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 戒告処分から二週間ほど経ち、ようやく高坂研究室は落ち着きを取り戻した。もっとも、落ち着きを取り戻したのは高坂研究室だけで、理学研究棟内は以前よりも緊迫感が増しているらしい。  その状況を、なぜか須藤が得意げに語っていた。 『あの時の先生の牽制、効きすぎたみたいですよ。一瞬で共闘体制は崩壊して、今じゃ、互いに責任の擦り付け合いですよ。自分たちでを火をつけといて、燃え広がったら大慌てで、我先に逃げ出す。……無様なものです。中には、高坂先生に擦り寄っていく強者とか、〝芹沢のせいでこんなことになった〟って、芹沢攻撃を始める奴まで現れて、もうカオス状態ですよ』  頼んでもいないのに、須藤は自分の役目だと言わんばかりに、逐一報告してくる。 『そうそう、その芹沢先生ですけど、理学部事務課の経理担当から、過去の研究費使用に関する伝票照会が届き、倫理事務局からは、昨年度の調査資料について再確認の要請が入ったらしいですよ。そのきっかけが、例の〝処分〟の時、先生の研究費とか、薬品の管理記録とかを調べまくった操作ログだったみたいです。まるで提出用みたいに丁寧に整えられたデータが、内部監査の共有ドライブに置かれていたとか。誰が置いたのかは、分かりませんけどね』  理学研究棟内は、研究費や倫理手続きに関する照会が各所に飛び交い、誰が次に標的にされるか分からない、という空気が漂っているようだ。高坂はその空気を利用して、権威の回復を図っているらしい。  もっとも、研究者としての高坂には敬意を持っているが、彼の権力闘争を支えるほどの忠誠心を、紺野は持ち合わせてはいなかった。そのことは高坂が誰よりもよく知っているだろう。  紺野としては、高坂研究室さえ落ち着けば、他はどうでも良かった。  紺野は机の上の小瓶を手に取った。残りが少なくなってきたことを意識しながらも、いつも通り空中にワンプッシュする。  毎日、蘇芳の病室を訪れるのが、蘇芳が事故に遭ってからの日課だった。  そのことは事故の数日後にはすでに噂になり、様々な憶測とともに囁かれ続けていたが、懲戒処分後は、紺野の牽制が効果を発揮しすぎたせいか、紺野の動向を話題にすること自体がタブーとなったようだ。懲戒処分の数日後には、談話室から紺野の話題は消えていた。           *  病室の前まで来て、紺野はふと足を止めた。  ドアが、わずかに開いていた。隙間から洩れる声に耳を澄ませれば、聞き覚えのある男の声が聞こえてきた。  山田徹だった。  蘇芳の友人が見舞いに訪れたことは、紺野が知る限り、一度もなかった。  ――珍しいこともあるものだな。  看護師は紺野に同情しているのか、蘇芳の状況を積極的に教えてくれる。山田が頻繁に見舞いに来ているなら、紺野の耳に入っている可能性が高かった。  ――ドアを閉めておくべきか……?  迷いながらも、ドアの引手に触れたその時、憎悪の籠った唸るような低い声が漏れた。 「……おまえ、マジでウザかったよ」  あまりに不穏な言葉に、一瞬、蘇芳の身の危険を感じた。紺野は無意識のうちに扉を引き、室内に入った。足音を忍ばせ、半分ほど引かれたカーテンの陰に立ち止まった。  山田は、紺野の気配に気づく様子もなく、ベッドの脇に立って、険しい表情で蘇芳の顔をじっと見下ろしていた。手には何も持っていない。突然凶器を振り下ろす恐れがないことに、紺野は安堵を覚えた。 「宮下亜紀……、どうせおまえは覚えてもないんだろうな。高校のとき、俺が片思いしてた子だよ。あいつ、いつも、おまえのことばっか見てた。……おまえは、そんなの全然気づいてなかったよな」  諦念を帯びた、淡々とした口調だった。 「オープンキャンパス誘ったのもさ、別におまえのためじゃなかった。宮下に声を掛けたかったんだ。おまえを誘えば、来てくれるかなって、そう思った」  蘇芳は眠ったまま、何も応えない。それでも山田は、問わず語りを続けた。 「生活指導の教師とか、やたら下級生をしごく先輩とか……、そういうのに、おまえはいつも気に入られて、えこ贔屓されてたよな。あいつら、おまえにだけは甘くてさ。