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第36話 ふたりの休日
家に入ると、レインは何事もなかったように照明をつけた。
昨夜と同じ玄関、廊下、家具。教会の裏手にひっそり建つ静かな家なのに、一度ここで夜を越しただけで、もう昨日までとは違って見える。
「シャワーを使うなら主寝室のを」
「うん、ありがと。レインは?」
「自分の部屋で浴びる。タオルは昨日の場所にある」
淡々と告げて自室へ消えたレインに、ルカは微かな落胆と安堵の両方を覚えた。
けれど、『昨日の場所』という言葉が妙に嬉しい。
まるで、自分がまたここへ来ることなど、最初から決まっていたように聞こえた。
シャワーを浴びながら、ルカは否応なく身体のことを考えた。
朝ほどではない。それでも腰や腿には鈍い疲労が残っている。普段なら意識もしない場所まで、動くたび昨夜の記憶を返してくる。
そして、その奥に一つ、消えない感覚があった。
昨夜、レインに触れられた秘部。
知識はある。けれど、その感覚は知らなかった。
それなのに、もう続きを知りたい。
触れてほしい。もっと深いところまで。
そう思う自分を、もう否定することはできなかった。
問題は、その欲望をレインへ差し出していいのかということだった。
自分は音楽をやるために日本へ来た。自分だけの音を見つけたくて、ここまで来た。
けれど現実には、まだ大きな仕事もない。
それを恥じたことはなかった。自分で選んだ人生だ。
ただ、レインを前にすると、ときどき足元が揺らぐ。
医大の准教授で、かつて軍医として人の命を背負い、今も研究室と学生を抱えている男。
威厳と色気が同居する、強靭な肉体と淡い瞳。
そんな人間を、自分が当然のように欲しがっていいのだろうか。
身体だけではない。
時間も、生活も。
できるなら、その先まで。
考え始めると、欲望より先に躊躇いが立つ。
寝支度をして主寝室のバスルームを出ると、レインはすでにベッドにいた。
読んでいた本へ栞を挟み、ブランケットを持ち上げた。
「おいで」
ルカはその隣へ滑り込んだ。
すぐに腕が回ってくる。胸元へ引き寄せられ、頬に落ちた髪を指で払われた。
「おやすみ」
ルカは一瞬、返事を忘れた。
「……うん」
レインが目を開ける。
「何だ」
ルカは視線を逸らした。
「今日は、寝るだけなんだなと思って」
言ってすぐに後悔した。
レインはしばらく黙っていたが、やがて低く答えた。
「不満か」
ルカは苦笑した。
「……少し」
正直に言うと、レインの眉がわずかに動いた。
「何がしたい」
あまりにも真っ直ぐ訊かれて、今度こそ言葉を失った。
答えは分かっている。
昨夜の続きを知りたい。
触れられたい。
もっと近くまで。
けれど、それを口にすれば、身体だけの話では済まなくなる気がした。
同時に、身体だけの話になってしまう気もした。
「……うまく説明できない」
「そうか」
レインはそれ以上聞かなかった。
ただ、背中に回していた腕をわずかに緩める。
その瞬間、ルカは反射的に顔を上げた。
「なんで離れるの」
「俺がいると不安だろう。昨夜は少し踏み込みすぎたから……」
「違う」
即答だった。
レインが黙る。
「一人で寝たいわけじゃない」
「なら?」
ルカは一度目を閉じた。
ここだけは迷わなかった。
「ここにいて」
レインの目が静かに細められる。
「よかった」
腕が戻ってきた。
今度はゆっくりと、確かめるように背へ回り、そのまま深く抱き寄せられる。
ルカはその胸へ身体を預けた。
近い。
鼓動も、呼吸も分かる。
昨夜なら、それだけで身体が高ぶった距離が、今はひどく落ち着く。
少し間を置いて、ルカは言った。
「ちょっとだけ、欲張ってもいい?」
「うん?」
「朝まで離れないでほしい」
レインは何も言わなかった。
