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学生会館の一階、ガラス張りのハンバーガーショップは、昼時になるといつも賑わっていた。陽射しの差し込む明るい店内には、学生たちの笑い声が響き、注文を待つ列がカウンター前に伸びている。
蘇芳は、ミルクシェイクを載せた白いトレイに手に、窓際の4人掛けテーブルに向かった。
山田に誘われ、美鶴と3人で昼食を取る約束をしていた。
座って待っていると、5分もしないうちに、美鶴と山田が、一緒に現れた。
山田は美鶴の隣に腰を下ろし、蘇芳には理解できない、化学に関する話を始めた。
――山田って、いつも僕を誘ってくれるけど、美鶴さんのことが好きなんだろうな。なんで、僕を一緒に誘うんだろう?
誘ってくれること自体が嫌なわけではないが、山田は美鶴と3人でいる時、蘇芳が会話に参加できないような話題ばかりをする傾向があることには、前々から気になっていた。
美鶴が、蘇芳の顔を覗き込んだ。
「なんか、元気なさそうね」
「……え、そんなことないですよ」
無理やり笑顔を作ってみたが、自分でも顔が引き攣っていることが分かった。
血に飢えているせいか、ずっと頭が痛かった。
だが、血を貰おうにも、紺野に会いに、紺野の研究室がある理学研究棟に近づこうとすると、なぜか須藤が現れる。
須藤はやたら馴れ馴れしく声を掛けてきては、自分と紺野との絆がいかに深いかを、自慢げに語る。須藤は紺野から、一緒に研究して欲しいと懇願されているのだという。
それだけではなく、紺野が蘇芳のことを迷惑に思っている様子だと、深刻そうな顔つきで語ったり、さらに、紺野と蘇芳の付き合いについて、根掘り葉掘り聞いてきて、蘇芳の答えに対して、いちいち批評してくる。
「まあ、君じゃ、とてもじゃないけど、紺野さんの役には立てないよ」などと、毎日のように言われ、数日前など、「紺野さんは、君に愛情なんか持ってないよ」とまで言い放たれた。
その言葉には、さすがに蘇芳は苦笑で返すしかなかった。紺野が蘇芳に対して抱いているのは愛情ではなく、物珍しい生き物への興味に過ぎない事実は、指摘されるまでもなく分かっていた。
そんな須藤の言動を知ってか知らずか、紺野は毎週木曜日の事務メールだけは寄越す。
だが、その事務連絡で指定された日時に研究室を訪ねても、必ず須藤が現れ、妨害してくるのだ。
――まさか、紺野さんの指示で動いているとか……?
紺野が蘇芳を遠ざけようとするにしても、そんな回りくどい方法を取るとは思えないが、それでもあまりに度重なると、疑ってしまう。
三週間近くこんな毎日が続けば、蘇芳でなくても元気を失っていくだろう。
「とりあえず、食べよっか。食べたら、元気出るかもよ。あたしのナゲットあげる。はい、あーん」
口元に差し出された、ケチャップソースがたっぷりついたナゲットを前に、蘇芳は我に返った。美鶴はにっこりと笑いながら、蘇芳が食べるのを待ち構えている。
それを横目で見る山田の表情が、心なしか険しい。
「……いただきます」
蘇芳は、差し出されたナゲットを受け取った。
直接自分の手から食べてくれることを期待していた美鶴は、少し頬を膨らませた。それに対して山田は、安堵の表情を浮かべた。
「そんな甘ったるいもの、よく飲めるよね。それ一杯で、一日分の糖分摂取しちゃうんだよ」
蘇芳が注文した、ミルクシェイクを見ながら、美鶴が茶目っ気のある口調で言った。
「甘いの、好きなの?」
「……そういうわけじゃないんですが、ミルクシェイクは昔から、何となく好きなんです」
どういうわけか、初めて飲んだ時から妙に懐かしいような甘酸っぱい感傷を覚えて、癖になってしまった。
「ミルクシェイクを飲む速度って、赤ちゃんが母乳を吸う速度に似てるんだって。もしかして蘇芳君って、マザコン?」
蘇芳には、母親に関する記憶が全くなかった。
母は蘇芳が幼少期に、乳癌で亡くなったと聞いている。記憶に全くない相手に対してコンプレックスを抱くなど、蘇芳にはあり得ないことのように思えた。
「いや、こいつ、どう見てもファザコンですよ。紺野先生に入れ込んで、心酔してるなんて。ほら、昔、こいつ、紺野先生にお姫様だっこされたことあったじゃないですか。あれで惚れたんでしょ?」
「適当なこと、言わないでくれ。ファザコンって、父親への愛着とか依存心が強すぎることだから。紺野さんとは、全く関係ないよ」
蘇芳は呆れながら、山田の言葉を否定した。
