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 実験室の隅で、装置の冷却音だけが静かに響いていた。  紺野はノートPCの画面から目を離すと、軽く目頭を押さえた。  須藤をプロジェクトの一員に加えてから、須藤は常に紺野に纏わりついていた。 「紺野先生、この後、打ち合わせって、あります?」  背後から声がしたときには、すでに須藤はすぐ横に立っていた。言葉の間合いも、入り方も、妙に慣れていた。あたかも紺野の《側近》であるかのように、他の学生にも誤解されるような立ち回りだった。 「いや、今日はない。君も、そろそろ手元のデータ整理を終わらせてくれ」  紺野はそっけなく答えたが、須藤は引き下がらず、むしろ親しげに笑ってみせた。 「そういえば、さっき、蘇芳君が紺野先生の研究室の辺りを、うろついてましたよ。あの子、文学部の学生ですよね? 何しに来たんですかねぇ」  紺野は思わず、顔を上げた。蘇芳は、三週間近く、全く姿を見せていなかった。  須藤は紺野の反応に気づいているのか、いないのか、世間話をするような口調で続けた。 「あの子、何なんですか? おとなしそうに見えて、なんか空気読めないみたいですよね。紺野先生の邪魔になってないといいんですけどねぇ」  ――やっぱり、入れるべきじゃなかった。  切羽詰まった須藤の様子に絆され、名義上のRAとしてプロジェクトに加えてしまったことを、今更ながら後悔した。 「おまえの無駄話に付き合うほど、暇じゃない」  冷たく言い放つと、須藤はわざとらしく肩を竦めてみせた。 「今日はもう帰っていい。明日までにデータ整理を終わらせておけ」  それだけ言うと、紺野は端末の画面に視線を戻した。 「はーい、分かりました。それじゃ、お疲れ様です。明日もお願いします」  須藤は一礼すると、ようやく立ち去った。  ――疲れた……。  ようやく須藤の気配が消えたことに安堵を覚えたものの、皮膚の裏側にまで染み込んだような不快感は、まだ抜け切れてはいなかった。  だが、休んでいる暇はなかった。  ――蘇芳君が、来ていた……?  紺野は手早くデータ確認を終わらせると、足早に自分の研究室に向かった。           *  研究室の前に蘇芳の姿がなかったことに、紺野は安堵すると同時に、軽い失望感を覚えた。案外、蘇芳がいることを期待していたのかもしれない。  部屋に入ると、椅子の背にもたれ掛った。  妙に疲れを感じているのは、須藤に纏わりつかれているせいもあるが、それよりも、蘇芳のことが心に重たくのしかかっているせいだった。  机の上に置かれた小瓶に、紺野は何気なく手を伸ばした。  蘇芳に渡された香水だった。  蘇芳の心遣いを無にするのも心苦しい気がして、気が向いた時には、空中に向けて軽くプッシュしていた。  もっとも、匂いに敏感だと自称している同僚に訊ねてみても、「香水の香りなんて全くしませんよ」と言われたくらいだから、つけたうちにも入らないだろう。  ――ただの自己満足か。  紺野は苦笑を浮かべると、小瓶を机の上に戻した。  その時、ノックの音が響いた。  ――また、須藤か?  紺野は苛立ちを露わにした声で返事をした。  すると、ドアが遠慮がちに、ゆっくりと開かれた。  ドアの向こうに立っていたのは、蘇芳だった。  紺野は一瞬、頬に笑みが浮かべそうになったが、慌てて抑えた。浮き浮きしている気持ちを悟られるのは、どうも決まりが悪かった。  部屋に入ってくるのかと思えば、蘇芳はドアノブに手を掛けたまま、廊下に突っ立っていた。  俯いているため表情はよく見えないが、ドアノブを握る手が、細かく震えていた。前髪の陰から僅かに見える額にからは、汗が滲み出ていた。  血に飢えた時のシグナルだった。  紺野は、思わず眉根を寄せたが、平静を装って蘇芳を招き入れた。  血液バッグを蘇芳に差し出すと、蘇芳は奪うように血液バッグを手に取り、部屋の隅で紺野に背を向け、血液を飲み始めた。  よほど飢えていたのか、蘇芳は勢いよく飲み干した。  しばらくして、少し落ち着いた様子を見せた蘇芳の背中に向かって、紺野は声を掛けた。 「落ち着いたら、こっちにおいで」  蘇芳はびくりと肩を震わせてから、ゆっくりと振り向いた。  紺野はソファを指さした。 「はい……」  おずおずとソファに腰を下ろした蘇芳は、俯いたまま黙り込んでいる。どこか怯えるような様子に、小動物を見ているようで愛おしさが込み上げてきた。  ――やっと戻ってきてくれた……。  紺野は、蘇芳の隣に腰を下ろした。  隣に座られると思わなかったのか、蘇芳は困惑したような様子で、身を固くしていた。よほど力が入っているのか、膝の上に置かれた指先が、白くなっていた。  紺野はその手に、自分の手をそっと重ねた。握ろうとしたその時、弾かれたように、蘇芳が紺野の手を振り払った。 「……蘇芳君?」  思いがけない反応に、紺野は驚いて、蘇芳の顔を覗き込んだ。  蘇芳は紺野の視線から逃れるように顔を背け、唇を噛み締めていたが、やがて小さく呟いた。 「……須藤さんから、色々聞きました」  須藤から、あることないこと、吹き込まれているだろうことは、想像はしていた。だが、直截に問い質してくるとは思っていなかったから、少し意外ではあった。 「色々、とは?」  蘇芳はゆっくりと顔を上げると、紺野を非難するような目で睨みつけた。 