おまえは、何の悪気もねぇんだろうけど、それがかえって腹立つんだよ」  淡々としていた山田の口調が、綻び始めた。握りしめた拳の指が、わずかに震えているのが、カーテン越しでも分かった。 「成績だって、クラスで真ん中くらいだっただろ。その程度の成績で、昌泰大を志望する厚かましさに、内心呆れてたよ。なのに、オープンキャンパスの後から、急に成績が伸びたよな。後で思ったんだけど、紺野先生に勉強見てもらってたんだろ。そんなこと、俺が理学部目指してるの知ってたくせに、一言も言わなかったよな」  自分の名が出たことで、紺野はわずかに身じろぎしたが、山田が気配に気づいた様子はなく、語り続ける。 「……あの時、オープンキャンパスの帰り、なんとなく、紺野先生の名前を調べたんだよ。高校生にだってすぐに分かるくらいの、すげえ業績の持ち主だったよ。俺みたいな平凡な人間には一生届かない、雲の上の人間だけど、でも、憧れたんだ。そんな人に近づけたら、何か変わるかもしれないって。 紺野先生の目に留まったら、俺だって、理学部の中で頭ひとつ抜け出せるんじゃないかって……そう思った」  紺野は眉をひそめた。  山田の語る《憧れ》は、薄汚れた打算と欲望にしか聞こえなかった。 「……だけど……」  山田の陰が揺れた。 「おまえは、俺に何も言わずに、気づいたらもう、紺野先生の隣に立ってた。 まるで当然みたいな顔して。何の努力もなしに、特別扱いされて……。ずるいよ、おまえは」  声を抑えながらも、山田は憎々しげに吐き出した。 「おまえが紺野先生に会えたのだって、俺がオープンキャンパスに誘ったからだろ? 実験コーナーだって、俺が誘ってやらなかったら、絶対に行かなかっただろ。……おまえなんか、もともとは宮下を誘うための口実だった。おまえはただのエサだったんだ。……そのはずだったのに……なんで、おまえばっかり……」  確かに蘇芳は、上昇志向が低く、何かを手に入れようとひたむきに努力する姿勢には乏しいかもしれない。だが、蘇芳は常に苦悩し、自分を否定し続けてきた。  蘇芳に山田の渇望感が分からないのと同様に、山田には蘇芳の苦悩は分からないのだろう。 「美鶴さんも、おまえばっか見てたしさ……。なんでおまえなんだよ。なんで、いつもそうやって、何の苦労もなく、俺の欲しいものを、いとも簡単に手に入れるんだ?」  山田の声は掠れ、消えるようにしばらく途絶えた。その間も、蘇芳は穏やかで規則的な寝息を立てている。 「……紺野先生だってそうだ。俺ら理学部の学生にとっては、どんなに近づきたくても近づけない、雲の上の人なんだよ。なのにおまえは、『さん』付けで馴れ馴れしく呼んで、連絡をくれないだの、舐めたことばっかり抜かしやがって」  山田は思い出したように、再び声を荒らげて捲くし立て始めた。  山田の言葉に何度も出てくる「紺野先生」という言葉が、紺野の胸に寒々しく響いた。  ――馴れ馴れしく……か。  蘇芳は周りの空気を読む能力が極端に低い。  理学部の学生と話すときだけでも「先生」と呼んでおけば、要らぬ軋轢を生むことはなかったかもしれない。  紺野自身、「さん」付けで呼ばれることに違和感を覚えたことはないが、こんなことが批判の対象になるなら、注意してやればよかった、と今更ながら思った。  だが蘇芳は紺野に対して、一度たりとも馴れ馴れしく振舞ったことなどなかった。紺野の隣にいても、いつも一定の距離を保ち、どこか怯えるように紺野を見ていた。身体を引き寄せ、どれほど密着させても、その距離を縮めることはできなかった。 「そんなに可愛がられてるなら、ちょっとくらい気を利かせて、俺のこと紹介してくれるとか、そういうの、ないのかよ? そりゃ、頼んだことはないけど、それくらい、察して、やってくれるものだろ、友達なら……」  一気に捲くし立ててから、山田は言葉を詰まらせた。  呼吸を整えてから、再び口を開く。 「スマホを化学研究会のサークル室に忘れて帰っのを見て、魔が差したっていうか……。あれだけ紺野先生から連絡がないことに文句言ってたくせに、しっかりと紺野先生からの連絡が入ってて……、あんな忙しい人が『何時になっても構わないから』って……、どんだけ愛されてるんだよ? そう思ったら、なんか無性にムカついてきて、つい……」  蘇芳に対してなのか、自分自身に対してなのか、誰に向けた言い訳なのか、判然としなかった。  