方で大体は。ただ、さすがに自分で縫ってはいない」 「当たり前だよ」 ルカが思わず笑うと、レインも笑った。 「同僚に診てもらった。麻酔して、洗浄して、異物を取って、縫合」 「説明が完全に医者だ」 「他にどう説明しろと」 「普通はもっと、『すごく痛かった』とか」 レインが少し考えた。 「すごく痛かったよ」 意外なほど素直な返事だった。 ルカは顔を上げる。 「その時、怖かった?」 今度は、返事まで少し時間がかかった。 「着弾した瞬間は、たぶん」 「たぶん?」 「考える暇がないからね。先に身体が動く。そう訓練されている」 レインは自分の脇腹に置かれたルカの手を見た。 「すぐに負傷者が来た。自分の傷を気にしてる余裕はなくなった」 「レインも怪我してたのに?」 「歩けたから」 それで十分だと言わんばかりだった。 ルカは眉を寄せる。 「歩けたら働くの?」 「もっと優先度の高い患者がいる間はね」 「……軍医って、そういう感じなんだ」 「医者だから特別というわけじゃない。あそこでは皆そうだった」 ルカは黙った。 傷の線を、またゆっくり撫でる。 「他のも、そこで?」 「全部じゃない」 レインは肩近くの小さな傷を指した。 「これは車両から機材を降ろしてて切っただけ」 「え、普通」 「傷にいちいちドラマチックな由来を期待するな」 「ちょっと期待した」 「これは訓練中」 今度は前腕の薄い線を示す。 「こっちは?」 「搬送中に転んだ」 「患者を?」 「ああ。ストレッチャーを落としたくなくて、俺が下になった」 ルカは一瞬黙ってから、じっとレインを見る。 「……それは、すごくレインっぽい」 「どういう意味だ」 「自分の方が壊れてもいいと思ってるところ」 レインから笑みが消えた。 「そこまでは思ってない」 「本当に?」 問い返すと、レインは答えなかった。 その沈黙に、ルカはそれ以上踏み込まなかった。 代わりに、もう一度脇腹の長い傷へ触れる。 「でも、やっぱり綺麗」 「まだ言うのか」 「うん」 「あと一つだけ。この星型のは?」 ルカは、鎖骨まで指を滑らせた。 そこには星形に盛り上がった白い瘢痕がある。 初めて見た時から、銃創だろうとルカは当たりをつけているものだ。 「ああ、これは……」 「銃創でしょ?」 「まあね。でも、この話は次の機会に」 「なんで?」 「どうやらきみは傷跡が好きらしい。全部話すと、これから先に話題が無くなる」 「……それって、また僕と……?」 言葉はそこで途切れた。 レインも、自分が何を口にしたのか遅れて気づいたらしい。 ほんの一瞬、淡い瞳の奥に揺らぎが走る。 けれど、取り消さなかった。 「何だ」 むしろ、続きを促すように訊く。 その平静さが、ルカにはひどく眩しかった。 ——これから先。 たったそれだけの言葉なのに、そこには明日より向こうの時間がある。 今夜だけではない。 次があり、その次があり、そのどこかにも自分がいる。 レインの中で、それが無意識のうちに前提になっている。 胸の奥に、熱が満ちた。 幸福というものは、もっと静かに訪れるものだと思っていた。 けれど実際には、息苦しいほどだった。 嬉しい。 ただそれだけの感情が、身体の内側に収まりきらず、別の熱へ姿を変えていく。 目の前にはレインがいる。 古びたTシャツの下に隠された厚い胸郭。むき出しの腕には、時間に磨かれた傷がいくつも残っている。 その身体に、また触れられる。 また触れたいと思っていいのだ。 触れてほしいとも。 そう意識した瞬間、さっきまで穏やかだった鼓動があからさまに速くなった。 ルカはそれを悟られまいとするように、鎖骨の下の傷へもう一度指を置いた。 「顔が赤い。平気か?」 「レインのせいだよ」 「俺?」 「そう」 「今日は軽めにしたつもりだったが」 本当に心当たりがないような顔をする。 その無自覚さが、今は少し憎らしい。 ルカは傷から手を離し、そのまま掌をTシャツ越しの胸へ滑らせた。 布一枚の下に、確かな体温がある。 触れた瞬間、レインの呼吸がごくわずかに止まった。 見逃すには小さすぎる変化。 けれど、ルカには十分だった。 この先を望んでいるのは、自分だけではない。 そう知ると、不思議なほど勇気が湧いた。 「これからも、隣で寝てもいいんだ、と思って」 レインは黙った。 「違うの?」 今度は逃げずに、正面から訊いた。 沈黙は長くなかった。 「きみが嫌じゃないなら」 ぼそりと、低い声が落ちる。 胸の奥で、何かがひどく柔らかく崩れた。 まただ。 この人はいつもそうだ。 