そっと顎を掴まれ、顔を上げさせられる。
胸の奥が大きく揺れた。
目を閉じると、ふんわりと唇が重なる。
触れるだけの優しいキス。
離れ際に下唇を軽く啄まれ、胸がざわめく。
そして、昨夜、触れられた場所も静かに疼いている。
——もっと欲しい。
いつか言えるだろうか。
引け目ではなく。
怖さでもなく。
自分の望みとして、まっすぐに。
「レイン」
「何だ」
「明日。教会の修理、手伝うよ」
胸越しに、低い笑いが伝わる。
「ああ、頼む」
「どこを直すの?」
「そうだな。俺は壁のひび割れをどうにかするから、きみは……」
「何でもやるよ?」
「じゃあ、ピアノを弾いてくれないか」
ルカは思わずレインの胸から頭を上げた。
「それだけ?」
「簡単なことではない。きみにしかできない」
「そんなことは……」
「言い直す。きみ以外には弾いてほしくない」
分厚い胸が軽く上下し、レインが深く息を吸ったのが分かった。
「もう寝ろ」
「……うん。おやすみ、レイン」
「おやすみ」
額に、そっと口づけが落ちる。
ルカは素直に目を閉じた。
◆
ふいに意識が覚醒し、薄く目を開ける。
視界の端で何かが動いていた。
レインの手だった。
片手でスマートフォンを持ち、親指だけでゆっくり画面を送っている。
何を見ているのだろうと目を凝らすと、英語の論文が並ぶサイトだった。タイトルと抄録をいくつか拾い読みしているらしい。
もう片方の腕は、ルカの腰に回っていた。
昨夜眠ったときと、ほとんど同じ位置に。
レインはとっくに目覚めているようだった。
それなのに、自分を腕から外すでもなく、起き上がるでもなく、そのまま朝を始めている。
——心地いい。まるで、ずっと前からこうして朝を迎えていたような気さえしてくる。
画面を送っていた指が止まった。
「起きたか」
ルカは少し笑った。
「分かった?」
「呼吸が変わった」
「医者っぽい」
「だろ」
スマートフォンから目を離さないまま返す。
ルカはその胸元へ少しだけ顔を寄せた。
「何読んでるの?」
「論文」
「僕、邪魔じゃない?」
そこで初めて、レインが画面から目を上げた。
「邪魔なら抱いてない」
あまりにも平然と言われ、ルカは返事を忘れた。
腰に回された腕が、さらに少しだけ締まる。
レインは何事もなかったように画面へ視線を戻した。
こういうところだ。
本人にはきっと、大した意味はない。
ルカはレインの胸へ額をつけたまま、しばらくスマートフォンの光を眺めた。
「何の論文?」
「睡眠だ」
レインの返答はいつも早い。けれど、簡潔すぎる。そのくせルカには『質問が多い』と指摘するのだ。
「不眠症について?」
知っているからこそ、もう一歩踏み込んでみる。
「そうだ。……興味があるのか?」
レインはスマートフォンを少し離し、意外そうにルカを見た。
「あるよ、当然」
「当然?きみは眠れるだろ。俺が知る限りでは」
興味があるのはレインのことだからだが、それはいったん置いておく。
「あのね、僕はいろんなことに興味がある。だからレインの話を聞くのが好きなんだ。もっと話してくれないと困る。僕にいちいち『なんで?』『どうして?』って、子供みたいな質問をさせてるのはレインだって分かってる?」
勢いづくルカに、レインはくっくと大きな肩を揺らした。
「そうだったか。それは申し訳ないことをした。でも、話がくどいとか、説明しすぎるとか——」
「その時は言う」
ルカが遮る。
「だから話して。ただし、分かりやすくね。レインの学生と違って、こっちはアート系なのを忘れないで」
「分かったよ。話したくないわけじゃない。興味がないのかと思っていた。きみとは……共通点があまりないから」
——なのに、こんなにも惹かれている。
レインは最後の言葉を飲み込んだ。一度触れ合ったくらいで感傷的になられても迷惑なだけだろう。