それでも、ひとつだけ確かなのは、山田の声が、明らかに後悔の色を帯びていたことだった。  そのまま山田は口を固く閉ざし、重たい沈黙が室内に漂った。その沈黙は、深く息を吐いた音で中断された。 「……でも、こんなことになるなんて、思ってなかったんだよ」  まるで吐息のような、掠れた、ほとんど声にならない声だった。 「……おまえにも、紺野先生にも……」  山田は唇を震わせ、何か続けようとした。だが紺野には、息が微かに洩れる音しか聞こえなかった。その代わりに、嗚咽の声が僅かに漏れた。そんな中、穏やかに眠り続ける蘇芳の姿に、紺野は薄ら寒いものを感じた。  山田は、蘇芳に何か危害を加える気はない。  そして、紺野から山田に掛けるべき言葉は、何もなかった。  紺野は音を立てず、そっと病室を出た。       *  病室と同じフロアにある談話室には、壁際に並んだ古びたソファと、自販機と無音のテレビがあるだけだった。  窓の外には、ぼんやりと木々の影が映っている。誰もいないソファに腰を下ろし、紺野は手持ち無沙汰に、冷えた麦茶の紙コップを弄んでいた。  すでに山田は、蘇芳の病室から立ち去っていた。それでも、紺野はじっと談話室のソファに座り込んでいた。  ――聞くべきではなかった。  いくら蘇芳の身を案じたとはいえ、盗み聞きしてしまった自分を恥じた。  蘇芳を騙ってメールを送りつけてきたのが山田であろうことは、須藤から聞かされていた。だが、その理由に自分が拘わっているとは思いも寄らなかった。  蘇芳の交友関係は狭い。  そんな中、高校時代から交友が続いているのは、おそらく山田だけだろう。  ――あの子は、山田の嫉妬心になど、全く気付かなかったんだろうな。  蘇芳の持つ、どこか危うげな気配は、見る者に、守ってやりたいという本能を呼び起こす。  あの無防備さは蘇芳の魅力ではあるが、同時に最大の弱点でもあった。  山田もその魅力に取り込まれたのか、あるいは当人が語ったとおり利用するためだけに近づいたのか――それは山田本人にしか分かり得ないことだった。  紺野はようやく重い腰を上げた。  だが、病室に向かいながらも、頭から山田の話していたことが離れなかった。  ――雲の上の存在、か……。  紺野は静かに、山田の言葉を反芻する。  山田は紺野について「雲の上の存在」で「目に留まれば、頭ひとつ抜け出せる」とまで語っていた。  だが、当の紺野にとっては、まるで別人の話のようだった。  自分は、そんな高尚な存在ではない。  そもそも、直接講義で指導を受ける機会がなくても、何か相談があるなら、メールの一通でも寄越せばいい。よほど内容が不明確であったり非常識でない限り、返信はしている。  だが、山田から相談を受けたことは一度もなかった。  手に届く距離まで歩み寄ってきた者にだけ、必要に応じて手を差し伸べるのが、紺野の基本的なスタンスだ。  自ら紺野の手に届く距離まで歩いて来ようとはしないのに、どうして蘇芳を通して近づけると思うのか――その発想自体が、不思議だった。  ――いや、その例外が、蘇芳君か……。  遠目から見た姿が、かつて想いを寄せた須藤に似ていた。それだけの理由で手を差し伸べ、血液製剤という、そう簡単には手に入れられない餌を撒いた。  その餌に、蘇芳は無防備に食いついた。  ――その結果が、これだ……。  紺野は、病室のドアを開いた。  白く静まり返った室内のベッドの上で、蘇芳は無心に眠り続けていた。  紺野は無言で傍らの椅子に腰を下ろした。  いつもと変わらない、穏やかな寝顔だった。頬を撫でると、わずかに熱が伝わってくる。  蘇芳が事故に遭う直前に見せた、焦点の合っていない、どこか違う世界に旅立とうとしているような表情が、今も網膜に焼きついて離れなかった。  必死で駆け寄ろうとしたが、蘇芳はまるで紺野から逃げようとするかのように、車道に踏み出した。  蘇芳の身体に触れられたのは、すでに車に撥ねられ、力なく地面に倒れ込んでからだった。  ――今はもう、逃げることはない。  