自分から欲しがる代わりに、ルカの望みを差し出す場所だけを空けて待っている。 まるで、そこへ何を置くかはルカが決めればいいとでも言うように。 ルカは、レインのTシャツの胸元を掴んだ。 「これ、邪魔」 視線が自分の指へ落ちる。 次に、Tシャツへ。 最後に、またルカの顔へ戻った。 次の瞬間には、もう裾へ両手をかけていた。 腕を交差させ、一息に布を持ち上げる。 腹部が露わになる。 脇腹の傷が現れ、厚い胸が続き、最後に肩の輪郭が抜ける。 鍛えられた身体が少し縮まり、頭を通したTシャツがするりと外れた。 レインはそれを片手にまとめ、ろくに見もせずベッドの脇へ放った。 あまりにも無造作で、それがルカの息を止めさせる。 広い肩。 胸郭。 皮膚の上を走るいくつもの傷。 そのどれも、昼の光の下で見るのとは違っていた。 いま目の前にあるのは、ただの裸ではない。 ルカの望みにより、脱いだ身体だった。 その事実が、ルカの内側に火を落とした。 レインが少し眉を上げる。 「何だ」 ルカは答えなかった。 言葉にした瞬間、何かが薄まってしまいそうだった。 だから代わりに、手を伸ばす。 今度は布越しではなく、直接その胸へ。 掌の下で、レインの身体が呼吸する。 硬い筋肉も、ところどころに残る傷も、その下を流れる熱も、すべてが一つの身体に繋がっている。 ルカはゆっくりと手を滑らせた。 「……どうすればいい?」 自分から触りたいと言っておきながら、何もわからなかった。 経験がないわけではない。 ただ、レインに対して抱いている感情が初めてだった。この気持ちを、どう伝えればよいのかがわからない。 「好きにすればいい」 レインは柔らかく微笑んで言った。 「一番困る答え」 「そうか?」 「僕、レインみたいに何でも知ってるわけじゃないから」 「俺だって、きみのことは手探りだ」 さらりと言われて、ルカは顔を上げた。 レインは笑っていなかった。 「本当に?だって、あんなに……」 ——気持ちいいのに。 「慣れてるのに」 「そうでもない」 「嘘だ」 「本当だよ。きみの反応を見て、どうするか決めてる。そういうもんだろ」 「そっか……」 「そうだよ」 自分だけが知らないわけではない。 この人も、一つずつ覚えている。 そう思うと、緊張が少しほどけた。 ルカはまたレインの身体へ視線を落とした。 肩から胸へ。 胸から腹へ。 指先が辿るたびに、皮膚の下の筋肉がごくわずかに動く。 「ここは?」 「尋問か?」 「反応を見るって、習った」 「誰に?」 「生物学の先生」 レインが喉の奥で笑った。 その震えが掌に伝わる。 ルカはそれが面白くて、また違う場所へ触れた。 今度は笑わなかった。 代わりに呼吸が少し深くなる。 「今の、好き?」 レインがこちらを見る。 「……きみは本当に飲み込みが早い」 「答えになってない」 しばらく睨み合うように見つめ合ってから、レインが観念したように息を吐いた。 「悪くない」 「それ、レイン語で『好き』ってこと?」 自分が触れることで、レインに変化が起きる。 嬉しくて、少し楽しくて、とてもそそられる。 ほんの少し呼吸が乱れる。 腹に力が入る。 声が低くなる。 普段なら見過ごしてしまうほど小さな変化が、今夜は一つ残らず見える気がした。 ルカは身体を寄せ、レインの胸へ口づけた。 一度。 少し場所を変えて、肋骨の谷間にもう一度。 唇の下で、レインの呼吸が止まる。 それだけで胸が高鳴った。 「……ルカ」 名前を呼ばれる。 警告にも聞こえるし、懇願にも聞こえた。 ルカは顔を上げる。 レインの目が、今までルカへ向けていたものとは少し違っていた。 ——委ねられている? そう気づいた途端、胸の奥が熱くなった。 こんなにも大きな身体を持つ男が。 何かあれば自分より先に動き、いつも決め、守り、与える側にいる人が。 今は、自分の手を待っている。 ルカはゆっくりと手を下ろした。 レインのそれは、ルカの掌が周りきらないほどだった。 ベーシストとして指は長い方だと自負していたが、まるで足りない。 その逞しさに、ルカは自分の喉仏が大きく上下するのが分かった。 レインの表情を見ながら、自分なりに探る。 少し変えれば、呼吸が変わる。 また変えれば、目が閉じる。 それを覚えていく。 同じように触れているつもりでも、ほんのわずかな違いで返ってくるものが変わる。 その反応を拾い、また試す。 音と、同じだ——。 レインが、極上の楽器に思えてくる。 生身で、熱を持ち、世界で一番魅力的な。 夢中になっているうちに、ルカの肩に置かれていた手が、いつの間にか強くなっている。 