——ただし、ルカが望めば別だが。
「だからだよ!」
ルカの声は明るかった。ブラインドの隙間から差し込む朝の光よりも、ずっと。
「お互いの知識を共有するのって、楽しいと思わない?変だな。レインは大学の先生なんだから、この台詞はそっちから出てくるべきだと思うけど?」
レインはついに声を出して笑った。
「きみにはかなわないな。学生たちから聞きたい言葉だ。まあ、そうなるように導くのが教師の役目だがな」
「そのうちギターやピアノも教えてあげるね。きっと好きになるよ」
「ああ、頼むよ」
ルカは、スマートフォンを握るレインの手に自分の手を重ねた。
指を一本ずつ辿るように撫でる。
「ずっと外科医の手だと思ってた。でも、音楽家にも向いてるかも」
「器用な方ではあるな。だが今はただの研究者だ。さて、どうする?この論文について議論するなら、まずきみにも読んでもらうことになる」
「論文そのものより、レインが何に興味を持って調べているのかを知りたい」
「ああ、そういう……」
「僕の歌で眠れるって、不思議だなと思ってた」
ルカは、反射的に遮った。
レイン自身に興味があるのだとはっきり言ってしまったようで、急に気恥ずかしくなったのだ。
「俺も、それは検証する価値があると思っている。週三で俺に歌ってくれるって話だが、そのままデータ収集に使えそうだ」
レインは気に留めた様子もなく、ルカの話に乗った。
「レインが実験体ってこと?」
「うん。きみの歌で万人が眠るわけではないことは分かっている。そうでなければ、今頃クリスのバーは睡眠クラブだろ」
「言えてる」
「それと」
レインはいったん言葉を止めた。
スマートフォンをナイトテーブルに置き、ルカの手を握る。
「眠れたんだ、昨夜。歌はなかっただろ?きみがここで……隣で眠ってくれただけで」
「そっか……僕、ベッドに入ってすぐ寝たはず」
「きみの存在が眠りを誘うとすれば、ヒューゴだって睡眠クラブの仲間入りだ」
「確かに……」
「だとしたら、原因は俺にあるんじゃないか、というのが現時点での可能性だ」
「個人的なものってこと?」
「それを調べたい。俺個人の特性でないなら、どこかに似た報告があるはずだ。音でなくてもいいと思っている。何か、薬や治療以外で……」
「催眠術とか?」
ルカは聞かずにいられなかった。
レインがここまで自分から話してくれるのは、おそらくヘキセンリングの輪に入って以来かもしれない。
「それは効かなかった」
冗談で言ったつもりだったが、返事は大真面目だった。
「催眠術で不眠症を治すの?」
「標準治療ではないけどね。ヒプノセラピーと言って、臨床催眠を不眠治療の補助として取り入れることはある。身体をリラックスさせて、入眠しやすい状態に整える」
「効果がなかったの?」
「全くというわけではない。おかげで身体を休ませるコツは分かった。何年も不眠症なのに仕事も生活もこなせているのは、そのおかげだ。ただし、睡眠ではないから」
「そっか……」
ルカはレインの胸に頭を埋めた。
「ん?どうした?」
低い声が胸を通って頭に響く。
「週三だけでいいの?僕は、毎晩でも……」
「優しいね、きみは」
ルカの手が、ぎゅっと握られた。
窓の外は静かだった。
かつてなら、隣の教会には人が集まったのかもしれない。
今はもう何もない。
鐘も鳴らない。十字架もない。
残っているのは、古い建物と朝の光だけだ。
「ねえ」
「何だ」
「今日もシナモンロールある?」
画面を滑っていた指が止まった。
レインがゆっくりこちらを見る。
「……ルカ」
「なに」
「まさか、それ目当てで泊まってるんじゃないだろうな」
真顔だったが、声の端にはわずかに笑いが混じっている。
ルカは吹き出した。
「ばれた?」
「帰れ」
「ひどいな」
笑いながら、ルカはその胸へ頬を戻した。
「でも食べたい」
「ああ、買いに行くつもりだよ」
