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 さっきまでは暗かったはずの空が、青く広がっている。  紺野弘樹は、背中を伸ばしながら、実験室の窓から空を仰ぎ見た。  すでに昼過ぎだった。  昨夜、蘇芳を下宿先に送り届けた後、大学に戻り、昨日中に終わらせる予定だった実験をひたすら続け、ようやくひと段落着いたところだった。  結局昨晩は、一睡もできなかった。  睡眠不足は、思考力を低下させる。紺野は自身の生活のリズムを崩すのが嫌いだった。  それでも、昨晩は蘇芳を迎えに行かずにはいられなかった。  紺野は、ため息を漏らした。  ――仕方ないな……。惚れた弱みってやつか。  無防備な可愛い寝顔を思い出し、紺野は苦笑を浮かべた。  助手席で眠る蘇芳は、いつの間にか腰から肩まで大きく倒し、側頭部を紺野の左腕にぴったり押し付けてきた。  腕に重みをかけられて、ハンドルが取りづらかったはずなのに、押し付けられた温もりも、規則正しい寝息も、不思議と心地よく感じてしまった。  本人はおそらく何も考えていないのだろうが、あの無防備さは他人の警戒心を簡単に解いてしまう。  もっとも、セミナーハウスまで迎えに行く程度のことなら、惚れた弱みで済む話だった。  だが、かつて軽い好奇心から、気安く口約束をしてしまった、血液製剤の提供については、そろそろ荷が重たくなってきていた。  院生時代とは異なり、紺野は薬品等の管理責任を負っていた。  いくら廃棄直前の血液製剤であっても、不適切な処分をしていることには変わりない。研究者として、管理責任者としての良心の呵責に苛まれていた。  直前に蘇芳から急用ができたと連絡が入った時、紺野は内心、ほっとした。今週は、血液が不要なのかと、ぬか喜びをしてしまった。  ――我ながら、都合がいい解釈だ。週に1回、血液バッグを提供すると言い出したのは、私の方なのに。それに……。  犬の血を飲もうとした時の、蘇芳の恍惚とした双眸が脳裏に焼き付いていた。  ――あんなこと、二度とさせられない。  紺野は実験ノートに記録を残しながら、冷却装置の電源を落とした。  使い終わった機材をトレイに並べ直していると、背後から声を掛けられた。 「……紺野先生、失礼します。あの……少しだけ……」  実験ノートを手にした大学院生が緊張した面持ちで立っていた。紺野の実験がひと段落するのを待っていたらしい。 「どうした?」  訊ねると、院生はびくりと小さく瞬きをしてから、おずおずと手元のノートを差し出した。ページには、反応曲線のグラフと、温度変化を記録した表が記されていた。 「昨日から実験を繰り返してるんですが、どうしてもここで誤差が出てしまって……」  紺野は受け取ったノートに視線を落とした。 「バッファーはロットが変わっているな。pHを確認したか?」 「……え、いえ……。同じ製品なので大丈夫かと……」 「見た目が同じでも、製造番号が違えば中身は微妙にずれる。pHがわずかに違うだけで、反応結果は変わることがある」 「……すみません」 「それと、試料を常温に晒しすぎている。時間を厳密に管理し直せ」 「あっ、……はい。ありがとうございます」  院生は返されたノートを胸に抱え、深く頭を下げると、逃げるように立ち去った。  紺野は、使い終わった機材の片づけを終えると、実験室を後にした。       *  少し遅めの昼食を取ろうと、学生食堂に向かった。学生食堂は学生会館の中にあり、理学研究棟からは散歩するのにちょうどいい距離だった。  夏季休暇中で学生の数は少ないが、それでも学生会館の辺りは、昼過ぎというだけあって、思いのほか学生たちで賑わっていた。  オープンテラスに、見慣れた姿があった。  ――蘇芳君……。  蘇芳の隣に腰を下ろしているのは、理学部の学部生で、化学研究会に所属している男だ。確か、山田徹という名だった。  昨日、セミナーハウスの実験室の前で、大島美鶴とともに蘇芳が出てくるのを待っていたようだった。直接指導したことはなく、ほとんど接点がない学生だが、蘇芳と同じ高校出身ということで、時折蘇芳からその名を聞くことがあった。  交友関係がさほど広くない蘇芳にとって、数少ない友人の一人らしい。楽しそうに話している様子を、微笑ましく思った。  だが、二人の向かいに座っている女子学生の姿に、紺野の視線が釘付けになった。  大島美鶴だった。  彼女はしきりに蘇芳に話しかけ、蘇芳に視線を送っていた。大島が蘇芳に対して特別な感情を抱いていることは、遠目からみても明らかだった。  紺野は思わず目を逸らし、足早に学生会館の前を通り過ぎた。