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 紺野は蘇芳を自分の車の助手席に押し込むと、すぐに発車させた。  紺野の車に乗る機会は少ない。それでも乗せられるたびに、ドアを閉めた瞬間遠のく外の音や、柔らかい革のシートに、何か場違いのような、落ち着かない雰囲気を感じた。  ――今日はそれだけじゃなくて……。  助手席のシートに腰を沈めた蘇芳は、紺野の怜悧な横顔を盗み見た。  紺野は、蘇芳の存在そのものを無視するかのように、無言でハンドルを握っていた。前方を真っ直ぐに見つめる瞳から、冷ややかな怒りが感じ取れた。 「……すみませんでした」  蘇芳は小さく呟いた。蘇芳の言葉は耳に届いたであろうが、紺野は反応しない。  紺野は滅多に表情を面に出さない。  初めの頃は、得体の知れない相手のような気がして、怖かった。特に、時折見せるガラス玉のような無機質な瞳が、まるで何もかもを見透かされているような気がして、たまらなく怖かった。今でも、そんな瞳を向けられると、少し怖い。  だが、二年も傍にいると、微妙な表情の変化が、何となく読み取れるようになった。  ――相当怒ってるな。  だが、何に対して怒っているのかまでは、分からなかった。  再び紺野に視線を遣った時、紺野の白いシャツの胸元が、斑に赤黒く染まっている事実に気がついた。紺野に抱きついた時に、犬の血をつけてしまったのだろう。 「あの、服が……。ごめんなさい、どうしよう……」  紺野は目立つ装いこそしていないが、身につけているもののほとんどが一流品だった。蘇芳は慌ててハンカチで汚れを拭き取ろうとした。だが紺野は蘇芳の手をはねのけた。 「そんなことは、どうでもいい」  紺野が不快そうに吐き捨てた。  蘇芳の行動が、紺野の機嫌をさらに損ねたのだと分かるまで、数秒かかった。  蘇芳は俯いて、小さく息を漏らした。  紺野の機嫌が悪い時に、蘇芳が機嫌を取ろうとすると、大抵は裏目に出る。分かっていても、つい下手な動きをしてしまう自分が、情けなかった。 「口の中に、傷があるんだろう」  紺野は真っ直ぐに正面を見たまま、低い声で訊ねた。訊ねた、というより、断言するような口調だった。  蘇芳は思わず肩を震わせた。  血が欲しくて、自分の頬の内側を噛んだことは、蘇芳本人以外の誰も知る由がない。否定しようと思えば、できたはずだった。だが、言葉を詰まらせてしまった以上、認めたも同然だった。 「明日、病院に行ってこい」 「……はい?」 「内科でいい。大学近くの総合病院なら、午前中に行けば受付してもらえるはずだ」  何の話をされているのか掴めず、蘇芳は首を傾げた。 「『野良犬に顔を舐められた』とでも言っておけ。『唇の端を舐められたかもしれない。ちょうど口の中に傷があったから心配になった』とでも付け加えておけば、必要な検査は向こうが決める。それ以上のことは言うな」  そこまで言われて、ようやく犬の血を啜りそうになったことに対する対応だと分かった。病院で受診した際に、どう説明したらいいのか、指示してくれているらしい。確かに「死んだ犬の血を舐めた」などと言えば、精神科に受診させられかねない。  とはいえ、動物の血くらい、今までに何度も啜ってきた。それほど大袈裟に考えるほどのことでもないような気がした。 「唇にはついたけど、まだ飲む前だったんですけど……」  紺野は何も答えなかった。呆れたような冷たい視線が一瞬、向けられたような気がした。  信号が青に変わり、車が静かに動き出した。その間も、車内には張り詰めた沈黙が続いた。  しばらく経って、低く吐き捨てるような声が、ようやく耳朶に届いた。 「血液が粘膜に触れた時点で、感染症のリスクは成立する。