「じゃあ僕も行っていい?」
途端に、レインの返事が止まった。
「……いや」
「え?」
「俺が行く」
ルカは顔を上げた。
「悪いよ、昨日だって……」
「すぐそこだ。わざわざ二人で行くほどじゃない」
妙にきっぱりしていた。
けれど、その横顔を見ると、耳のあたりがわずかに赤い。
「レイン?」
「何だ」
「なんでそんなに嫌がるの」
「嫌がってない」
「嫌がってるよ」
レインはしばらく黙った。
やがて、低く呟く。
「……あのパン屋の奥さんは」
露骨に眉をひそめる。
「子供の頃から面倒見がよくて……たぶん、余計なことを言う」
ルカは思わず笑った。
「何言われると思ってるの」
「いや、俺にじゃない。きみに、だ」
「どんなこと?」
「知らん」
返事が早い。
「行ってみれば分かるよ?」
「想像はつく」
そこでレインは、ようやくルカを見た。
怒っているというより、明らかに居心地が悪そうだった。
「ふうん」
ルカはそれ以上追及しなかった。
レインが何を想像したのかは分からない。
ただ、自分と一緒に店へ行くことを避けたがっている。
ここに泊まることと、外で並んで歩くことは、もしかすると別なのかもしれない。
人に何かを言われるような関係には、したくないのかもしれない。
考えれば考えるほど、さっきまでの温かさに薄い影が差す。
けれど、それをレインに悟らせるつもりはなかった。
「そっか」
ルカは軽く笑った。
「じゃあお願いしようかな」
「ああ」
レインはスマートフォンをナイトテーブルへ置き、身体を起こした。
ルカの額に、小さなキスが落とされる。
「行ってくる」
◆
店に入ると、焼きたてのパンとバターの匂いが鼻をくすぐった。
レインは棚をひと通り見てから、カウンターへ向かう。
「フランツブロートヒェンは?」
店主の妻が顔を上げた。
「もうすぐ焼けるわよ」
「二つ欲しい」
彼女の目尻が、すっと下がった。
「二つ?」
「ああ」
「昨日も買っていかなかった?」
レインは答えず、棚からサワードウのパンを取った。ついでにチーズのケースを覗く。
背後で小さく笑う声がする。
「いよいよ恋人ができたのね」
「そういうんじゃない」
即答すると、笑い声が少し大きくなった。
「二日続けて朝からパンを買いに来て?」
「食いたがる奴がいるだけだ」
「へえ」
レインはチーズを一つと、店の主人手作りのサラミを選んでカウンターへ置いた。
彼女はそれらと、焼き上がりを待つフランツブロートヒェンを順番に見る。
「ちゃんと食べさせてあげたいんでしょ」
「ゲストへのマナーとしては当然だろ」
「ずいぶん大事にしてるのね」
レインの手が止まった。
「だから、そういうんじゃない」
「じゃあ、どういうの?」
面倒なことを訊く、と眉を寄せる。
それでも、子供の頃から変わらない距離感に気が緩んだ。
昔から、この人の前では妙なところで口が滑る。
「……俺の、恩人だ」
言ったあとで、レインは黙った。
彼女もすぐには何も言わなかった。
やがて、ふっと表情を和らげる。
「そう」
それだけだった。
問い返されなかったことに、かえって居心地が悪くなる。
ちょうど奥から焼きたてのフランツブロートヒェンが運ばれてきた。
甘いシナモンとバターの香りが広がる。
「はい。恋人……じゃなくて恩人だったわね。おまけを入れておいたから」
「……余計なことを」
「あんたがそう言うからでしょう」
レインは温かな紙袋を受け取り、会計を済ませた。
「明日も?それとも週末だけ?」
反射的に顔を上げた。
即答はできなかった。
「……分からない」
「じゃあ、とりあえず明日も焼いとくわ。売れなきゃ私が食べるし」
にこやかな返事に、レインは思わず破顔した。
「うん」
紙袋を抱えて店を出る。
外の空気はまだ少し冷たい。
袋から、温かなシナモンの香りが漂ってくる。
焼きたては格別だ。