時折、深く息を吐くのが分かる。 レインは感情を隠すのがうまい。 苦痛にも、疲労にも、たぶん長いあいだそうしてきたのだろう。 けれど、快楽まで完全に隠せるわけではないらしい。 呼吸が少しずつ崩れていく。 眉間に力が入る。 ルカの名を呼ぼうとして、途中で飲み込む。 「気持ちいい?」 訊くと、レインは薄く目を開けた。 「ああ」 「ほんとに?」 尋ねると、レインの手が重ねられた。 「続けて」 甘い囁きが、ルカの腰に響く。 指の力をほんの少しだけ強め、上下に動かす。 今までより自信を持って。 いま知ったばかりのレインの反応を、一つずつ確かめながら。 やがて、レインの身体に張りつめたものがはっきりと分かるほどになる。 肩が硬くなる。 呼吸が止まる。 それから。 「ルカ」 強く名前を呼ばれた。 いつもの落ち着いた声ではなかった。 「うん」 「……もう」 レインは目を閉じた。 次の瞬間、身体が大きく強張る。 ルカは動けなかった。 目を離せなかった。 いつも余裕があって、何でも知っていて、自分よりずっと遠いところにいるように思えた男が。 自分の手で。 快感を与えられたこと以上に、その事実が嬉しかった。 自分にも、この人へ渡せるものがある。 歌だけではない。 眠りだけでもない。 レインは束の間目を閉じていた。 「……どうだった?」 淡い瞳が開く。 「採点されたいのか」 「気になる」 レインが笑った。 珍しく、少し疲れたような笑いだった。 そのまま腕を伸ばし、ルカを引き寄せる。 素直に胸元へ収まると、大きな腕が背中を包んだ。 ルカはまだ少し興奮していた。 「……よかったよ」 「それだけ?」 レインが呆れたように息を吐く。 「そうだな……」 髪を撫でられる。 その手つきがあまりにも優しくて、さっきまでの熱とは別のものが胸に広がった。 「……話しておくべきか、迷った」 低い声だった。 ルカは思わず顔を上げる。 「え、なに……?」 「ああ、大丈夫だ。不安になるようなことじゃない」 「わかった。何でも聞く」 ルカは再び、レインの胸元に頬を寄せた。 胸に腕を回し、文字通り抱きつく。 どんな話を聞かされるのか正直慄いたが、レインの言葉を信じた。 「俺は……欲がなかった」 ルカを抱く腕に少し力が入った。 「なくそうとしたわけじゃない。身体が反応しなくなった。触れても、見ても、何も起きない。長いこと、そうだった」 ルカの指が、シーツの上で止まる。 「不眠と同じくらい?」 「ああ。原因も同じ」 レインは少し間を置いた。 「もう戻らないと思ってたんだ。それが……」 淡い瞳が、ルカから逸れない。 「最初は、きみの歌のせいかと思った。眠れるようになったのと同じで、何か身体に作用してるのかと」 「それで?」 「違うらしい」 「どうして分かるの」 レインがわずかに息を吐いた。 「歌がなくても、きみがいると眠れる。他のだれでもない。それに似て……」 そこで言葉を切る。 「きみに触れると、身体が反応する」 ルカは黙って、これが聞き間違いでないことを祈った。 「……僕だけ?」 レインの胸が、一度だけ深く上下する。 「ああ」 短い返事だった。 逃げ道も、言い訳もない。 ルカは視線を落とした。 「それって……」 続きが出てこない。 レインも急かさなかった。 しばらくして、ルカは小さく笑う。 「なんか、ずるいな」 「何が」 「そこまでは言うのに」 レインの目がわずかに細くなった。 「その先は、まだ言葉にはできない」 ルカは顔を上げた。 否定しようとして、できなかった。 今ここにあるものを、軽い言葉にしてしまいたくない。 かといって、あり大抵の言葉で口にできるほど、二人とも身軽ではなかった。 「でも、僕も……そうかも」 やっと、それだけ言える。 レインの手が、胸に置かれたルカの手へ伸びる。 指先が触れ、そのまま静かに重なる。 「俺は……」 レインの呟きを、ルカは待つ。 「どうでもいいと思ってるわけじゃない」 きっぱりとした口調だった。 ルカは重なった手を返し、レインの指に自分の指を絡めた。 「僕も」 何を、とは言わなくても分かる気がした。 今夜だけで終わらせたくないことも。 身体だけのものにはしたくないことも。 けれど、まだ約束には変えられないことも。 レインは握りあった手を口元に持っていくと、ルカの指に、小さくキスをした。 全ての大切な関係に、名前があるとは限らない。

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