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須藤彰。
紺野が大学院修士課程2年生の時、卒業論文ができないと言って、提出期限ぎりぎりになってから泣きついて来た学部生だった。
時間が差し迫っていたため、やむなく紺野が原型を留めないほど大幅に手を加えた。
そうして体裁を整えた卒業論文の評価は、上々だったと聞いている。
――それなのに……。
須藤はその恩を仇で返してくれた。
「ご無沙汰してます。この4月から、助教になられたとか。さすが、高坂先生の懐刀と言われるだけありますね。羨ましい限りです」
当然のように室内に入り込んだ須藤は、媚びるような笑みを浮かべた。
「立派な個人研究室ですねぇ。助教でこれほど立派な部屋をお持ちなのは、紺野さんくらいじゃないですか? 高坂先生、よほど紺野さんのことを気に入ってるんですね」
「何の用だ?」
殊更に冷淡な口調で訊ねたつもりだったが、須藤は意に介する様子はなかった。
「ちょっと、相談したいことがあって……。えっと……」
須藤は紺野の背中に隠れるようにして突っ立っていた蘇芳に目を向け、小首を傾げた。
「まだ若そうだけど、卒論生? 紺野さんの指導を受けてるんだ?」
須藤は蘇芳に話しかけた。須藤自身は、にこやかに笑っているつもりかもしれないが、値踏みするような目つきだった。
蘇芳は後退りして、助けを求めるように、上目遣いに紺野を見上げた。
「ただの実験動物だ」
須藤にだけは、蘇芳のことを詮索されたくなかった。
「え? 実験動物? 実験指導じゃなくて……? 何ですか、それ」
須藤は大袈裟に驚いてみせると、かえって興味を覚えたのか、蘇芳の顔を覗き込んだ。
「……しばらく、席を外してくれ」
紺野は、小声で蘇芳に指示した。
蘇芳は固い表情で頷いた。その左頬は、赤く腫れあがっていた。
――冷やしたほうが……。
思わず口を開きかけたが、紺野は慌てて口を噤んだ。
感情任せに引っぱたいた張本人が、口にするべき言葉ではなかった。
蘇芳が部屋を出て行くと、須藤はおもむろに口を開いた。
「いや、実はですね……。俺、就職が決まらなくて……。やっぱ俺、研究者の方が向いてる気がしてきて、博士課程に進学しようと思うんです」
一般的に、研究者になるには大学卒業後、大学院修士課程2年間、博士課程3年間を経て、博士号を取得する。
須藤は学部生時代、昌泰大学の大学院にそのまま進むつもりでいた。だが、四年の秋になっても卒論が手つかずだったため、内部進学は認められなかった。結局、泣きつかれた紺野が、ほぼ全てを手直しした卒論が高く評価され、それを携えて他大学の大学院後期募集に出願し、そちらへ進学することになった。
修士課程を修了したものの就職先も進学先も決まらず、就職浪人をしているという噂話を、小耳に挟んだことがあった。
「博士課程に進んだのって、上に気に入られた奴ばっかですよ。卒論の評価、俺がぶっちぎりで高かったんですよ。なのに……。就職できた奴らだって、みんな、コネじゃないですか。ずるいですよ。実力だったら絶対負けないのに」
――実力の欠片もない奴が、何を言っている?
紺野は呆れるのを通り越して、吐き気を催した。
須藤には、研究者の道を選ぶほどの研究に対する熱意も意欲も、才覚もあるとは思えなかった。
こんな男に好意を抱き、親身になりすぎてしまった過去の自分が、堪らなく腹立たしかった。
「好きにすればいいだろう。私とは関係ない」
紺野は突き放すように言い切った。今更、須藤の面倒を見る気などなかった。
そんな紺野の思いをよそに、須藤は媚びるような卑屈な笑みを浮かべながら、須藤の手の甲にそっと触れた。
「冷たいこと言わないでくださいよ。俺と紺野さんの仲じゃないですか」
紺野の背中に悪寒が走った。
――私は、こんな男の、何に惹かれたんだ……?
思い出したくもない苦い記憶が、脳裏に甦る。
須藤が卒業論文を提出した日の晩、須藤に誘われて二人で飲みに行った。酔った須藤は、紺野に抱きついてきた。
そんな須藤に触発されて、紺野は余計な一言を言ってしまった。
――君のこと、好きだよ。
須藤は一瞬真顔になって、戸惑った様子を見せたが、聞こえなかったふりをした。
その態度が答えだと受け止め、紺野はそれ以上に押すこともなく、引き下がった。
だが数日後、学内で紺野がゲイであるという噂が広がった。紺野が須藤をラブホテルに連れ込もうとしたなどと、尾鰭のついた噂が、まことしやかに囁かれた。
「紺野さん、もしかして、まだ怒ってるんですか? 友達にちょっとしゃべっちゃっただけで、あんなに噂が広がるとは思わなかったんですよー」
須藤の軽薄な声に、紺野は我に返った。
「やっぱ、まだ怒ってるんだ? ちょっと粘着質すぎません?」
須藤は、肩を竦めて見せた。
「ねえ、紺野さん。キス……、いや、寝てもいいですよ。だから、機嫌直してくださいよ。ね?」
紺野は須藤の手を乱暴に振り払った。
屈辱感と怒りで、身体に熱が籠った。
「何を勘違いしているのか知らないが、私は君に何の関心も持っていないし、君の力になる気も一切ない。さっさと出て行ってくれ」
抑揚のない口調で、一気に言い切った。感情の揺れを悟られることは、紺野の矜持が許さなかった。
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