ルカなら、きっと喜ぶ。
そう思っただけで、口元がわずかに緩んだ。
玄関を開けると、家の中は出たときと変わらず静かだった。
ただ、リビングの方から微かな物音がする。
紙袋を提げて覗くと、ルカはソファに座り、スマートフォンを見ていた。
「おかえり」
顔を上げた途端、その視線がレインではなく紙袋へ落ちる。
レインは眉を上げた。
「やっぱりパン目当てじゃないか」
「ちゃんと最初にレイン見たよ」
「一秒もなかった」
「じゃあ次から二秒見る」
ルカが笑いながら立ち上がる。
紙袋から漂う甘い香りに、もう隠す気もなく鼻をひくつかせた。
「焼きたてだ」
「最高!」
予想以上に嬉しそうな声だった。
——ちゃんと食べさせてあげたいんでしょ。
さっきのパン屋の奥さんの言葉が、不意に頭をよぎる。
レインは何も言わず、袋をキッチンへ運んだ。
「皿、出してくれ」
「了解」
「コーヒーも頼む」
「それくらいは働きます」
二人で朝食の支度をする。
レインは自分用のサワードウを切り、チーズとサラミを並べた。ルカの皿には、まだ温かいフランツブロートヒェンを二つ。
椅子に座ったルカは、しばらくそれを眺めていた。
「食わないのか」
「見てる」
「見ても増えないぞ」
「焼きたてって、それだけでちょっとありがたいじゃん」
そう言って一つ手に取る。
温かな生地を割ると、幾重にも重なった層の間から、シナモンとバターの香りが立ち上った。
ルカはひと口食べて、動きを止めた。
レインがコーヒーを注ぎながら見る。
「どうした」
「……これ、やっぱり僕の知ってるシナモンロールと違う」
もうひと口。
今度は確かめるようにゆっくり噛む。
「初めて食べた時から思ってたんだ。生地がすごく軽い。外側はちょっとさくっとしてるのに、中はバターが染みてる」
「正確には、シナモンロールじゃないからな」
ルカが顔を上げた。
「違うの?」
「フランツブロートヒェン」
「フランツ……?」
「ブロートヒェン。ドイツ北部ではそう呼ばれてる」
「へえ」
ルカは興味深そうに断面を見る。
「じゃあ、あの渦巻きのシナモンロールとは別物なんだ」
「クロワッサンに近い生地だな。あの店のは、それにアプリコットを混ぜてある」
「アプリコット?」
もう一口食べる。
「あ、本当だ。言われると分かる。すごく薄いけど、最後にちょっと酸味がある」
「だから甘さが重くない」
レインは自分のパンにチーズを載せた。
「それに、あの店はバターがうまい」
「そんなに違う?」
「フランスから仕入れてるらしい。『バターに金を惜しむな』が店の奥さんの口癖だ」
レインは片手の指で二重引用符を作った。
「だからこんなに香りが残るんだ」
ルカは感心したようにパンを眺め、それから笑った。
「二個買ってきてくれて正解」
「もっと欲しければ追加で買ってくる」
レインが紙ナプキンで口を拭い、椅子を引く。今にも出かけそうな勢いだ。
「二つで十分だよ。ありがと。一個目を食べながら、二個目がある安心感を噛みしめてる」
レインは思わず笑った。
「大げさだな」
「食べ物の幸福って、けっこう大事だよ」
その言葉に、レインは少しだけ手を止めた。
「そうだな」
ルカは二つ目に手を伸ばす前に、少しちぎってレインの皿へ置いた。
「俺は甘いものは……」
「焼きたてなのに?」
引かないルカに負け、レインはそれを口に入れる。
「ね?」
「ああ、うまいな」
満足そうに微笑むルカに、しばし視線を奪われる。
胸の奥に、味覚の甘さとは違う甘さが静かに広がる。
ルカは二つ目のフランツブロートヒェンまできれいに食べ終えると、名残惜しそうに指先についたシナモンを舐めた。
「あーあ、毎朝食べられたらな。ね、お店の場所、教えてよ」
「必要ない」
レインはコーヒーを飲みながら答えた。
「なんで?」
「俺が買ってくる」
