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夜の理学研究棟は、静かだった。
印刷室の中で、コピー機の音が断続的に響いていた。
「紺野先生? まだいたんですか?」
須藤が屈託なく笑いながら、部屋に入ってきた。手には、紙箱と食べかけのどら焼きを持っている。
戒告処分を受けるまでは、反高坂派からの攻撃材料になることを懸念して、蘇芳の見舞い後に大学に戻って作業の続きを行うことを自重していた。
だが反高坂派が崩壊した今は、もう大学に出入りする時間に神経を尖らせる必要はなかった。
そんな事情を察しているのか、須藤は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
コビー機の前に立つ紺野の横に並ぶと、須藤はわざとらしい小声で話しかけてきた。
「そういや、芹沢先生、大変みたいですねぇ」
戒告処分の場にも出てきていた、蘇芳の性癖の情報を掴んだうえで、高坂研究室の院生を使って共有サーバーからデータを盗んだ准教授だ。紺野にとって、最も許しがたい相手だった。
「研究監査室が、正式にヒアリングを始めたらしくて、今週中に呼ばれるって話、もう学生の間にも広まってます」
どら焼きを一口齧ってから、須藤はおもむろに話を続けた。
「それに、研究室の院生がひとり、黙って別の研究室に移っちゃったとかで、内部でゴタついてるっぽいです。あと、年明けに差し戻された論文、再投稿してたみたいですけど、今度は〝構成に不備がある〟って、査読すら受け付けてもらえなかったらしいです。これまで親しくしていた共同研究の先生方が、メールの返信すら寄越さなくなったって噂も聞きました。挙句の果てに、次の学科内の昇進候補者リストから、芹沢先生の名前、消えてたって話まで出てきてて……。去年の時点じゃ、次の昇進候補って言われてたのに。……いやもう、怖いっすね、ほんと」
須藤がちらりと、紺野の顔色を窺うような視線を向けたが、紺野は無視した。芹沢がどうなろうと、大して興味はなかった。
「まあ、でも一番焦ってるのは、資料整理とかログ抽出とか、言われた通りにやっただけの連中かもしれませんね。俺に、とりなしを頼んできた奴までいましたよ。なんか、ペコペコ頭下げて、『せめて、紺野先生にこれだけでもお渡し願えませんか?』って菓子折りを押し付けられました。『俺の一存じゃ受け取れない』って断っておきましたけど、受け取ったほうが良かったですか? 金の延べ棒が、入っていたかもですよ」
どら焼きを齧りながら、須藤は得意げに語った。
「で、おまえが食ってるのは、何だ?」
食べ終わった包装紙を丸めながら、須藤は笑った。
「ああ、先生宛の菓子折りの受け取りを断ったら、次は別の包みを取り出してきて、俺にどうぞって、渡してきたんです。そっちはありがたく頂きました。それが、このどら焼きです。結構有名な和菓子屋のやつですよ。なかなか気が利く奴ですよね。ひとつ、どうですか?」
須藤は紙箱を開こうとしたが、紺野の冷たい視線に手を止め、肩を竦めた。
紺野は須藤を無視して、印刷を終えた紙の束を手に、長机に向かった。須藤は慌ててその後を追った。
長机の上には、資料がいっぱいに広げられていた。学生の推薦書、研修届、研究計画書、それに宛名シールと封筒が、整然と積まれている。
紺野は椅子に腰を下ろし、コピーした資料を確認している。
「……早いですね。これ、来月の提出ですよね?」
須藤が何気ない口調で訊ねてきた。紺野は資料をめくりながら答えた。
「遠藤の国内研修と、中井の産学連携プロジェクトの推薦書。あと、来年度分の特研資料も準備してある」
途端に、須藤の顔から笑みが消えた。
須藤は鈍感ではなかった。紺野が普段、この手の事務作業を提出直前に行っていることを知っているのだろう。だとすれば、今この時期に事務作業を行っていることに、違和感を覚えるのは当然だった。
「……先生。まさか、辞めるつもりじゃないですよね?」
須藤の声は、珍しく震えていた。
紺野はそれには答えず、封筒に宛名シールを貼り付けながら訊ねた。
「推薦状、要るならおまえの分も書いておくが? 春の締切だろ」