「うーん、確かに、ファザコンとは違うかもねぇ」
美鶴が独り言のように呟いた。
「でも、蘇芳君、悩んでるよね? 美鶴ねえさんに話してごらんよ。話せば、気が楽になるかもよ。やっぱり、紺野先生のこと?」
美鶴が身を乗り出して、訊ねてきた。
紺野のことを嫌っているであろう美鶴に、紺野との経緯を相談するのは気が進まなかった。だが、記憶にない母親について根掘り葉掘り聞かれるよりは、ましだった。
「……実は、最近、須藤さんって人が、やけに僕に絡んでくるんです」
蘇芳は三週間近く、毎日のように須藤に絡まれている事情を語った。
「へえ、須藤さんねぇ。懐かしい名前聞いたわ。ずいぶん評判悪い人みたいね。あたしが大学に入った時には、もう卒業してたから、直接は知らないんだけどね。紺野先生に気に入られてるからって、すごく偉そうな態度だったらしいよ。虎の威を借る狐、ってやつ? ま、そういう意味じゃ、紺野先生と須藤さん、同類よねぇ。嫌われ者同士、意外とお似合いだったりして」
蘇芳は思わず眉根を寄せた。
百歩譲って、二人とも周囲から嫌われていたとしても、同類ではありえなかった。
紺野は、他人の権勢を笠に着るような行為を非常に嫌うことは、二年以上に亘り傍にいた蘇芳には、よく分かっていた。
蘇芳の不満げな表情に気づいたのか、美鶴は慌てて口を噤んだ。ごまかすように、フライドポテトを口に運んでいる。
蘇芳もミルクシェイクのストローに口をつけたが、すっかり溶けてしまったミルクシェイクは、甘すぎる液体と化していた。
「須藤さんって、今何してるの? 山田君、何か知ってる?」
美鶴が、視線を山田に向けた。
「ああ、今、理学部内でちょっと話題ですよ。西央文化大学って知ってます? 聞いたことないですよね? 偏差値が底辺の大学ですよ。そこの大学院に進学して、修士課程はなんとか修了。ただいま就職浪人中」
山田は小馬鹿にしたように、妙な節をつけながら、歌うように言った。
西央文化大学は、蘇芳が滑り止めに受験した大学だった。おそらく山田は、それを知った上で「底辺」とまで言っている。山田の選民意識が垣間見えた。
「それじゃあ、うちの理学研究棟に出入りできないじゃないの?」
美鶴の問いかけに、山田は大きく首を横に振ると、得意げに説明を始めた。
「いやいや、それが、違うんです。紺野先生が主催してる共同研究に、研究協力者として名前が入ってるらしいですよ。正式にRA扱いになってて、入構許可も取れてるって話ですよ」
「RAって、……リサーチアシスタントのこと? うちの大学の学生じゃなくてもなれるの?」
「俺もよく知らなかったんですけど、研究協力者って、割とグレーで、紺野先生みたいに裁量権のある人なら、外部からでも呼べちゃうみたいですよ。週に数日だけ出入りする限定枠なら、学生証なくても、いけるみたいで」
蘇芳の胸の奥が、急に冷たくなった。
研究協力者。RA。入構許可。
――そんな立場があれば、紺野さんの研究室に出入りできるのは当然だ。堂々と、誰にとがめられることもなく、紺野さんの隣にいられる……。
蘇芳は、膝に置いた自分の拳を、硬く握りしめた。
「いかにも紺野先生がやりそうなことよね。えこ贔屓が過ぎるのよ……。でも、ちょっと引っかかるわね。あの紺野先生が、自分に恥をかかせた相手を、簡単に許すかしら?」
美鶴が首をひねりながら、呟いた。
「でも実際、正式にRA扱いになってますよ? 紺野先生が承認しなかったらありえませんよ」
「じゃあ、よりを戻したってこと? 公私混同も甚だしいったら、どんな神経してるんだか」
美鶴が苦々しげに言い放った。
「おい、蘇芳、大丈夫か?」
「……え?」
急に山田から声を掛けられ、蘇芳は慌てて顔を上げた。
「なんか、真っ青だぞ。なあ、真剣に聞くけど、おまえ、紺野先生に惚れてるのか?」
言葉のとおり、山田は真剣な目で蘇芳を見つめていた。圧迫感に、蘇芳は思わず視線を逸らせた。
「いや、そんな……」
否定しようとしたものの、うまく言葉にできなかった。これでは、紺野のことが好きだと言っているようなものだ。
「恋愛感情は……ない、と思う……」
俯きながら、呻くような声で呟いた。
だが、その言葉にさえ自信が持てなかった。恋愛感情が全くないなら、須藤の存在に、これほど心が揺さぶられないような気もした。
――須藤さんに絡まれようと、普通に部屋のドアをノックして、普通にドアを開ければいいだけ……。なのに、どうして僕は、須藤さんに何か言われるたびに、逃げ出してしまうんだ?