飲んだかどうかは、問題の本質じゃない」  言い訳したように思われたのか、それとも蘇芳の危機意識の低さに呆れたのか、蘇芳の余計な一言は、更に紺野の機嫌を損ねたらしい。  居心地の悪い車中で、蘇芳は身を縮めておくよりほかなかった。  車内は重たい沈黙に沈んだ。  赤信号で車が停止したところで、紺野が蘇芳に視線を向けた。 「蘇芳君」  いきなり呼びかけられて、蘇芳はびくりと肩を震わせた。 「何のために化学研究会の研究合宿に参加した? 君はサークル員ではないだろう」  やはり、紺野の機嫌を損ねた最大の原因は、化学研究会の合宿だったようだ。 「公認サークルのセミナーハウス利用には、助成金の申請ができるはずだが、おそらく君も人数に入れて請求されている。ある意味、詐取に等しい行為だ。そんな行為の片棒を担ぐような真似は、して欲しくない」  もっともらしいことを言っているが、おそらく紺野は、公認サークルの助成金になど、関心を持っていない。  蘇芳が化学研究会のサークル員と拘わることを、好ましく思っていないだけだ。  ――でも、僕にだって、付き合いがあるし……。いくら血液製剤を貰ってるからって、交友関係にまで口を出されたくはないんだけど……。  蘇芳は喉まで出かけた反論を呑み込んだ。 「……軽率でした」  神妙な表情を作って、項垂れた。こんなときに逆らっても、拗れるだけだ。 「分かっているならいい。後は今後のことだが……」  ちょうど信号が変わったためか、紺野の視線が、前方からゆっくりと蘇芳に向けられた。声の調子は僅かに和らいだものの、刺すような威圧的な瞳だった。 「化学研究会とは一切関わるな。君にとって、何のメリットもない」  思わず抗議の声を上げかけたが、厳しい視線を向ける紺野の前に、口を噤むしかなかった。  確かに、メリットはない。  とはいえ、交友関係はメリット・デメリットを考えて築くものではないはずだ。山田や美鶴と話すのは、楽しかった。  だがこれ以上、紺野を怒らせるわけにはいかなかった。 「……はい」  紺野は従容と頷く蘇芳を、軽蔑するような目で一瞥した。  ――どうして?  言うとおりにしているのに、何が不満なのか、蘇芳には掴めなかった。  紺野は興味を失ったように蘇芳から視線を外した。そんな態度を取られると、たまらなく不安になる。 「紺野さん、僕を見捨てないで下さい。お願いです」  無視し続ける紺野に対して、何度も繰り返した。しつこく食い下がる蘇芳に根負けしたのか、紺野は蘇芳に視線を移すと、小さく笑った。 「君は大事な実験動物だ。手放す気はない」  紺野は左手で、そっと蘇芳の髪を撫で上げた。その掌の温もりに、蘇芳はほっと安堵の息を吐いた。  ――そうだ。僕はこの人にとって、実験動物……。この人にとって、有用な存在なんだ。  安心したせいか、急に瞼が重たくなってきた。心地よい揺れに眠気を誘われ、蘇芳は目を閉じた。  どれくらい経ったか、夢うつつの中、何か温かいものに頬ずりをした時、どこか遠くから、紺野の声が聞こえた。 「………たぞ」  蘇芳は、ゆっくりと瞼を開いた。 「起きろ。着いたぞ」  ぼんやり広がる視線の端に、グレーの布地が見えた。紺野のツーツの肩口だった。  ――……え?  腰を起こすと、シートベルトが引き戻される音がした。  どうやら、爆睡している間に、体ごと傾けてしまっていたらしい。しかも、よりによって紺野の上腕に頭を預けるような姿勢になっていた。  気づいた瞬間、一気に目が覚めた。心臓が、飛び出しそうなほど激しく脈打っている。  センターコンソールの小ぶりなアナログ時計が目に入った。針は12時を少し回ったところを指している。  ――1時間くらい寝てた……。まさか1時間も、ずっと凭れかかってた?  心臓の高鳴りを感じつつ、蘇芳は俯いた。