須藤が大学院博士課程後期課程への進学を希望する場合に必要になる推薦状のことだった。
「いや、俺はまだ進学先……決めてないっていうか。てか、ちょっと、答えてくださいよ」
紺野は顔を上げると、須藤をまっすぐに見据えた。
「進みたいなら進め。迷ってるなら、止まっていろ」
それだけ言うと、また視線を机の上に戻した。
「……もしかして、蘇芳君が、意識を取り戻したんですか?」
紺野は一瞬だけ動きを止めた。
「まだだ」
紺野は顔を上げず、書類を封筒に差し込みながら言った。
「え? 蘇芳君が意識を取り戻したってなら、ちょっとは話が分かるんですが、まだなら、どうして……」
紺野は何も聞こえていないかのように、封を閉じた。
「しっかりしてください! もう4か月も経つんですよ? いい加減、現実に戻ってきてください」
「おまえに言われるまでもなく、私は現実を見ている。蘇芳君が戻る場所を、今のうちに整えておきたい。蘇芳君の復学を妨げるのは、噂話だろう。広がった噂話の大半が、私と彼との関係についての憶測だ。私がいなければ、噂は沈静化する」
「そうかもしれませんけど……、肝心の蘇芳君は、まだ意識戻ってないんでしょ? 意識が戻る確証なんて、ないんですよ?」
須藤は、焦りと苛立ちが混じった声で叫んだ。
「分かっている」
紺野は須藤の言葉を遮るように、短く言い放った。一瞬、須藤は怯んだが、かえって勢いよく捲くし立ててきた。
「4か月も意識が戻らないなんて、それって、植物状態って言うんじゃないですか? はっきり言って、意識を取り戻す可能性、低いですよ。もういい加減、諦めてくださいよ……。見てるこっちも辛いんです」
最後のほうは、言葉にならない呻き声のようになっていた。
「……目覚めないのは、私が傍にいるからだ」
紺野はぽつりと呟いた。その声は、諦念の色を帯びていた。
「え? どういう意味ですか?」
須藤が首をかしげながら、紺野に問いかけた。
「……私は、ずっと蘇芳君を束縛していた。たとえ魂の抜けた脱け殻でも、手元に縫い止めたいとすら思っていた。その願いを叶えるように、彼は私の手元で、人形のように眠り続けている」
須藤に話しているというより、自分に対して言い聞かせているような口調で呟いた。
「紺野さん……」
「彼はいつも、私の顔色を窺っていた。今もまだ、その関係が続いているような気がする」
「まあ、そりゃ、意識がある時なら、蘇芳君は紺野さんの言葉に従ったかもしれませんが……。でも、昏睡状態の相手に、紺野さんがいくら眠り続けてほしいって思ったとしても、さすがに通じないんじゃないですか?」
須藤は困ったような、呆れたような声で訊ねてきた。
「私の思い違いなら、それでも構わない。私の存在が、彼の歩く道を塞ぐようなことになってはならない。だから私は、彼から距離を置く。それだけだ」
紺野は封入作業を続けながら、虚ろな声で呟いた。
「何言ってんですか? 蘇芳君が目を覚まさなかったら、紺野さんは無駄に退職することになるんですよ」
「無駄かどうかは、結果の話だ。私がするのは、可能性のための準備だ。目を覚まさなかったとしたら、それは、私の祈りが届かなかったというだけの話だ」
「……祈り?」
須藤が頓狂な声を上げた。
「さっきから、紺野さんらしくないことばっか言ってると思ってましたけど、ついには、〝祈り〟ですか? 一体、どうしちゃったんですか? あんたみたいな合理主義の塊が、こんな非合理に走るなんて、冗談きついですよ」
冗談だと思いたいのか、須藤は泣きそうな目をしながら、口の端だけは上に吊り上げていた。
「……そうだな。おまえの言いたいことも、分からなくはない。それでも私は、そうしないと願いが届かない気がするんだ。合理的じゃないのは分かっている。でも私は、祈るしかないんだ」
話すつもりはなかったことだが、須藤が本気で感情をぶつけてきていたから、紺野もごまかす気にはなれなかった。
とはいえ、須藤に理解されるとは思っていない。案の定須藤は、理解できない苛立ちを募らせていた。
「なんか……訳が分かんねえよ」
しばらく口元を歪めて黙り込んでいた須藤が、憎々しげに吐き捨てた。
「いつものあんたは、情なんかじゃ動かない、徹底した合理主義者で、俺がどれだけ縋っても、プロジェクトじゃ一切甘くしてくれないし、学生相手でも、容赦なく辛辣なコメントしてるじゃないか」