そのことに、どこか安堵を覚えている自分がいた。 「さっき、お友達が見舞いに来てたんですよ。初めてだったから、びっくりしちゃいました。この子にも、友達いたんですねぇ」  顔なじみの若い看護師が、悪戯っぽい笑みを浮かべながら病室に入ってきた。あまりにも正直な感想に、紺野は苦笑を浮かべた。 「秋学期試験の最終日ですから。試験が終わった後に来たんでしょうね」  さきほどの山田の告白は、蘇芳に届いただろうか。  山田の憎悪も悔恨も、何ひとつ届いていないように見えた。 「不思議なんですよ。紺野さんが来ている時、蘇芳くん、ちょっとだけ、表情が柔らかくなるんです」  目を伏せたままの寝顔に視線を向け、看護師は微笑を浮かべた。 「眉の角度とか、口元の力の入り方とか……。他の時間より、少しだけ穏やかになる気がして」  それがただの思い込みか、観察眼ゆえの感覚か、紺野には判断がつかなかった。 「嬉しいんじゃないかな。たぶん、分かってるんですよ」  看護師は微笑みながら、蘇芳に目を向けた。 「……ほんと、きれいな顔立ちですよね。ときどき、じっと見てると不安になるくらいです。まるで、お人形さんみたいで」  看護師の何気ない呟きに、紺野は思わず蘇芳の頬をさする手を止めた。 「人形……」  紺野は改めて、蘇芳の寝顔を凝視した。  蘇芳は人形のように眠っていた。口元に浮かぶ柔らかい笑みも、人形のようだった。 「紺野さんが来ている時には、ちょっと表情が変わるから、大丈夫だとは思っているんですけど……」  看護師は、手元のカルテに視線を落としたまま、言いにくそうに続けた。 「覚醒の兆候とされる、まぶたの痙攣や、手足の反射が、ほとんど見られないんです。ここまで反応がないと、正直、ちょっと長くなるかも……」  当初は、年が明ける頃には目覚めてるだろうと期待されていた。だが昏睡状態が1ヶ月を過ぎる頃から、看護師たちの間にたゆたうようになった、微妙に重たい空気を、紺野も察してはいた。 「もしかして、戻ってきたくないのかも……」 「え?」  思いがけない言葉に、紺野は顔を上げた。 「……それは、蘇芳君自身が、眠り続けることを、望んでいるということですか?」  紺野の声があまりに真剣だったためか、看護師はたじろいだ。 「……あ、いえ。ごめんなさい。そんなこと、ご本人にしか分からないことですよね」  看護師は自分の失言を恥じるように、肩を竦めると、そそくさと病室を後にした。  静寂を取り戻した病室の中で、紺野は再び蘇芳に視線を戻した。額に掛かった、少し乱れた髪を整えながら、改めて蘇芳の顔を凝視した。  ――人形か……。  確かに、人形のように整った寝顔だった。だがそれだけではなく、あまりにも静かで、生気を感じられない様子は、人形と形容する以上に相応しい言葉が思い浮かばなかった。  ここで眠り続けている限り、もう誰にも奪われる心配はなかった。受け入れることがない代わりに、拒否することもない、ただそこにいてくれる存在だった。  ――まさか私は、心のどこかで「人形のままでいてほしい」と願っているのか?  そう思い至った瞬間、背筋が寒くなった。  ――僕のこと、見捨てないでください。何でもするから……。  何度も聞かされて辟易し、苛立ちさえ覚えた言葉が、脳裏に過った。  あんな科白を蘇芳に言わせたのは、紛れもなく紺野だった。蘇芳は紺野を恐れるうちに、本人も特に意識することなく、紺野が望むように振る舞うようになっていた。  看護師の洞察は、正鵠を射ているのかもしれない。  蘇芳は紺野の望みを察し、自ら人形になろうとしているのではないか。  一般常識で考えると、あり得ないことだが、目の前に横たわる、人形のような蘇芳の姿を見ていると、その考えを一笑に付すことはできなかった。  ――抜け殻でも、手元に縫い止めておきたいと思ったことは、確かにあったが……。こんな姿を望んだつもりはなかった。  紺野は視線を伏せ、そっと蘇芳から手を離した。  それでも、掌に残る体温は消えず、焼きついたように皮膚にまとわりついていた。

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