ルカは少し考えてから、ふと思いついたように顔を上げた。
「あ。ヒューゴに聞けば分かるか。店の仕入先なんでしょ?」
レインの手が止まった。
数秒、無言でルカを見る。そして、空になったカップへ視線を落とした。
「明日の朝も、俺が買ってくる」
さらりと言われて、ルカは黙った。
意味を理解するまで、ほんの少し時間がかかった。
明日の朝も。
ということは——。
胸の奥に、じわりと熱が広がった。
「……僕、今日も泊まることになってる?」
レインが顔を上げる。
「帰るのか?」
まるで、そちらの方が意外だと言わんばかりだった。
「ううん、帰らない」
ルカは慌てて首を振る。
居てもいい。
今日も。
明日の朝まで。
レインはそれ以上確認せず、当然のように言った。
「なら、明日も二つ買ってくる」
ルカは少し俯いた。顔が情けなく綻んでいる気がして。
嬉しい。
ひどく嬉しい。
こんなことで、と思うほどに。
一方でレインは、自分でも馬鹿げていると思っていた。
店の場所など、教えれば済む。
ルカが自分で買いに行けるようになったところで、本来なら何も困らない。
それでも——この役目を、手放したくなかった。
長いあいだ、自分の意思ではどうにもならなかった眠りを、ルカの歌は連れてきた。
なのに今朝、さらに知ってしまった。
歌がなくても、ルカが隣にいれば眠れるらしい。
不眠は長年、思考も集中力も体力も、本来持っていたはずのものを少しずつ削ってきた。
それを取り戻させてくれる人間がいる。
今のところ、この世にひとりだけ。
そのルカが、あのパンを食べて笑う。
なら、何度でも買いに行けばいい。
朝でも、夜でも。
雨でも雪でも。
季節がいくつ巡っても。
そのルカを喜ばすことができるのなら、どんな機会であれ逃したくはない。
◆
朝食を終えると、二人は教会へ移った。
昼の光の中で見ると、建物の傷みは夜よりよく分かる。
造りそのものは頑丈だったが、壁には細かな亀裂が走り、窓枠の塗装もところどころ剥がれている。長く人が集まらなくなった建物には、使われていた頃とは違う静けさが染みついていた。
レインは脚立に上がり、壁を指先でなぞりながら亀裂を確かめていく。
ルカは少し離れて、その様子を眺めていた。
「これ、全部ひとりで直すつもりだったの?」
「急ぐものでもないからな」
「業者に頼まないんだ」
「構造に関わるところは頼むよ。俺がやるのは、その前の手入れみたいなものだ」
「なんか、レインらしい」
「何が」
「壊れてから直すんじゃなくて、壊れる前に気づこうとするところ。やっぱり、根っからのお医者さんなのかもしれないね?」
レインの手が一瞬止まった。
数秒後、何事もなかったように工具へ手を伸ばす。
ルカは、祭壇だった場所に上がり、ピアノの蓋を開ける。
一音鳴らすと、古い礼拝堂の空気がわずかに震えた。
鐘はもう鳴らない。
十字架は壁にその跡があるのみだ。
それでも、この場所は音を受け止めることだけは忘れていなかった。
ルカはゆっくりと鍵盤を辿る。
何曲か弾いているうちに、工具の音が途切れた。
振り返ると、脚立の上でレインがこちらを見ている。
今度はレインの方から口を開いた。
「ここで聴くと違うな」
「何が?」
「クリスの店で聴いた時と」
「僕もそう思ってた!」
「パイプオルガンもないし、音響を考慮した設計ではないはずだが」
「僕は地元の教会でも演奏したことがある。でも、ここは特別。低い音も逃げない」
試すように左手で低音を鳴らす。
柔らかな振動が床を這った。
レインはしばらく耳を澄ませている。
「修理したら、音が変わるか」
「どうかな。でも、もっと良くなる気がする」
「なら……よかった」
「音のために直すのやめるつもりだった?」
「場合によっては」
ルカは笑った。
「建物よりピアノ優先?」
「この建物を使う奴がいるなら、使い方も考える」