須藤は紺野のほうに目を向けた。
「……そんなあんたが、蘇芳君のことだけは、ただ〝祈る〟なんて……、いつもの凛然とした紺野さんは、どこに行っちゃったんですか?」
悔しさと悲しさが入り混じった声で、須藤が呟いた。
紺野は、その間も手を止めることなく、資料をステープラーで綴じていた。その規則的な音に苛立ったのか、須藤の拳がぶるぶると震えていた。
「なんで……、なんでそこまで、蘇芳君に入れ込むんですか? あんたの頭の中には、いつも研究のことしかなかったじゃないですか」
紺野は資料の枚数を確認しながら、少しだけ柔らかい口調で答えた。
「前におまえが言ってたとおりだよ」
「え?」
「〝蘇芳君にベタ惚れ〟しているんだよ、私は」
かつて、須藤が紺野に対して言い放った時のように、紺野は殊更に軽い口調で言った。
須藤は呆れ顔を浮かべるかと思えば、歯を食いしばる音を立てた。
須藤は、泣き笑いのような表情を浮かべると、捨て台詞を吐くかのように、乱暴に言い放った。
「……何を言っても無駄ってことですか。〝祈り〟なんて、意識がある奴にだって伝わらないのに、寝てる奴に届くわけないでしょ」
紺野はステープラーを机の上に置いた。
「……悪いな」
思わず漏らした一言が、かえって須藤の怒りを買ったようだ。
「は? 何ですか、それ? 謝ってるつもりですか? だったら、訳の分からん〝祈り〟なんかやめて、考え直してくださいよ。蘇芳君だって、紺野さんの退職なんて、絶対に望んでませんよ。あの子、紺野さんの役に立ちたがってたんだから」
思いがけない言葉に、紺野は顔を上げた。
「……蘇芳君と、何か話したことがあるのか?」
須藤は自分の失言に気づいたようで、慌てて紺野から目を背けた。だが、じっと須藤の顔を見据えていると、言い逃れできないと観念したのか、須藤は投げやりな口調で吐き出した。
「『君じゃ、紺野さんの役には立てない』って言ってやったら、泣きそうな顔して、逃げて行きましたよ。色々言ってやったけど、その言葉が一番効きましたね。あの子、すぐに顔に出るから分かりやすいですね」
「須藤……」
憎悪に近い感情が、湧き上がった。
「……そんなことを言ったのか? 目的は何だ?」
開き直ったのか、須藤は平然と答えた。
「言いましたよ、何回も。あの子のこと、嫌いだったから。頼りなさだけを武器に、あんたの懐に入り込んで、甘やかされてる様子が、ムカついて仕方なかったんですよ」
紺野と須藤はしばらく睨み合っていたが、先に視線を逸らしたのは、紺野のほうだった。
――また知らないうちに、私は蘇芳君を傷つけていたのか……。
守っていたつもりだったのに、実際のところは、蘇芳のために何もできていなかったことが、今になって突きつけられるとは思わなかった。
「俺を責めないんですか?」
上から降ってきた、呻くような声に、紺野は我に返った。
「あんたなら、俺を潰すくらい簡単だろ。反高坂先生の勢力を一言で崩壊させたあんたなら、俺くらい……」
自棄を起こしたのか、須藤が捲くし立て始めた。何度も同じようなことを喚き散らす。「俺くらい」と何度も繰り返す須藤に苛立った。
いい加減、黙らせたかった。元々紺野は、自虐的な発言が嫌いだった。かつて蘇芳がヒステリーを起こすたびに聞かされた「僕なんか死んだほうが良い」という叫びに対してすら、苛立ちを覚えていたほどだ。
「そんなに潰してほしいか?」
正面から見据えると、須藤は途端に怯んだ。
「……え。あ、いえ……。できたら、ご容赦頂きたく……」
ひと睨みされた程度で怯むなら、初めから黙っておけばいいのに、と思いながらも、ようやく黙らせることができて、紺野は僅かに溜飲を下げた。
「おまえを潰して、何になる? 潰す価値すらない」
最後の封筒を積み上げると、紺野は静かに椅子を引いた。
「あの……、許してくれるんですか……?」
紺野はそれに答えず、整理した書類や封筒などをまとめ、机の上を整えると、資料一式を抱えてドアに向かった。
須藤が呼び止める声が背中に届いたが、紺野は振り向くことなく印刷室を後にした。
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