理由は、明白だった。
紺野と須藤が恋仲になっているのを、直視するのが怖いのだ。
今まで、こんな不安を全く感じていなかったことが、むしろ不思議なくらいだ。
紺野は、雑踏の中でも一際目立つ、整った容姿の持ち主だ。しかも、自分に映える髪型、服装などについて熟知しているようだ。
当然、もてないはずがなかった。これまでも、女子学生や大学職員、一緒に出掛けた先の店員などから、熱い視線を送られている様子を何度も目にした。
もっとも、表情に乏しく、何を考えているのか掴み難かったり、几帳面で堅苦しく、時折凄まじい攻撃性を発揮するせいか、敬遠されている節もある。
そのため、実際にアプローチする人は、蘇芳が知る限り、一人もいなかっただけだ。
「ふーん、そうなんだ?」
山田が、つまらなそうな顔で、椅子の背もたれに寄りかかった。
「恋愛感情ないくせに、紺野先生が須藤さんと付き合ってたら、気に食わないって? ワガママすぎだろ」
幼稚な独占欲のように言われて、癇に障ったが、咄嗟に反論が思いつかなかった。
「……別に、そんなつもりじゃ……」
「だったら、何を気にしてんだよ?」
被せるように、山田が訊ねてきた。
「……紺野さん、何も言ってきてくれなくて……」
「ああ、既読スルー? 今、例の共同研究で忙しいんじゃね?」
蘇芳は小さく首を横に振った。
「……そうじゃなくて……、事務連絡みたいなメール以外、何もくれなくて……。何か言ってきてくれてもよさそうなのに……」
蘇芳の呟きに、美鶴と山田が驚いたように顔を見合わせた。
「は? 言いたいことがあるなら、おまえのほうから連絡したらいいんじゃねえの? 事務連絡とやらは、もらえてるんだろ?」
紺野に指定された日時に研究室を訪ねても、須藤に妨害されてしまう。もし紺野から、なぜ来なかったのか、訊ねてくれれば、須藤の妨害に遭っていることを相談できる。だが、聞かれもしないのに、自分のほうから相談などできなかった。
――だって、はっきりと突き放されるのが怖いから……。
紺野に捨てられる瞬間を思い描いただけで、頭がどうにかなってしまいそうな気がした。
山田が茶化すような声を上げた。
「へー、美鶴さん、どう思います? あの紺野先生が、追いかけてきてくれると信じて疑わないなんて、よっぽど可愛がられてるんですねぇ」
そんな風に、面白おかしく言われたくはなかった。だが、山田を窘めてくれそうな美鶴も、どこか冷たい笑みを唇に薄く浮かべるだけだった。
「……そんなわけじゃ……」
蘇芳は否定しようとしたが、客観的に見れば、蘇芳の言動は、紺野が追いかけてくるのを待っているだけに見えることに気づいた。
山田の言うとおり、このまま紺野が追いかけてきてくれるのを待っていても、状況は悪化するだけだろう。
「……直視する覚悟が、できてなくて……」
蘇芳の呟きに被せるように、美鶴のきっぱりした声がした。
「いい機会なんじゃないの?」
蘇芳は顔を上げて、まじまじと美鶴の顔を見た。
「あたしは気づいてたよ。蘇芳君が、紺野先生に惹かれてるって」
蘇芳が口を開きかけるより前に、美鶴が話を続けた。
「でも、マジでやめたほうがいいよ、あの人。君が下手に出てるから、可愛がってるだけ。ああいう人って、結局、自分のことが可愛いだけなのよね。ちょっとでも逆らったら、多分逆切れするわよ」
――そんなこと……。
だが、出かけた反駁の言葉を呑み込んだ。
どこか違うような気がしたが、うまく言葉にする自信がなかった。