その言葉に、ルカは鍵盤へ視線を落とした。
自分がここで弾くことが、これからも続いていく。
そう聞こえたのは、きっと気のせいではない。
昼を過ぎた頃、レインは壁を見上げて唸った。
「足りないな」
「材料?」
「ああ。補修材とサンドペーパー。ヘラも替えたい」
ルカはピアノから立ち上がった。
「じゃあ買いに行こう」
「ああ」
朝のパン屋とは違う、あまりにも自然な返事だった。
知り合いに見られるのが嫌なのだろうか。
けれど、それなら以前、大学の学食へ自分を連れて行ったことと辻褄が合わない。
考えても分からないか。
そう素早く判断し、ルカは追及するのをやめ、レインに続いて教会を出た。
ホームセンターに着くと、レインは真っ先に資材売り場へ向かった。
補修材の成分表示を比べ、ヘラの幅を確認し、サンドペーパーの番手を選んでいく。
ルカはカートを押しながら、その様子を眺めていた。
「今日は研磨までいかないだろうな」
「明日以降もやるの?」
「ああ。平日はほぼできないからな」
ルカは何気なく訊いた。
「僕も手伝っていい?」
少し考えてから、レインは頷いた。
「手を痛めるようなことだけはするなよ。絶対に」
「知ってるよね、DIYは得意なんだ」
「知ってる。でも無茶はするな。俺はきみがその辺りをうろついてるだけで……」
「なんだよ。僕、そんなに危なっかしい?」
「違う」
レインはカートへ補修材を置いた。
「手伝いは二の次だ。近くにいてくれればいい」
あまりにも自然な返事に、ルカは何も言えなくなった。
二人で教会の修理方法を考えながら店内を歩く。
途中で切れていた電球を思い出し、照明売り場にも寄った。
庭の果樹に肥料が欲しいと、ガーデニング売り場にも回る。
休日に二人で、暮らしに必要なものを選んでいる。
その何でもない光景に親密さが滲んでいるようで、もう、朝のパン屋のことなど、どうでもよかった。
教会へ戻り、資材を運び込む。
ルカは再びピアノへ向かいかけて、ふと思い出した。
「そうだ。ついでに楽譜も」
レインが振り向く。
「楽譜?」
「事務室にあるってオマが教えてくれた」
「オマが?」
声に露骨な興味が混じった。
ルカは笑う。
「知らなかった?たくさんあるよ」
「見せてくれ」
あまりの即答に、ルカは目を丸くした。
「何かリクエストでも?」
「母の楽譜かもしれない」
そう言って、もう先に歩き始めている。
事務室は、礼拝堂の入口から入ってすぐ右手にある小部屋だ。
扉を開けると、紙と古い木の匂いがした。
机、椅子、書類棚。壁際には本棚が並んでいる。どれも簡素な木製だが、使い込まれて艶がある。
楽譜の引き出しはアルファベット順に整理され、目当てのものがすぐ見つかるため、ルカは収蔵されている曲目すら把握していなかった。
「この辺の引き出しがそう」
ルカが指差すと、レインはためらいなく一つを開け、傍らの机へ中身を次々と並べていった。
「お母さんのだった?」
「ああ。全部そうだ」
一冊をぱらぱらとめくり、途中のページを開いてルカへ見せる。
「ほら。俺の落書き」
「うはっ」
ルカは思わず吹き出した。
そこには、可愛らしいアヒルが描かれていた。
ただし、器用に中指を立てている。
「練習が嫌でね」
「えっ、じゃあ習ってたの?」
「母はピアノ講師だったからね」
「どれくらい?」
「彼女が入院するまでだから、十一歳かそこらだな。二歳から始めた」
「それならかなり弾けるんじゃ……」
「もう何年も弾いてない。特訓すれば、あるいは」
「教え甲斐がありそう!楽しみだな」
はは、とレインが声を上げて笑う。
「なら、頑張るよ」
「ピアノの先生だったのなら、教本がどこかに……」
ルカは壁際の本棚へ向かい、視線を巡らせた。
「あ、これかも」
一冊抜き取ろうとして、その上の棚に目が止まる。
古い聖書や宗教書が並んでいた。
