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戒告処分を受けたその日も、紺野はいつものように、エレベーターを降り、廊下を進んだ。
午後7時を回った病棟は静かだった。
ナースステーションに顔を出すと、すぐに若い看護師が気づき、ぱっと表情を明るくして駆け寄ってきた。
「こんにちは、紺野さん。今、病室にお父様がいらっしゃってるんです」
こちらから名乗る前に、看護師が一方的に話を進める。毎日来ているのだから、顔を覚えられていて当然かもしれない。
「談話室にご案内しますね」と、わざわざカウンターの内側から出てくる看護師に、「場所は分かっています」と制止しかけたが、嬉しそうな看護師の表情に、紺野は言葉を呑み込んだ。
紺野に同情しているのか、看護師たちはみな、度が過ぎると感じるほど親切だった。
――蘇芳君を追い込んだのは、私なのに……。
そう思うたびに、彼らの親切に、どこか居心地の悪さを覚えた。
談話室までの短い道のりを、看護師は饒舌になりながら、軽い足取りで歩いた。「お父様が病室を出られたら、案内しますね」と名残惜しそうに告げて、看護師は立ち去った。
紺野は頭を下げて看護師を見送り、ようやく一人になった。
奥のソファに腰を下ろして物思いに耽っていると、近づいて来る足音が聞こえた。
「あの……、失礼ですが、紺野先生…でしょうか?」
おずおずと声を掛けてきたのは、中年の男だった。光沢のない、ややくたびれた濃紺のスーツを身に纏っている。背中を丸め、どこか卑屈な態度だ。姿勢が悪い所まで、よく似ている。
確認するまでもなく、蘇芳の父親だった。
息子を追い込んだ相手だと知って、声を掛けてきたのだろう。いつかは対峙することになる相手だった。
「はい」と答えながら、紺野は立ち上がった。憎悪を受け止める覚悟を決めて、蘇芳の父親と向き合った。
だが、父親の態度は紺野の予想していたものではなかった。紺野が立ち上がった瞬間、恐れるように一歩引き、目を泳がせている。
「えっと……、あの…、こ、このたびは、息子がご迷惑をおかけして……、あの……、本当に…申し訳…ありません」
酷く緊張しているのか、蘇芳の父親は俯いたまま、途切れがちに絞る出すような声を漏らしている。
なぜ謝られているのか、理解できなかった。
そんな紺野の困惑を読み取ったのか、父親は紺野の顔色を窺いながら小さく呟いた。
「息子との間に、何があったのか詳しくは存じませんが……、あの子、かなり特殊な子なので……」
まるで「関わらないでくれてもよかったのに」とでも言いたげな、諦念を帯びた声だった。
蘇芳の父親は俯いたまま、唇を戦慄かせていた。
「……こんなことを申し上げていいのか、分かりませんが……」
父親はしばらく沈黙して、意を決したように言葉を継いだ。
「私は週に1回程度しか、文弥を見舞ってはいません。でも、見舞うたびに、いつもあの子は、あなたの名前を呼びます。あなたの名を呼んでは……、涙を……」
声は途中で嗚咽に掻き消された。ハンカチで目頭を押さえる父親の姿に、紺野は胸を突かれた。
蘇芳は、本人が思っていた以上に、父親から愛されていたのだと感じた。それを知って、蘇芳自身が喜ぶかは分からないが、紺野は嬉しく思った。
紺野は蘇芳の父親に向かって、深く低頭した。それが謝罪なのか、礼なのか、紺野自身分からなかった。
踵を返し、病室に向かおうと一歩踏み出したところで、背中から掠れた声が届いた。
「……あのコート、文弥が事故の時に着ていたトレンチコート……。先生から贈られたものじゃないですか?」
振り向くと、蘇芳の父親が、覚悟を決めたような様子で佇んでいた。上目遣いに紺野を見る目は、怒りに似た色を帯びていた。
紺野は一瞬、その視線に怯みかけた。だが、息子を自殺に追い込んだ人間を前に、父親が怒りを露わにするのは当然だと思い返し、その視線を受け止めた。
「……この前、突然家に帰ってきたんですよ、あのコートを着て。それであいつ、意味の分からないことを喚き出して……」
蘇芳の父親の声は、震えていた。
「……虐待だなんて……。私は……、断じて、息子を、文弥を虐待なんて…、していません」
おどおどとしながらも、強い口調で言い切った。
自分を非難する言葉を浴びせかけられるものと思って身構えた紺野は、肩透かしを食らった気がした。
「……そうですか」
それ以上に、返事のしようがなかった。
だが蘇芳の父親は、紺野の肩に掴みかかり、揺さぶってきた。その指先に込められた強い力に、紺野は眉根を寄せた。
「本当です。信じてください」
蘇芳が父親から虐待を受けていたと言い出し、蘇芳を翻弄したのは大島美鶴であって、紺野ではない。だが蘇芳の父親は、紺野の仕業だと誤解しているらしい。
「どうして、そんな風に思われたのか分かりませんが、私は断じて、虐待なんてしていません。そんなに文弥のことを思って下さっているなら、どうしてあの子を惑わせて、苦しませるような嘘を吹き込んだんです?」
悔しそうな眼差しで、紺野を睨みつける。
――君は、ちゃんと愛されていたんだよ。
蘇芳に伝えられるものなら、すぐにでも伝えたかった。