紺野は確かに、傲慢な一面を持っているかもしれない。
だが不遜な態度とは対照的に、本質的な部分については、とても慎重なような気がした。
蘇芳の特殊な性癖を知れば、不気味がって逃げていく人がほとんどで、説教を始めたり、治療すれば治る、などと言って慈善事業感覚で近づいて来る人が僅かにいるくらいだ。
紺野のように、特に意見することもなく、あっさりと受け入れていれた人は初めてだった。人の性癖についてとやかく意見することは、相手をひどく傷つける恐れがある事実を知っているからこその優しさだと、蘇芳は受け取った。
「まあ、例の共同研究、ガチで忙しいみたいだから、よりを戻したとは限らないとは思うけどね」
場の空気を和ませようとしているのか、山田があっけらかんとした口調で口を挟んだ。
「文系のおまえには想像つかないかもだけど、こっちは冗談抜きで忙しいんだよ。そんなことも分からないで、紺野先生に纏わりついてたら、そのうちマジで嫌われるぞ」
山田はいわゆる上から目線で、言葉を継いだ。
「紺野先生の共同研究に参加してる先輩から聞いたんだけど、須藤さん、紺野先生に冷たくあしらわれてるのに、全くめげずに纏わりついてるらしい。須藤さんの神経の図太さは脱帽ものだけど、それなりの結果出してるから、紺野先生もギリギリ容認してるんだろう、って話だったよ」
蘇芳を慰めているのか、単にマウントを取ろうとしているのか、どちらともつかない。
だが、確かに山田の言うことにも一理あった。蘇芳は、紺野がどれだけ忙しくしているのか、分からないし、知ろうとさえしてこなかった。
――紺野さんと須藤さんが付き合い始めてはいなかったとしても、紺野さんが僕のこと、迷惑に感じ始めた、って可能性はあるよな……。僕が研究室まで訪ねてこないのをいいことに、フェードアウトするつもりかも……。
紺野は、他者に対して厳しい分、自分自身に対しても、それ以上に厳しい。
かつて、紺野の方から、蘇芳に研究用の血液を提供すると言い出した。いくら蘇芳のことが面倒になったとしても、自らの責任を放擲するのが嫌で、自分からは切り出せないのかもしれない。
――だとしたら、僕はどうしたらいいんだ?
蘇芳は小さく溜息を洩らした。
――もし紺野さんが、僕の面倒を見続けることを負担に感じ始めたというだけなら、まだ耐えられるような気がする。忙しいタイミングなら、僕にだって、それを避けることくらいはできる。血液バッグだって、紺野さんが負担なら、量を減らすとか、間隔を開けるとか……。でも、もし紺野さんが須藤さんと付き合い始めていたとしたら……。
一番考えたくない想像を打ち消そうとするかのように、蘇芳は慌てて首を横に振った。
――どんなに考えたって、堂々巡りだ。
蘇芳は、のっそりと立ち上がった。
「ちょっと、どうしちゃったの?」
美鶴が慌てて声を掛けてきた。
「ごめん、言い過ぎた?」
「いえ、ありがとうございます。やっと決心がつきました」
「決心って……、紺野先生のところに行く気?」
蘇芳が頷くと、美鶴は「バカみたい」とふて腐れたように呟いてから、デザートのアップルパイを齧った。
山田は小馬鹿にしたような冷笑を浮かべて、蘇芳を見上げた。
「まあ、せいぜい頑張れよ」
美鶴と山田への挨拶もそこそこに、蘇芳は理学研究棟に向かって歩き出した。
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