その中に、日本語の背表紙がある。
『ルカによる福音書』
「あ」
背後にいたレインが覗き込む。
「どうした」
ルカは背表紙を指した。
「僕と同じ名前だ。これはなんて読む?」
「ふくいんしょ。Gospelだな」
「もしかして、The Gospel of Luke?」
ルカは本を抜き取った。
「そうだ」
「日本語だと僕と同じルカになるんだ。なんかちょっと得した気分。ルカって、聖人?」
「伝承では聖人だな。パウロには同行したとされてる。でも、イエスを直接見て書いたわけじゃない。人から聞いた話や記録を集めてまとめた、と考える方が近い」
「へえ。じゃあ吟遊詩人みたいなもの?」
表紙を開き、ぱらぱらとページを送るルカに、レインは笑みを向けた。
「福音書に楽譜でも付いていれば、そう言えるかもしれないがな」
「教会でこんなこと言うのもなんだけど、僕、聖書すら読んだことない」
「まあ、普通だろ」
「レインは?詳しそうだけど」
「いや、読まされただけ」
少し拗ねたようなレインの言い方に、ルカは笑った。
「ピアノも聖書も、自分からじゃないんだ」
「ピアノ講師と牧師の息子に選択権があると思うか」
「じゃあ内容も覚えてる?」
レインは本気で記憶を探るように目を細めた。
「ほとんど忘れた」
「そんなに?」
「試験もなかったからな」
「試験があったら覚えた?」
「たぶん」
ルカはくすくす笑いながら、またページをめくる。
「レインって、そういう子供だったんだ」
「どういう」
「必要ならちゃんと覚える。でも必要ないと思ったら、きれいに忘れる」
レインは少し考え、それから苦笑した。
「否定できない」
その反応が珍しくて、ルカはまた笑った。
「何か一つくらい、覚えてない?」
「一つか」
レインはページを眺めた。
「食事の場面が多かった気がする」
「それだけ?」
「それしか記憶にない」
ルカは手を止めた。
「聖書って、もっと非現実的な奇跡の話ばかりだと思ってた」
「はっきり言うんだな。同感だが」
ルカは少し笑って、もう何ページかめくった。
文字を追うというより、ところどころ目に入る単語を拾っているだけだった。
「自分と同じ名前だと、ちょっとだけ親近感わくけどね」
ルカは冊子を元の位置へ戻すと、楽譜を抱えて事務室を出た。
その後を追ってレインも扉へ向かうが——ふと足が止まる。
棚に戻された『ルカによる福音書』の背表紙が目に入った。
——何か。
遠い記憶の底で、微かに引っかかるものがある。
けれど、掴もうとすると輪郭を失った。
レインはそれ以上追わず、事務室を出た。
礼拝堂へ戻れば、じきにまたピアノが鳴る。
自分は壁に向かい、ルカは鍵盤に向かう。
そういえば以前にも、似た時間があった。
大学の准教授室で、自分が論文を書いている傍ら、ルカが静かにウクレレを奏でていた。
あの時も、不思議なほど集中できた。
今は、長く使われなくなった教会を直す自分の傍で、ルカがピアノを弾いている。
今は誰にも見せる必要のない、自分の暮らしの内側だ。
それなのに、他人を自分の領域へ入れたという感覚が少しもなかった。
新しく何かを加えたというより、ずっと空いていた場所へ、ようやく正しいものが収まったような。
一つ嵌まると、また次の形が見えてくるような、予感にも似た感覚。
朝食を一緒に取り、同じ家を出て、必要なものを買いに行き、それぞれ別のことをしながら同じ場所で午後を過ごす。
どれも大したことではない。
なのに、その一つひとつが静かに繋がっていく。
レインはまだ、それを何と呼べばいいのか知らなかった。
ただ、ルカの音が響くたびに。
彼と視線が合うたびに。
自分の中の何かが、正しい位置へ戻っていくような気がした。
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