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 蘇芳は、廊下をひたすら歩き回っていた。  何度往復したのか、蘇芳自身にも分からない。  須藤という男が突然現れ、紺野はばつが悪そうな様子で蘇芳に席を外すように命じた。  紺野が須藤とどんな話をしているのか、蘇芳は気になって仕方がなかった。  ――僕の前では、できないような話……。きっと、僕には知られたくないことなんだ……。  そう思うと、かえって話の内容が気になってくる。  だが、紺野の研究室の前で聞き耳を立てるわけにもいかなかった。そんなことをして、紺野に気づかれたら、機嫌を損ねてしまう。  ――須藤さんって人、紺野さんと随分親しげだったけど……。  須藤は、蘇芳と同じくらいの背丈だった。少し茶色がかった髪の毛の色も、蘇芳とよく似ていた。  遠目に見たら、蘇芳と須藤は、よく似ているかもしれない。  オープンキャンパスで初めて会った時、山田が連呼した「蘇芳」という名を聞いた紺野が、僅かに眉根を上げたのを見たような気がした。 「すおう」と「すどう」は、よく似ている。  思えば、紺野は初めから蘇芳に関心を抱いていた様子だった気がした。  ――須藤って人に、僕がちょっと似ていたから?  そう思い至った瞬間、胸がずきんと痛んだ。  その時、突然ドアが開いた。蘇芳は慌てて柱の陰に身を隠そうとした。  部屋から出てきたのは、須藤ひとりだけだった。  須藤は蘇芳を目敏く見つけると、近づいてきた。 「紺野さんの実験動物、だっけ? さっきは邪魔して悪かったね」 「あ……、いえ……」  困惑する蘇芳をよそに、須藤は迷いのない足取りで、給湯室に立ち寄った。迷いながらも、蘇芳もその後ろを追った。 「これ、使いなよ。腫れてるよ」  人の良さそうな笑みを浮かべながら、須藤は保冷剤を素早くタオルで包んで、差し出してきた。受け取っていいものなのか、困惑していると、須藤は悪戯っぽく笑った。 「頬に、くっきりついてるよ。手形が」 「手形……?」  須藤が姿を見せる前に、紺野に頬を張られたことを思い出した。  蘇芳は恥ずかしくなって、俯いた。だが、自分の頬に紺野の手形が残っているのかと思うと、なぜか少し、嬉しかった。  ――殴られて嬉しいなんて、僕、どうかしてるのかな? 「ごめんな。めったに取り乱す人じゃないんだけどね」 「え?」  蘇芳は小首を傾げた。何を謝られているのか、分からなかった。 「紺野さんのこと、許してやってくれる?」 「は?」  蘇芳は眉根を上げて、須藤の顔をまじまじと見つめた。紺野の行為を、この男が詫びてくる意味が、分からなかった。  須藤は鷹揚に微笑むと、言葉を継いだ。 「尊大な態度だから嫌われやすいけど、実はけっこう良い所もあるんだよ」  蘇芳は何となく、須藤に反発を覚えた。だが、垢抜けた雰囲気を身に纏った須藤に気圧され、蘇芳は押し黙るしかなかった。 「あのさ、ちょっと気になったんだけど……、君、本当に紺野さんの実験体になってるの?」  僅かに眉根を寄せて、困ったような表情を作ってはいるものの、蘇芳のことを心配しているわけではない事実を、蘇芳は本能的に嗅ぎ取った。 「そんなわけ、ありません。言葉の綾でしょう」  蘇芳は口早に言い切った。一瞬、須藤は不快そうに眉をぴくりと動かした。 「……だよねぇ。いくら紺野さんでもねぇ。いや、余計な口出しだとは思ったんだけど、ちょっと気になったものだからさ」  須藤は、ことさらに快活に笑って見せた。 「うーん。でもねぇ、紺野さんって研究者としてはすごく優秀なんだけど、ちょっと倫理観に欠けたところがあるんだよね」  須藤は声を潜めて呟いた。 「今はまだ何もなくても、もしかしたら、本当に《実験動物》にする気かもしれないよ」 「どういう意味ですか?」  「本当は君自身、解ってんじゃないの? あの人が、どれだけ冷たい人間か。あの人の出世の犠牲になった人間がどれだけいるか、聞いたことくらいあるだろ? 人間に対しても冷たいんだ。実験用の動物に対してなんか、なおさらだよ。