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終章
蘇芳は歩いていた。
まるで泥水の中に沈んでいるかのように、空気は冷たく、重たかった。
地面から染み込んでくる冷気に足が震え、身を引き裂くような冷たい空気に晒され手が悴む中、蘇芳は歩き続けていた。
目の前には、冬枯れの並木道が続いていた。さっきまで不気味なほど赤い夕空が広がっていたような気がするが、いつの間にか、闇に沈んでいた。
妙に静かだった。膜が張られているような、不思議な静寂だった。
どこに向かって歩いているのか、蘇芳自身、分からなかった。それでも足を止めることができないのは、歩き続けていなければ、実体を保てなくなって、暗闇の中に溶け込んでしまいそうな気がするからだ。
時折、優しい風が吹き、悴んだ手や、冷たくなった頬を柔らかく撫で上げてくれる。その瞬間だけは、とても幸せだった。
闇に溶けてしまえば、この幸せも、感じられなくなってしまうのだろうか。
それが怖くて、蘇芳はひたすら歩き続けていた。
自分が何者なのか、何をしたいのか――そんなことは、どうでもよかった。何も考えずに、ひたすら歩き続けていたかった。
――そうすれば、ただ存在するだけの人形でいられる?
ただの人形なら、きっと、あの人の足手まといにならない。困らせもしない。見捨てられもしない。
そして。
――きっと愛してもらえる……。
並木道はいつしか消えて、辺りは身体を溶かすような深い暗闇だけになっていた。これでは、たとえ歩き続けていても、そのうち暗闇に呑まれてしまいそうな気がしてきた。
暗闇に呑まれて、そのまま闇に溶け込んで消えてしまったら、あの人は、蘇芳の願いを、聞き届けてくれるだろうか。
――僕を置いておいて。せめて、記憶の片隅にでも……。
ふと、どこか遠くから、知らない女性の声がぼんやりと聞こえた。
――お人形さんみたい。
途端に、頬を優しくさすってくれていた手が、ぴたりと止まってしまった。
――人形……。
紺野の低く呟く声が、聞こえた。苦しげな、呻くような声だった。それと同時に、掌の温もりが、すっと離れていってしまった。
――どうして? 人形じゃ、いけないの? 紺野さんが望む、紺野さんの人形でいたいだけなのに……。
離れていった手を追いかけて、蘇芳は自分の手を伸ばした。だが、靄のような、膜のような、白く漂うものに遮られて、紺野の手に触れることができなかった。
蘇芳の指は、虚しく白い靄を掻いただけだった。
溜息まじりに手を引っこめようとした時、揺れた袖から、仄かな香りが漂ってきた。微かな甘い香りが、蘇芳の鼻を掠めた。
――沈丁花の香水?
蘇芳は、自分が纏っているコートに視線を落とした。
かつて紺野から買い与えられた、秋物のトレンチコートだった。真冬に着るには、生地が薄く、頼りなかった。それでも、最初で最後となった紺野からの贈り物を身に纏っていると、胸の奥が満たされた。
だがこのコートに、あの香水の移り香が残っていることは、あり得なかった。
蘇芳があの香水を贈った当初、紺野は時折香水の香りを纏っていた。だが、蘇芳がつまらないことを問い詰めて、紺野を激昂させてしまってからは、紺野があの香水を使うことはなくなった。
――なのに、どうして?
そう思った瞬間、まぶたの裏にまで染みこんでくるような、赤と青が交互に点滅する眩しすぎる光が、脳裏に甦った。
赤と青――そう記憶している。
本当は、救急車の赤い光だけだったのかもしれない。眩しさに灼かれて残像が青く変わったのか、それとも赤と白の光が混じってそう見えたのか、理由は分からない。ただ、赤と青の二色だけが、強烈に胸に残っている。
慌ただしく走る足音、大きな声、無線の音、金属音、色んな音が響き渡る中、蘇芳は紺野の腕に中にいた。
赤く染まった左手首は、痛いくらい強く掴まれている。ハンカチ越しに蘇芳の手首を掴むその手は、微かに震えていた。
紺野に抱きかかえられた蘇芳は、顔面を紺野の胸元に押し当てられていた。そのシャツから、仄かに零れる、沈丁花の香りが鼻を衝いた。
なぜあの時、紺野が香水をつけていたのかは分からないが、確かにあの時、紺野から、沈丁花の香りが漂っていた。
――それで、このコートに移り香が……。
蘇芳は震えながら、コートの襟に顔を埋めた。
仄かに香る香水の奥に、紺野自身の香りも残っているような気がした。
蘇芳はコートごと、自分の身体を抱き締めた。紺野の温もりが、ほんの僅かにでも、残っていることを願った。だが薄手のコートは、皮膚を切り裂くような冷たい風から蘇芳を守ってはくれなかった。
――寒い……。紺野さん、助けて……。
蘇芳は寒さに身を縮めながら、時折吹く、優しい風を待ち望んでいた。
――大丈夫、あの瞬間だけは、とても幸せだから……。
どれほど経ったか、ふっと、温かい、優しい風が舞い込んだ。待ち望んでいた風だった。でも、その風は、どこか切ない香りがした。
――蘇芳君。
懐かしい、恋い焦がれていた声が、脳裏に響き渡った。
――君には、君のままで、生きて欲しい。
柔らかい、優しい声だった。決して、蘇芳を突き放すような声ではなかった。
だが蘇芳は、その言葉の意味を考えるうちに、徐々に色を失っていった。
――僕のまま、って? 人形は、もう要らないってこと?