昼食のことなど忘れて、気が付けば理学研究棟に戻って来ていた。  そんな自身の動揺ぶりに、紺野は自嘲することさえできなかった。  ――あの子のことになると、どうしてこんなに動揺してしまうのか……。  紺野は自分の研究室のドアを開けた。  他の助教たちは、一室を共有して使っていたが、紺野には一室が与えられていた。ちょうどあった空き部屋を、高坂教授の勧めで使うようになり、気づけば紺野の個人研究室となっていた。  紺野は2時間ほど雑用をこなしていたが、蘇芳はまだ現れなかった。  苛立ちを覚えながらも、紺野は昨晩、蘇芳から渡された紙袋を開いた。  香水の瓶を手にすると、宙に向かって、軽くプッシュしてみた。  嫌いな香りではないことに、ほっとした。だが、やはり積極的に自分の身体につけたいとまでは思えなかった。  小さな溜息とともに、香水の瓶を箱に戻して鞄にしまった。やはり、香水は苦手だった。  蘇芳が研究室に現れたのは、それから5分ほど経ってからだった。 「失礼します」  紺野は苛立ちを押し隠しながら、ドアのほうに目を遣った。  2時間以上も大島美鶴と一緒にいたのではないかと思うと、紺野は胸の奥底に泥のような不快なものがわだかまってくるのを感じた。  だが、紺野の重苦しい気分とは対照的に、蘇芳は部屋に入ってくるやいなや、軽快な足取りで紺野の傍に駆け寄ってきた。 「どうした?」  蘇芳は普段、紺野の顔色を窺うように、上目遣いに紺野の顔を見ながら、おどおどとした足取りで部屋に入って来る。  蘇芳は紺野と目が合うと、面映ゆそうに目を逸らし、微笑んだ。  今までに見たことのない不思議な反応に、紺野は小首を傾げた。 「ねえ、紺野さん。見てください」  誇らしげに、手にしていた紙袋を開いた。 「限定品で、なかなか買えないんですよ。病院に行く前に寄ったら、あったんです」  ホイップリームとチョコレートで飾られたドーナツが2個、入っていた。駅前にあるドーナツショップの商品らしい。  この様子だと、病院では特に問題なしと判断されたのだろう。そのことには安堵した。だが、目の前のドーナツに、無性に苛立ちを覚えた。  ――こういうのを喜ぶ女、よくいるよな。  紺野はドーナツから視線を外した。  ――そんなものは、大島美鶴にでも渡せよ。そのほうが、よほど喜ばれるだろうに。 「さっき、君を見かけたよ」 「え? どこでですか? 声かけてくれたら良かったのに」  蘇芳は邪気のない笑みを見せた。 「学生会館のオープンテラスで」 「……あ、昼頃のこと…ですね。昨日、セミナーハウスに忘れて帰った荷物、山田が預かってくれてたんです。それで、荷物持ってきてくれたお礼に昼ご飯をおごることになって……。あの、別に化学研究会からの勧誘とかじゃなくて、山田は高校時代から、僕のこと気に掛けててくれてて……」  若干ぎこちない表情にはなったものの、蘇芳の顔には、まだ笑みが残っていた。 「じゃあ、君を化学研究会に勧誘しているのは、大島美鶴の方か。合宿に誘ってきたのも、彼女か?」  途端に、蘇芳の表情が凍った。 「……いえ、その……。直接声を掛けてきたのは、山田です。……あの、さっき美鶴さんが一緒にいたのは、店内で偶然会っただけで……」  大島美鶴の名を出した途端に、蘇芳の弁明がしどろもどろになった。そんな蘇芳に、紺野は苛立った。  蘇芳が大島に好意を持っていることは、明らかだろう。それが恋愛感情かどうかまでは分からないが、恋愛感情に近いのではないかと、紺野は感じ取っていた。  ――もともと、大島美鶴の血に欲情していたのを、私が強引に手元に引き寄せただけ……。  紺野はいつものように保管庫から取り出した血液バッグを、無言で蘇芳に差し出した。  ――間違えるな。この子が私に靡いたのは、単にこれが欲しかったからだ。私に好意を持ってくれたからじゃない。  紺野は自分に言い聞かせるように、心の中で呟いた。  それを裏付けるように、蘇芳はひったくるように紺野の手から血液バッグを掴み取ると、部屋の隅で紺野に背を向けて飲み始めた。  なぜか蘇芳は血液を飲む時、紺野に背を向けようとする。しかも、飲み干した後、いつも肩を震わせて咽び泣く。そんな時は、紺野が慰めようとしてもかえってヒステリックに喚き散らすだけだった。 「僕なんか死んだほうがいい」「僕なんか生きる資格がない」などという叫びを何度聞いたことか。  紺野は、その手の自虐的な発言をする人間の気持ちが全く理解できないし、理解したいとも思えなかった。  聞くたびに不快感が募る言葉に、紺野はうんざりとしていた。  ――聞きたくなければ、この子を寄せ付けなければ済むことなのだが……。  それでも、紺野は蘇芳を突き放すことはできなかった。