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 紺野は、いつものように病室を訪れた。  毎日の見舞いも、すでに3か月を超えている。だが、病室の中の光景は、ほとんど変わらなかった。  大学の研究室を出る前、紺野はいつも、かつて蘇芳から贈られた香水を微かに身に纏ってから、病室を訪れていた。だがその香水も、ついに昨晩使い切ってしまった。  あの香水がなくなる前に目を覚ましてくれると、ひそかに祈っていたが、その祈りは、叶わなかった。  それでも、ベッドの上の蘇芳は変わらず、穏やかに眠っていた。  ベッドの傍ら腰を下ろした紺野は、ただ静かに蘇芳を見つめた。  ふと、蘇芳の手がわずかに動いた。シーツの端を、細い指が探るように握りしめる。  眉間がわずかに寄り、かすかに震えた唇が、何かを呟こうとしたが、声にはならず、そのまま止まった。 「……どうした?」  めったに見ない苦しげな表情に、紺野は狼狽えた。  蘇芳の手を握ろうと、自分の手を近づけたその時、ほんのわずかに、蘇芳の手が動いた。  一瞬、蘇芳に手を掴まれた気がした。  もちろん、蘇芳の手にそれほどの力はなく、指の動きは、蝶の羽ばたきよりも弱々しかった。  それでも確かに、蘇芳は紺野の手を探し、それに縋ろうとしていた。  ――香りが消えたことに気づいた?  思えば、初めて香水を使った日、蘇芳は軽快な足取りで紺野の研究室に入ってきた。いつになく、満面の笑みを浮かべた。  限定品のドーナツが買えたと話していたので、それがよほど嬉しかったのかと思っていたが、そうではなかったのかもしれない。  ――だとしたら……。  香りを纏わなくなったことにも、気づいたのだろうか。  ――今も、あの時も……。  蘇芳を強引に抱いた後、後ろめたさから、香水の瓶をデスクの隅、目の届かない場所に追いやった。その後、蘇芳が事故に遭う直前まで、使うことはなかった。 「……気づいていたのか?」  問いかけても、答えは返ってこない。だが、紺野の手を掴んだその指先は、まだ、ほどけていなかった。  ドアをノックする音が響いた。 「失礼します」  一瞬反応が遅れてから、紺野は顔を上げた。  病室に入ってきた看護師は、点滴の確認をし、蘇芳の状態に異常がないことを確認してから、紺野の方を見た。 「そういえば、この前、蘇芳君のお父様が来られましたよ」  蘇芳の父とは、一度会ったきり、その後、顔を合わせることはなかった。避けられているのか、偶然なのかは分からない。 「診断書を取りに来られたんです。休学の手続きに必要だそうで」  看護師はカルテを整えながら、ふっと表情を緩めた。 「『通学できないのに、学費の請求書はちゃんと届くんだからなぁ』って、苦笑いをされて……」  紺野は蘇芳の手に、視線を落とした。紺野の手を掴んでいた指先は、すでに力を失い、だらりとシーツの上に力なく投げ出されていた。  ――4月から休学……。  現実は、蘇芳が目を覚まさないことを前提に、粛々と前に進んでいた。 「お疲れじゃないですか? ここのところ、ずっと顔色が悪いですよ。さっき、この病室に入ってきた時なんか、あまりにもお顔が真っ青だったから、思わず二度見してしまったくらい……」  看護師の目に、憐みの色が色濃く浮かんだ。紺野は慌てて姿勢を正した。 「……いえ。疲れているのは、私よりも彼のほうです」  紺野は、蘇芳の寝顔に視線を落とした。蘇芳はもう苦しそうな表情ではなかったものの、妙に疲れ果てた顔に見えた。  部屋は静寂に包まれ、蘇芳の穏やかな寝息だけが、微かに聞こえた。 「こんなこと、言っていいのか分からないんですけど……」  看護師が、視線を落としながら、吐息のような小さな声で話し出した。 「……毎日、来てくださって、蘇芳君のこと、大切に思われていることは私たちも分かっています。でも、もう三か月が経ちますよね。ほんの少しだけでも、距離を置いてみても……。蘇芳君もきっと、恨んだりしないと思うんです」  看護師の遠慮と気遣いが、痛いほど感じられた。  紺野は無言のまま、ゆっくりと頭を下げた。看護師も、それ以上言葉を重ねることなく、静かに病室を後にした。  看護師が出て行った後の病室は、妙に静かだった。  規則的な寝息を漏らしている蘇芳の頬に手を伸ばしかけて、止めた。  蘇芳は、スキンシップに異常に弱かった。それに気づいて、紺野はわざと蘇芳に触れた。  ――そして、この子はいとも簡単に、私に気を許した。  蘇芳のことを、かつて一度は、諦めたはずだった。  線を引き直した。そのはずだった。  だが、思いがけない力が働いて、拗れてしまった。  山田を責める気はなかった。単に紺野が迂闊だっただけだ。誤解して蘇芳を傷つけたのは、紛れもなく紺野の責任だった。  ベッドの上で目を閉じたままの蘇芳は、精巧に作られた人形のようだった。何度も見慣れたはずの光景なのに、今夜はその美しさが、胸に突き刺さった。 「……君が必要なのは、私ではない。対等で、まっすぐな関係を築ける相手だ」  本当は、ずっと解っていた。だが、蘇芳を手放したくなくて、目を逸らし続けてきた。  ――手放せなかった結果が、これか……。  シーツの上に力なく投げ出されている、蘇芳の左手に視線を落とした。  左手首から腕にかけて、肌の上に幾筋もの線が走っていた。うすく白んだものや、まだ赤黒く沈んだもの、これらの滲んだような傷痕は、痛々しく、鮮明だった。  紺野は指先を震わせた。  この傷痕は、どれだけ月日が流れても、薄れこそすれ、消え去ることはないだろう。彼がこれから何を望み、何を失っても、この痕跡だけは彼の肉体に残り続ける。  シャツの袖に隠すことができても、何かの拍子で見られてしまうと、無用な詮索や憐憫を呼び寄せ、彼を縛り続けるだろう。  蘇芳の人生を、まるごと引き受ける覚悟はあった。覚悟がなければ、手を差し伸べたりはしなかった。そのつもりだった。  だが紺野は、蘇芳の欲するものを与えた気になっていただけで、実際には、彼の望むものを、何ひとつ与えられなかった。それどころか、逆に苦痛を与え続けただけだった。  蘇芳が本当に必要とするべき相手は、紺野ではないということは、明白だった。  容姿の整った蘇芳が、うっすらと浮かべる微笑は、まるで精巧に作られた人形のように、艶めかしく、美しかった。  だが、紺野の実験ノートのイラストを見て笑い転げた時、限定品のドーナツが購入できたと言って、嬉しそう駆け寄ってきた時に見せたのは、こんな作り物のような笑顔ではなかった。  蘇芳が紺野の人形でいてくれた間、思えば紺野は幸せだったのかもしれない。  だがもう、それも終わりにしなければならない。  ――これで、本当に最後だ。  紺野はゆっくりと手を伸ばすと、蘇芳の頬をそっと撫でた。その柔らかな感触を指に刻み込み、記憶に焼きつけようとするように、何度も何度も撫で続けた。  最後に蘇芳の髪を丁寧に整えると、紺野は蘇芳から手を離した。  居住まいを正し、紺野は改めて蘇芳を見つめた。 「……君には、君のままで、生きて欲しい」  蘇芳には、蘇芳自身の未来があるはずだ。紺野は、自分がその妨げにはなりたくなかった。 「……君は、どこに向かっていたんだ?」  蘇芳は、理学研究室から出て、正門の傍の構内道路で事故に遭った。だが、蘇芳が描いた軌跡は、理学研究棟から正門傍らの構内道路までの一般的な最短ルートではなく、不自然な回り道が随所でみられた。  理学研究棟から、すなわち紺野から、離れようとしたのは確かだろう。  だが、どこに向かおうとしたのかは、判然としなかった。  ――それでも、向かおうとした先があるなら……。 「蘇芳君……。ここに、戻ってきてくれないか? 自分の足で」  僅かに、蘇芳の瞼が震えた。穏やかだった呼吸が突然不規則に揺れ、止まったかと思えば、深く息を吐いた。何か言いたげに、唇が僅かに動いた。  紺野の鼓動が高鳴った。  ――声が、届いている……?   一瞬そんな気がしたが、紺野は慌てて首を横に振った。  気のせいかもしれない。いや、気のせいだと思いたかった。  蘇芳は、紺野の傍にいる間に、紺野の顔色を窺う習慣、反射的に紺野の言葉に従う習慣が身についてしまっていた。  蘇芳との関係に、紺野が線を引き直そうとして1ヶ月以上経ってからも、この習慣はなお蘇芳を支配し続けていた。  ――それがまだ、続いているとしたら……。  嬉しさよりも、罪悪感が圧し掛かってきた。  ――もう、私の声になんか反応するな。  思わず口を衝いて出かけた言葉を、紺野は呑み込んだ。  蘇芳には、自分の意思で、生きる道を選んでほしかった。そして、自分が望む道を歩んでほしい。  ――戻ってきてくれさえすれば、今度こそ、君を送り出す。  蘇芳の背中を見送ることだけが、紺野が蘇芳のためにできる、唯一の償いだった。  紺野は立ち上がり、蘇芳に背を向けようとしたその時、蘇芳に呼び止められたような気がした。  紺野は思わず動きを止め、蘇芳を凝視した。  蘇芳の瞼がかすかに震え、閉じた隙間から一瞬、黒い瞳がのぞいた。目が合ったような気がしたのは、錯覚だろう。  縋るように見つめる、黒目がちの潤んだ瞳を思い出し、胸の奥がきりきりと痛んだ。  ――偶然だ。瞳が反射しただけだ……。  紺野はすぐに視線を外し、病室を後にした。  廊下に出たところで、ナースステーションの奥から小さな声が漏れ聞こえてきた。 「……ああ、今日も来てるよ」 「毎日欠かさずよねぇ。……もう3ヶ月以上経つのにね。すごいとは思うんだけど……」  カーテン越しの、内緒話のような口調だが、自分のことを言われていることは、すぐに分かった。 「もう、目覚めないかもしれないのに」  錐を心臓に捻じ込まれたような気がした。  その言葉には、悪意の欠片もなかった。ただ、事実を冷静に見て、そう言っているだけなのだろう。だからこそ、かえって堪えた。  紺野は足早に、階段へ向かった。ナースステーションから、一刻も早く遠ざかりたかった。  病院を出たところで、どこからともなく、沈丁花の甘い香りが漂ってきた。  その香りに誘われるように、紺野は歩を進めた。  病院の遊歩道沿いの花壇に、沈丁花が咲き誇っていた。

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