蘇芳の望みはただ一つ、紺野が望む、紺野が愛してくれる人形になることだった。
動かないままでいれば、傍にいられる。
言葉もなく、意志もなく、ただ呼吸だけをしているだけなら、足手まといにならない。
――紺野さんは、僕を見捨てない。僕を必要としてくれる。
蘇芳は、自分に言い聞かせるように、何度も反芻した。だが、脳裏に響き渡ったのは、間違いなく紺野の声だった。
――僕が、僕のままだったら、あなたは僕を愛してはくれないじゃないか。
蘇芳は心の中で叫んだ。
無価値で、邪魔で、きっと厄介な存在でしかない蘇芳を、紺野が愛するわけがなかった。何度蔑むような目で一瞥されたか、分からない。
あの冷たい眼差しを思い出すだけで、胸が痛くて、涙が溢れそうになった。
だが、頭の奥の、どこか冷静な部分が、違和感を伝えてくる。
――僕のままで愛してくれないからって、人形になったら本当に愛してもらえるのか?
あの人は優しい。責任感が強い。
だから、人形になった蘇芳を見捨てることができない、というだけ。
――だとしたら……。
蘇芳は紺野の優しさにつけこんで、紺野を自分の許に縫い止めているだけだった。
蘇芳は頭を抱えた。
たとえそうだとしても、蘇芳は紺野に捨てられたくはなかった。拒絶されるのが、怖かった。
そんな思いをするくらいなら、人形でいた方がましだった。
――それすら許されないなら、いっそ、闇に溶けてしまいたい……。
蘇芳は、無理やり動かし続けていた足を止めた。ずっと動かし続けていた足は、痺れて感覚を失っていた。
立ち止まり、改めて辺りを見回した。
周りは、闇に包まれていた。
闇が迫り、蘇芳は徐々に輪郭を失っていく。一瞬恐怖を覚えたが、痺れた足をまた動かすのは億劫だった。このまま闇に溶けてしまってもいいような気がしてきた。
――このまま消えてしまえば、紺野さんは、記憶の片隅に僕の存在を置いてくれるかな?
ふと浮かんだ考えに、蘇芳は我に返った。
――ああ、ダメだ。また、紺野さんの優しさに甘えてる……。僕は何を考えても、どう動いても、紺野さんに甘えることしか、できないのか?
悲しくて、情けなくて、泣きたくなった。
だが、涙をにじませた目元を拭うように、柔らかい風が吹いた。
――ここに、戻ってきてくれないか? 自分の足で。
そうか、戻ればいいんだ。戻らなきゃ。
紺野の声には、蘇芳を反射的に動かす力があった。だが、次の瞬間、踏み出しかけた足が止まった。
――どこに?