実験用のマウスなんか、どんな無残な死に方をしたって、何とも思わないし、要らなくなったマウスは、まるでゴミくずみたいに、ばんばん殺処分に回す人だ」 「……そんなこと……」  蘇芳は咄嗟に反論しようとした。  だが、紺野が実験動物に対して、どんな風に扱っているか、蘇芳は全く知らない。 「そんな人が、君を《実験動物》と呼んでいることは、しっかりと認識しておいたほうがいい。俺としては、早く離れたほうが身のためだと思うよ」  須藤は出来の悪い生徒を諭す教師のような口調で、蘇芳の耳元で囁いた。  だが、蘇芳としては、そんなことにまで口出しされるのは不本意だった。蘇芳は上目がちに須藤を睨みつけた。 「ああ、ごめん。癇に障ったかな?」  須藤は芝居じみた仕草で肩を竦めた。 「……失礼ですが、紺野さんと親しいんですか?」  蘇芳の挑むような視線を受け止めながら、須藤は余裕のある様子で口の端を吊り上げた。 「俺、この大学の出身で、紺野さんの二つ下の学年だったんだ。紺野さんには世話になったけど、あの人、ちょっと変わった趣味で……、うーん、何と言うか、まあ、ぶっちゃけ言うと、ゲイなんだよ。俺にアプローチしてきたんだけど、俺、そっちの趣味はないから断ったんだよな~。そうしたら、途端に態度豹変だよ。当時から、紺野さんは高坂教授の懐刀って言われてたくらい、高坂教授の覚えがめでたかったから、俺の将来を握りつぶすくらい、簡単だったんだろうな。結局俺は、ここの大学院落とされて、仕方なく、よその大学院に進学したってわけ」  爽やかな口調で、淀みなく話されると、本当の話のように聞こえなくはない。しかし、いくら教授に気に入られていたとしても、修士課程の院生に、大学院受験者の合否を決める権限があるとは思えなかった。蘇芳は、この男を胡散臭く感じた。 「じゃあ、どうしてまた紺野さんに会いに来たんですか?」 「俺が会いにきたんじゃないよ。紺野さんに誘われたんだ。また一緒に研究したい、って。正直、迷ってるんだよな。だって、ここだけの話、俺に未練たらたらで、冗談っぽくキスしてきたり、体をベタベタ触ってきたりするんだよ。うまく躱せる自信ないんだよなぁ。でもさ、どうしても頼む、おまえがいないと、ダメなんだ、とか言って泣きつかれたんじゃ、無下に断るのもねぇ」  須藤は勝ち誇ったような笑みを浮かべながら、話を続けた。 「ま、仕方ないよな。紺野さんを助けられるのは、俺しかいないからな。紺野さんって、自信家で高慢だし、なかなか味方を作れない人なんだ。俺なら、あの人の良いところも悪いところもよく分かってるから、助けてあげられる」  紺野のことは知り尽くしている、と言わんばかりの口調が、蘇芳の癇に障った。  この男は、どう見ても胡散臭い。だが、蘇芳の知らない紺野の姿を、須藤が知っているのは事実だ。  ――僕は、紺野さんの何を知っているんだろうか?  改めて考えてみると、何も思い浮かばなかった。  ――僕は、紺野さんのこと、何も知らないんだ……。  蘇芳は、急に惨めになってきた。  これ以上、須藤と話していたら、あまりの惨めさに、自分が押し潰されてしまいそうだった。 「……失礼します」  蘇芳は蘇芳に小さく頭を下げると、踵を返した。 「待ちなよ」  背中から掛けられた声を無視して、蘇芳は歩き続けた。 「おい、待てよ。はっきり言っとくけど、君じゃ、紺野さんの助けにはなれないよ」  蘇芳は思わず足を止めた。  だが、振り向く勇気はなかった。蘇芳は立ち去ることも、振り向くこともできず、須藤に背を向けたまま立ち竦んでいた。 「ねえ、蘇芳君。君は紺野さんを失脚させたいのか? 君みたいなのが纏わりついてたら、紺野さんはいずれ、立場を失うよ。君はそれでもいいのかい?」  須藤は猫撫で声で話しながら、近づいてきた。  須藤の手が、蘇芳の肩に触れた瞬間、蘇芳は弾かれたように駆け出した。須藤から、一刻も早く逃げたかった。  須藤は、追いかけては来なかった。 

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