紺野のほうに視線を向ける勇気が出なかった。  寝ぼけたふりをしてごまかせるとも思えないし、謝るにしても、何をどう言えばいいのか分からなかった。  思考が空回りして、喉が詰まって言葉が出てこない。 「疲れていたんだろう。今晩はゆっくり休むといい」  紺野は、ドアのロックを解除しながら、どうでも良さそうな口調で言った。怒っている様子ではないことに、蘇芳は安堵の吐息を漏らした。  車は、蘇芳の下宿先のアパートの前に停まっていた。  ――送ってもらったお礼くらいは、ちゃんと言わなきゃ。  ようやく思考がまともに動き出した。だが、そう思った矢先、石川の言葉が脳裏に甦った。  ――ちょいちょい囁かれてるよな、紺野先生のゲイ疑惑。  石川の言葉をあれこれと思い出し、顔面が熱くなった。  ――あれって、紺野さんが、僕に気がある可能性があるってことか? でも、付き合って欲しいだなんて、言われたことないし……。  友達以上恋人未満の間柄だとしたら、こんな時にはどうするのだろうか。送ってもらった側は、相手を部屋に上げたりするものなのだろうか。 「……あの、紺野さんは?」  蘇芳は上目づかいに紺野の顔色を窺いながら、おずおずと訊ねた。 「私はこのまま大学に戻る。少しやり残したことがあるから」  あまりにそっけない返事に、構えていた蘇芳は肩透かしを食らったような気がした。 「……そうですか」  紺野は、早く大学に戻りたいのか、さっさと降りろと目で威嚇してきた。  ――これって……、紳士的な態度というよりは、恋愛対象外ってことだよな。それはそれで、なんだか寂しいような気もするけど……。  蘇芳は小さく溜息を吐いた。 「今日はもう遅い。欲しいなら、明日おいで」  紺野は、蘇芳がなかなか車から降りようとはしないのを、血液を欲しているせいだと思ったらしい。 「……送ってくださって、ありがとうございます」  蘇芳は車から降りようとした。その時、ポケットから小さな紙袋が転がり落ちた。  ――あ……。これは……。  渡せるかどうか分からないと思いながらも、紺野に買った土産だった。  蘇芳は紙袋を拾い上げると、紺野に差し出した。 「これ、良かったら……」  紺野は怪訝な顔で、紙袋を受け取った。 「何?」 「大したものじゃないんですが、観光してる時に、ちょっと見掛けて……」  袋を開いた紺野は、中に入っていた小瓶を一瞥すると、袋に戻した。 「香水をつける趣味はない」  突き返されるような気配を察して、蘇芳は慌てて車から飛び出した。  紺野が香水をつけていないことは、言われるまでもなく、蘇芳もよく知っていた。蘇芳は、常人よりも匂いに敏感だった。  それでも、土産物屋でこの香水を見かけた瞬間、紺野のことが思い浮かび、衝動的に買ってしまった。 「この香水、沈丁花の香りなんです。沈丁花の花言葉、知ってますか?」 「知らないな」  花言葉になど、興味がないのだろう。  「栄光、です。だから、紺野さんに似合うんじゃないかと思って……。いえ、別に、香水をつけて欲しいとかいうわけじゃないんです。栄光って言葉を聞いた時、紺野さんのことが思い浮かんだから……」  必死で言い募る蘇芳の様子に、突き返すことを諦めたのか、紺野は苦笑を浮かべながらも紙袋をポケットにしまった。  蘇芳はほっとして、ようやく車のドアを閉めた。 「ありがとうございました。明日、ちゃんと病院に行きます。その後、お伺いします。おやすみなさい」  蘇芳は車に向かって一礼した。  紺野は軽く頷くと、急いでいるのか、すぐに発車させた。  蘇芳は車が見えなくなるまで、アパートの前に佇んでいた。

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