戻ってこいと言われても、どの方向に向かって足を踏み出せばいいのか、分からない。
「紺野さん……、どこにいるんですか?」
蘇芳は思わず紺野を呼んだ。必死で紺野の気配を探すが、あるはずもなかった。
紺野が手を引いてくれなければ、まともに歩くことすらできなかったことを、思い知らされた。
闇が迫り、徐々に温度が下がってくる。
辺りは闇に閉ざされていた。
――戻りたい、紺野さんの許に。戻ってこいと言ってくれるなら、何としてでも戻りたい。なのに……。
戻ろうにも、どちらに向かって歩けばいいのか、もはや見当もつかなかった。
立ち尽くしていても、やがて闇に呑まれてしまうだろう。だが、闇に向かって歩を進めたら、あっという間に闇に溶かされてしまいそうな気がする。
寒さと恐怖で、足が竦んだ。
その時、背後から、ふわりとした風が吹きつけた。その風に乗って、甘い香りが辺りに漂った。沈丁花の香りだった。香水の香りとはどこか違う、本物の花の香りだ。
蘇芳は、ゆっくりと振り返った。
遥か遠くに、理学研究棟がぼんやりと霞んで見えた。
――あそこに、戻ればいい……。
蘇芳は考えるよりも前に、足を踏み出していた。紺野の声に従うことしか、頭になかった。闇に閉ざされ、足許が全く見えていないにも拘わらず。
地面の窪みに足を取られ、蘇芳はバランスを崩して転倒した。
座り込んだ地面は、ぬかるんでいて冷たかった。痛みよりも、地面から這い上がってくる冷気に体温を奪われ、身動きが取れなかった。
――君じゃ、紺野さんの助けにはなれないよ。
――紺野さんは、君に愛情なんか持ってないよ。
蘇芳がこの世で最も憎んだ男の言葉が、次々と脳裏に甦った。
どこか胡散臭い、芝居じみた言動で優越感を露わにする須藤と、そんな言葉で劣等感と無力感に苛まれる自分が、大嫌いだった。
――だけど……。
蘇芳は立ち上がろうとした。だが、足に力が入らず、再び尻もちをついた。蘇芳は息を整え、もう一度立ち上がろうとしながら、考え続ける。
――今になって、やっと分かった。
須藤は少なくとも、紺野に対して真正面からぶつかっていた。おそらく拒絶され、傷つけられたこともあっただろう。
それでも須藤はぶつかり続けた。
――でも、僕は……。
拒絶されることを、見捨てられることを恐れて、自分が壊れることを望んだ。それを破滅願望と呼べば、まだ聞こえは悪くないかもしれない。
だが、そうすれば、見捨てられないかもしれない、という身勝手な考えが頭の片隅にあったことを、完全に否定する自信はなかった。
須藤にあって、蘇芳になかったもの。
――ぶつかり続ける力……だったのかな?
拒まれても、嫌われても、本当は、ぶつかり続けれるべきだった。拒絶されても嫌われても、諦めがつかなければ、何度でも体当たりしていくしかない。
それなのに、蘇芳は拒絶されること、見捨てられることを恐れて、逃げていただけだった。
――それじゃ、愛してもらう資格なんて、なかったんだ。
そんなやり方で、あの人に想いが届くわけがなかった。
だけど、もう一度、伝えたい。
自分の声で。自分の足で。
この手で、あの人に触れたい。
今更気づいても、遅かったかもしれない。
「……でも、それでも、戻りたいんだ。紺野さんの傍に……」
蘇芳は、ふらつきながらも、震える足に力を入れて、ゆっくりと立ち上がった。
目の前は暗闇だった。やはり道らしきものは見えなかった。
でも、進むしかない。
そう思って、一歩踏み出した時、暗闇の中に、地面に赤い線のようなものが見えた。
目を凝らして見ると、乾いて黒ずんだ血だった。自分の手首から流れた血が、まるで道標のように、戻るべき場所を示していた。
曲がりくねった道標に従い、蘇芳は進んだ。どう見ても回り道をしているルートだが、それでもよかった。
必ず辿りつけるという確信が持てたから。
歩き進めるうちに、絡み合った何かが、解けていく。
重く塞がっていた空気が、微かにひび割れた。目の奥が熱くなる。息を吸いたい、と思った。
これまで世界を包み込んでいた膜のようなものが、音もなく、はらりと剥がれ落ちた気がした。
蘇芳の身を包んでいた、沈丁花の香水の香りが、すっと遠のいていった。
まぶたの裏が明るくなった。
ゆっくりと、意識が浮かび上がっていくような感覚があった。
まだ開くことができていない瞼の向こうで、誰かの気配がした。
他の誰とも違う、静かな威圧感が漂っていた。誰よりも遠く、誰よりも近い、あの人の気配だった。
――熱い……。
灼けつくような鋭い眼光に炙られ、全身に痺れるような緊張が走った。
――僕を、見てる……。
何かが、堰を切ったように流れ出していく。
重たい瞼が、ゆっくりと開かれ、霧り塞がれた視界が、徐々に色を取り戻していく。
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