「須藤さん、学生時代に紺野さんと付き合っていたそうですね。いえ、付き合ってたというより、卒論を手伝ってもらう代わりに、その……、関係を強いられて……、今も、復縁を迫られてるとも……」  紺野は一瞬、目を見開いた。 「須藤から聞いたのか?」  「須藤さんだけじゃありません。みんな、知ってますよ」  紺野の問いに被せるように、蘇芳が短く叫んだ。  紺野は腕を組んだ。  過去の話については、面白おかしく尾鰭がついた噂話が広まっていたことを、紺野自身も知っていた。  だが今もなお須藤との間に、妙な噂が流れているとまでは、思っていなかった。  須藤が自分の立場を強化するために触れ回っている可能性が高いが、単なる憶測で噂が広がっている可能性もあり得た。  ――どちらにしても、須藤を今回のプロジェクトに参加させたのは、浅慮だったか……。  今更ながら、須藤の必死の懇願に、折れてしまったことが悔やまれた。 「……やっぱり、本当だったんですか?」  切羽詰まったような蘇芳の掠れ声が、耳朶に届いた。 「紺野さんって、……そういう趣味だったんですか? 僕に手を差し伸べたのも、その……、なんと言うか……、下心があって……」  蘇芳は言いにくそうに、呻くような声で問い質してきた。  紺野が同性愛者だと聞かされて、蘇芳がショックを受けるのは、無理もないことなのかもしれない。蘇芳は毎週のように、紺野とふたりきりの時間を持っていた。  ――下心と言ってしまえば、そうなのかもしれないな。  紺野は確かに、蘇芳に性的な感情を抱いていないわけではなかった。幾度かその柔らかそうな唇に、自分の唇を押し当てたいと夢想したことはあった。  だが、蘇芳の気持ちを無視して襲い掛かるほど、分別のない人間ではないつもりだった。 「……僕も、もしかして、須藤さんと同じだったのかな、って……」  蘇芳は、独り言のように呟いた。  その意味が読み取れず、紺野は蘇芳を凝視した。 「『血液バッグをあげる』って、最初に言われたとき……まさか、そういう意味だったなんて、思いもしなかったけど……」  紺野は眉根を寄せた。表情が強張ってくるのが、自分でも分かった。 「血液バッグをくれる代わりに……、血液バッグを餌に、僕の身体を……」  ――たかだか身体目当てで、血液製剤の横流しなど、誰がするか。  血が逆流するような怒りに、拳が震えた。  このことが明るみに出たら、研究者として致命傷を受けるのは必至だった。  ――それでも、君が求めるなら……。  確かに最初は、軽い好奇心だった。  あの頃の紺野は、まだ院生で、薬剤管理の責任を負う立場ではなかった。すでに臨床では使えない、研究用の試料だったことと、廃棄予定の試料なら、記録上《廃棄済み》として扱っても、誰にも見つかりはしない――そんな軽い気持ちで、冷蔵庫の奥から期限切れのバッグを一つ持ち出した。  だが博士号取得後の研究――分子構造を人工的に組み替え、酸素運搬機能を代替させるというプロジェクトは、院生時代とは比較にならないほど大規模で、生化学と医学の境界を跨ぎ、大学病院と共同で進められていた。  研究用試料の取扱いも、厳密な記録と管理が求められ、使用時は紺野自身がログを記録している。  もっとも、血液製剤の管理のことは蘇芳に一切話していない。罪を負うのは自分だけで充分で、蘇芳に罪悪感を抱かせたくはなかった。  ――そう思ってきたが……。  紺野は、傍らに腰を下ろす蘇芳に目を遣った。蘇芳はまるで化け物を見るような目で、紺野を見ていた。 「……だとしたら? 君は私に襲われるのを、心配しているのか?」  蘇芳が顔を強張らせ、視線を逸らせた。どうやら図星らしい。  そんな蘇芳を前に、紺野の胸の奥から、沸々とどす黒いものが湧き上がってきた。 「君も、か」  紺野は、吐き捨てるように呟いた。  これまでにも数回、紺野の性的嗜好を知った途端、態度を豹変させた人間がいた。須藤も、そのうちの一人だった。  理解して欲しいとか、寄り添って欲しいとか、そんな都合のいいことを蘇芳に求める気など、全くなかった。蘇芳が望まない関係を無理に強いる気など、あろうはずがなかった。  ――それなのに……。  蘇芳は、まるで自分は被害者だと言わんばかりの目で、紺野を凝視していた。  ――今まで、どれだけ面倒を見てきてやったと思ってるんだ?  抑えてきた激情が、迸った。頭がくらくらして、思考回路が正常に機能しない。 「そんな相手だと思っていながら、よくのこのこと来たものだな」  所詮は、血液製剤欲しさに、すり寄ってくるだけの相手だった。どれだけ紺野が蘇芳に尽くしたとしても、他にすり寄る相手ができれば、あっさりと離れていくだろう。  そこまでは、いつも心に留めていた。  だがまさか、蘇芳に自分の性癖を糾弾されるとは、夢にも思わなかった。  本能的に危険を察知したのか、蘇芳は弾かれたようにソファから立ち上がろうとした。だが紺野は、素早くその腕を掴んだ。 「離してください!」  蘇芳はまるで汚らわしいものを振り払うように、紺野の腕を振り解こうとした。  そんな蘇芳を前に、紺野の中で何かが壊れた。考えるよりも前に、身体が勝手に動いていた。  気がつけば、紺野は蘇芳をソファの上に組み敷いていた。

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