惚れた弱みかと思うと、そんな自分に対しても、腹が立った。 「……落ち着いたか?」  ひととおり落ち着いたであろうタイミングを見計らって、紺野は机のパソコンに向き合ったまま、声を掛けた。  いつもなら、蘇芳の傍まで近づいていって、軽く肩に触れたり、背を撫でたりしていた。感情がまだ高ぶっている時に触れてしまうと、ヒステリーを起こすが、少し落ち着いてからだと、安心した様子で甘えてくる。  蘇芳は幼児期に母親を失っているためか、妙にスキンシップに弱かった。紺野にとって、自分に対して無防備に甘えてくる人間は、蘇芳が初めてだった。戸惑いながらも、可愛いと思わずにはいられなかった。  だが今日は、蘇芳の機嫌を取る気には、なれなかった。  そんな思いが、声色に出てしまったのだろう。  蘇芳は紺野の声に、肩をびくりと震わせた。  蘇芳はゆっくりと振り向くと、顔色を窺うような卑屈な目で紺野を見上げた。紺野が苛立っている様子を感じ取ったのか、ひどく怯えた表情を浮かべた。 「ごめんなさい……。あの……、僕のこと、見捨てないでください。何でもするから……」  涙の張りついた黒目がちな瞳で、切々と訴えてくる。まるで紺野が何かを無理強いしているかのようだ。自分は被害者だとで言いたげな様子が、かえって紺野を苛立たせた。 「……何でもするのか?」  蘇芳は、上目がちに紺野を見上げた。 「……紺野さんが望むなら」  聞き飽きた言葉だった。  蘇芳にとっては大切なのは、凭れかかることのできる相手だ。自分を甘やかし、庇護してくれる相手だったら誰でもいいのだろう。  蘇芳は、生まれたばかりの小動物のように、守ってやりたいという気持ちを起こさせる何かを持っている。性悪女が撒き散らすフェロモンのようなものだろう。そんな低俗な罠に自分まで嵌まってまったという事実が、不愉快でならなかった。 「だったら、それを頭から被ってみろよ」  紺野は苛立ち紛れに、電気ケトルを指し示した。中には、沸かしたばかりの熱湯が入っていた。さすがに蘇芳は驚いたらしく、縋るような目で紺野を凝視してきた。 「何でも私の言う通りにするんだろう?」  紺野はケトルを、蘇芳の目の前に置いた。  もちろん、本気ではなかった。怒るか、泣き出すか。従順な仮面をそぎ落としてみたくなっただけだった。  蘇芳は恐る恐る、ケトルを手に取った。両手で包み込むように持ったケトルを、食い入るように見つめていた。 「早くしろよ」  紺野は残虐な気持ちで、殊更に冷たい声で催促した。  蘇芳はゆっくりと顔を上げた。大きな瞳を見開いて、紺野の顔を見つめている。さっきまで怯えたような目だったのに、頼りきったような無心な瞳だった。口許には、仄かに微笑まで浮かんでいる。  紺野は得体の知れないものに呑みこまれていくような恐怖を覚えた。  蘇芳は、ケトルを両手で掲げるように持ち、斜めに傾けようとしている。 「馬鹿、やめろ」  紺野は慌ててケトルを奪い取った。幸い、湯は半分くらいしか入っていなかったため、蘇芳の頭に湯が掛かることはなかった。紺野は僅かに安堵を覚えた。もしも八割程度入っていたら、熱湯を被っていただろう。  そんな紺野を、蘇芳は小首を傾げながら見上げていた。 「どうして止めるんですか? 紺野さんが望んだんじゃないですか?」  最後まで言わせず、紺野は力任せに蘇芳の頬を平手打っていた。  それでも蘇芳は、小動物のような瞳で紺野を見上げた。目には涙が溜まり、頬は赤く腫れ上がっていた。 「出て行け」  一方的に蹂躙したような気分で、堪らなく後味が悪かった。  何でも自分の言いなりになる相手でなければ嫌というほど、包容力のない人間ではないつもりだ。そもそも、何でも言いなりになるというのは、従順なようでいて、実のところは呪縛に近い。  蘇芳は床に座り込んだまま、置物のように全く動かなかった。 「聞いているのか?」  蘇芳はあからさまに怯えた表情を浮かべながらも、それでも頑として部屋から出て行こうとはしない。  紺野は強引に蘇芳の腕を掴むと、ドアを開け、蘇芳を押し出そうとした。掴まれた腕が痛かったのか、蘇芳が悲鳴を上げた。それでも蘇芳は、必死で踏ん張って抵抗する。  苛立ちのあまり、再び手を上げかけたその時だった。 「体罰はまずいんじゃないですか? 紺野先生」  歌うような不快な口調が、廊下から聞こえた。  聞き覚えのある声だった。  紺野は、ゆっくりと顔を上げた。  ドアの向こう側に佇んでいたのは、思い出したくもない男だった。 「須藤……」  紺野は低く呟いた。

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