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3-12

 病室の窓から、春の柔らかな日差しが射し込んでいた。   大学では、すでに新学期が始まっていた。  だが病室は、新学期の浮き立った空気とは無縁で、静寂に包まれていた。  あの事故さえなければ、蘇芳も3年生に進級していて、講義や履修登録に追われていたであろうと思うと、胸が重たくなった。  紺野は、いつものようにベッドの傍らの椅子に腰を下ろした。  両手を膝の上に置き、じっと蘇芳の顔を見つめた。蘇芳は目を閉じて、呼吸のたびに胸元をゆるやかに上下させていた。  紺野は以前のように、頬に手を添えることも、指を絡めることもなく、今はただ傍に座って、静かに見守るだけだった。  蘇芳の寝顔から、かつてのような穏やかさは消えていた。  静かな寝息を立ててはいるが、ほんのかすかな眉の動き、まぶたの震えが、不安を滲ませていた。まるで夢の中で、何かに怯えているかのような表情だった。  ――いや、あれは生気のない、人形のような微笑みだったはずだ。  そうは思ってみても、目の前の痛々しい姿を見ているのは辛かった。  それでも、何かと葛藤しているような様子は、蘇芳がまだ懸命に生きようとしている証だと信じたかった。   苦しげにシーツを掴む蘇芳の指が、震えていた。  それを見る紺野の指も、震えた。  ――あの手を取りたい……。  だが、紺野の手は、膝の上で拳を作ったままだった。 「もう、触れてあげないんですね」  いつの間にか、病室に看護師が入ってきていた。以前はよく、紺野が蘇芳の頬に手を添える場面を目にしていた看護師のひとりだった。 「最近、表情がないんです。前は、紺野さんが来ると、嬉しそうにしてたのに」  紺野は黙っていた。 「今はむしろ、紺野さんが来られている時のほうが、苦しそうな顔をしているような……」  看護師は感情を露わにはしないが、それでもどこか非難するような口調で言い募った。 「見捨てられたって、思ってるのかもしれません。手くらい、握ってあげたら……。それが無理なら、せめて、声を掛けてあげるくらいなら……」  紺野はわずかに視線を動かし、看護師を一瞥したが、すぐにまた蘇芳の顔に視線を戻した。  ――それだと、いつまでも目覚めない。  紺野は自分に言い聞かせるように、胸の裡で呟いた。  だがそんな紺野の祈りは、外から見れば冷酷にしか映らないだろう。  看護師は少し目を伏せ、何も言わず、静かに病室を出て行った。  部屋に再び、二人きりの静けさが戻った。  紺野は、蘇芳の寝顔から目を逸らさず、その手に触れたい衝動を、胸の奥深くに押し込めた。  蘇芳は眉根を寄せ、瞼を微かに動かした。その瞼の奥で、蘇芳が闇の中を彷徨っているような気がして、紺野は胸がつかえるような息苦しさを覚えた。  ――戻ってきてくれ。君の意思で。  その祈りが届くとは限らなかったが、届くと信じるしかなかった。  紺野は立ち上がると、窓を開いた。  風に乗って、遊歩道に咲く沈丁花の甘い香りが、病室に入ってきた。  ――せめて、この香りだけでも届いていてくれたら……。 「……よね……」  廊下のほうから、声が聞こえた。  さっき病室を出て行った看護師が閉め損ねたのか、病室のドアがわずかに開いていた。 「……もう、4か月……」  廊下で交わされる会話が、断片的に病室まで漏れ聞こえていた。 「……ねえ、あの子さ……」  聞き耳を立てるつもりがなくても、少し押し殺した看護師たちの忍び声が自然と耳に入ってきた。 「……最近は、ほんとに何の表情もなくて……」 「あの表情って、よく見るよね」  一瞬の沈黙の後、やけにはっきりとした 「……誰からも見放されて、静かに、死に向かっている顔」  ふいに、忍び声が、やけに明瞭に聞こえた。  その言葉の意味を理解した瞬間、頭の中が真っ赤に染まったような気がした。  別の看護師が遮り、窘める声と、謝る声が聞こえ、それから沈黙が続いた。  しばらく経って、足音が遠ざかっていった。  紺野は窓辺に佇んだまま、動けなかった。  ベッドの上では、相変わらず蘇芳が苦しげな表情を浮かべていた。  紺野の中に、迷いが生じた。  もしも、蘇芳が本当に〝死に向かっている〟のだとしたら、こんな苦悶の表情で送り出すよりも、たとえ作り物のような微笑みであっても、穏やかな表情で送り出したほうが、蘇芳にとって、救いとなるのではないか。  蘇芳に訊ねたい気持ちをぐっと堪え、紺野は蘇芳の枕元に立った。  ――いや、蘇芳君は、生きようとしている。  そう信じ、祈り続けるしかなかった。  ――蘇芳君、ここに、戻ってきてくれ。  その思いに応えようとするように、蘇芳の睫毛が微かに揺れたような気がした。  風か、あるいはただの錯覚かもしれない。  それでも、紺野はそれを蘇芳の応えだと信じたかった。

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