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須藤が立ち去った後も、蘇芳は研究室に戻っては来なかった。
――機嫌を損ねてしまったか……。
紺野は蘇芳に電話を掛けた。だが、蘇芳は出なかった。何度掛けても、呼び出し音が虚しく鳴り続けるばかりだ。
紺野はため息まじりに、携帯電話をポケットにしまった。
――まあ、いいか。そのうち、来るだろう。
蘇芳は、血液欲しさに紺野にすり寄っている。血液が欲しくなれば、また現れるに違いない。
だが、蘇芳からの折り返しの電話はなかった。
出会った頃からずっと続けている、毎週木曜日に紺野が送っている事務メールに対してだけは、返信があった。だが、実際に蘇芳が姿を見せることがないまま、2週間が経過した。
血液が不要となったとしたら、喜ばしいことではあった。
だが、そうとも限らない。
どうしても血が欲しければ、入手する手段は他にもある。動物からでも、自分の身体からでも。
今でも蘇芳の左手首に残る傷痕を思い出し、紺野は胸をざわつかせた。
*
すでに夏季休暇は終わり、秋学期の授業が始まっていた。あの生真面目な蘇芳が、登校していないとは考えにくい。
紺野は、焦りと不安を覚えた。
――あの時の私の態度が、気に障ったのか?
熱湯を被れと命じたのは、紺野自身、さすがにやり過ぎたと感じていた。だが、蘇芳は紺野の横柄な態度を好んでいる節がある。あの時の蘇芳は、困惑した様子は見せたが、怒りを覚えているようには見えなかった。
――もしかして、須藤の存在が気に入らなかったのか?
そんな考えが一瞬、紺野の脳裏を掠ったが、紺野は一笑に付した。
蘇芳にとって紺野は、血液を提供できるという点にしか価値を見出せない存在のはずだ。須藤の存在など、蘇芳にとっては何の関心もないことに違いない。
その須藤が、まるで蘇芳と入れ替わるかのように、頻繁に紺野の研究室を訪れるようになっていた。
須藤はよほど焦っているのか、しつこく言い寄ってきた。何度追い返しても、何事もなかったかのように現れては、助けて欲しいと厚かましく頼んでくる。
――全く……。鬱陶しいにも程がある。
どうやって研究棟に入り込んできているのかと思えば、院生が出入りするタイミングで、強引に入り込んでいるらしい。
来年度から編入予定などと適当なことを言って、院生たちの輪に入って雑談に興じている様子には、驚くのを通り越して、呆れるしかなかった。
あれほどの対人関係スキルがあれば、研究者に拘らず、他に才能を生かす道がありそうなものだが、本人は研究を続けたいとばかり訴えてくるのに、紺野は辟易としていた。
須藤になど、もう拘わる気は一切ないが、百歩譲って多少の助言をしてやろうにも、製薬会社との共同プロジェクトを立ち上げたばかりで、そんな余力はなかった。
――そろそろ、卒論生の指導の時間か。
蘇芳や須藤のことに意識を奪われ、自身の研究がほどんど進んでいないことに気づき、紺野は小さく溜息を洩らした。
立ち上がったその時、ドアを叩く音がした。
嫌な予感がした。その予感は的中し、須藤が部屋に入り込んできた。
「これから実験室に行く。用があるなら後にしてくれ」
だが須藤はドアを閉めるやいなや、突然床に座り込んだ。
「……紺野さん。もう、どうにもならなくて。進学先も全部蹴られて、就職も面接で落ちまくってて……俺、ほんとに詰んでるんですよ。助けてください」
以前は快活な、厚かましい態度で迫ってきていたが、泣きの一手のほうが効くと思ったのか、最近は泣き言ばかりを並べ立ててくるようになった。
「……後にしろ」
「お願いします!」
須藤は顔面を床に押し付けた。
「おまえの土下座になど、何の価値もない。見苦しいだけだ。さっさと出て行け」
つい言葉まで荒くなってしまう。それでも須藤は顔を上げようとせず、肩を振るわせながら、「お願いします」と何度も繰り返した。
「……自分がどれだけ都合がいいことを言っているのか、解っているのか?」
紺野が吐き捨てるように言った。刹那、本音が吐いてしまったことに気づいて、紺野は口の端を歪めた。
須藤は肩をピクリと震わせた。
「解ってます、解ってますよ。俺が紺野さんに、どれだけひどいことしたか、どれだけ都合のいいことばっかしてきたか……。でも、もう他にどうしようもなくて……」
須藤は顔面を床に擦りつけながら、嗚咽を漏らした。
紺野は溜息を洩らした。
須藤はかつてもこんな風に、相手の都合も何も考えず、ひたすら懇願を繰り返した。根負けする形で紺野が卒業論文の面倒を見てやれば、無邪気な笑みを満面に浮かべて、感謝の意を伝えてきた。
――そして、私を踏み躙って立ち去った……。
紺野は唇を噛み締めながら、床に這いつくばる背中を見下ろした。
その背中を踏みつけて、部屋を出ていってやりたいという思いと、僅かに残る憐憫との間で、紺野の心が揺れた。
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