「恐れ入りますが、手を離していただけませんか?」
意表を突かれたのか、父親は慌てて手を離し、自分が取り乱したことを恥じるように肩を竦めた。
「その件について、私は関与していません」
紺野が断固とした口調で告げると、父親はあれだけ感情を露わにしていたのに、卑屈な姿勢に戻っていた。
「え……、じゃあ、誰が……」
蘇芳の父親は視線を泳がせながら、口の中だけでもごもごと呟いた。
紺野は、大島美鶴の名を口にするつもりはなかった。
大島には加害の意図はなかったし、蘇芳が自ら縋った面もある。その名を今ここで告げることは、大島を憎悪の的に仕立てるだけだった。それは、蘇芳が最も望まない形だろう。
そして何より、自分の手で責任を転嫁するような真似は、したくなかった。
「……その件について、蘇芳君は、私に少しだけ話してくれたことがありました。『父から虐待された記憶なんか、ないような気がする』と言っていました」
紺野は言葉を選びながら伝えた。
「え? そうなんですか?」
蘇芳の父親は頓狂な声を上げたが、その声には期待と喜びの色が混じっていた。
「それだったら……」
――ちゃんと言ってくれたら良かったのに。
そんな言葉が漏れそうな風情だった。
大島による退行催眠で、蘇芳は父から虐待を受けた気になり、父を糾弾したらしい。その後、それが過誤記憶ではないかと思い至ったが、父にそれを告げるのはきまりが悪くて、伝える機会を逃したのだろう。
蘇芳の父親は気まずさと困惑の入り混じった表情で目を泳がせていたが、やがて小さく頭を下げると、逃げるように病棟を後にした。
紺野はしばらくその場に立ち尽くし、目を伏せた。
「……よく似た親子だ」
小さく呟いてから、紺野は病室に向かった。
*
紺野が病室に入って、真っ先に目に映ったのは、ベッドの脇に置かれた椅子の背もたれに掛けられていた、トレンチコートだった。すでにクリーニングされているのか、血の跡も、泥も、何も残っていなかった。
「……お父様がいらした時に、お返ししたんですが、ここに置いていかれたんですよ」
看護師が困ったように言った。
さっき蘇芳の父親が、唐突コートのことを口にしたのは、病室でコートを渡されたことが一因らしい。
紺野は椅子の背もたれからコートを手に取った。
布地は柔らかく、洗いたての香りが微かに漂っていた。ほつれも血の跡もほとんどなかった。
「……もしかして、お父様から何か言われました?」
紺野が視線を向けると、看護師は気まずそうに眉を寄せたまま、声を潜める。
「……聞いた話ですが、加害者の方との示談がなかなか進まなくて、心労が絶えないみたいです。患者さんが飛び出した形にはなってますけど……それでも、お父さまは、納得いかないことも多いんでしょうね。こういうとき、ご家族って、誰かが悪いって決めないと、気持ちのやり場がないのかもしれません」
看護師は、紺野が蘇芳の父親に責められたと思っているらしい。
だが、蘇芳の父親とのやり取りを説明する気にはなれず、話を変えた。
「……様子、どうですか?」
紺野はトレンチコートを腕に掛けたまま、椅子に腰を下ろした。
ベッドの上の蘇芳は、相変わらず動かない。けれど、昨日も一昨日も、うわごとのように小さく、何度か自分の名を呼んだ。
「特に変わりはないですけど……表情は穏やかでしたよ。紺野さんが毎日来てくださって、安心してるのかもですね」
看護師は微笑みながら続けた。
「そのコートを蘇芳さんの手元に置いたら、すごく大切そうに撫でて、ちょっと笑ったんですよ。自分の命を救ってくれたコートだって、分かってるんでしょうね」
「え?」
意味が読み取れず、紺野は看護師に目を遣った。
「あ……、あたしも直接聞いたわけじゃないんですけど、救急隊員の方が、これだけの事故で、ほとんど無傷だなんて、あり得ないって驚いていたとか。コートの紐が、車のドアミラーに引っかかったって、体が吹き飛ばされずに済んだらしいですよ。本当に奇跡みたいな偶然が重なって……」
耳をつんざくような急ブレーキの音と、蘇芳の身体が浮いたところまでは覚えているが、それ以上のことは覚えていなかった。次の瞬間には、道路に倒れた蘇芳に駆け寄っていた気がする。
紺野は、コートを畳むと、棚の上に置いた。
「左手首をナイフで切りながら歩いていたって聞いたのに、なぜか左手の袖、全然血がついてなかったんですよ。地面に血痕が、道しるべみたいに残ってたって聞いてるのに、コートに血が付着しないなんて、変ですよね」
「道しるべ……」
紺野は思わず呟いた。
紺野は、その《道しるべ》を辿って、蘇芳に辿り着いた。一歩遅く、事故を防ぐことはできなかったが。
――君は、どこに向かって進もうとしたんだ?
理学研究棟からは離れて行っていたのは確かだった。
――私から逃げたかった。おそらく、そういうことなのだろうが……。
「普通はあれだけ手首から出血していたら、コートにも付くのに……」
看護師の声に、紺野は我に返った。
看護師は、紺野が現場にいたことを知った上で訊ねているのだろう。やむなく紺野は答えた。
「……左だけ、コートの袖をまくっていたような気がします」
あの時のことは動揺していたせいか、よく覚えていなかった。ただ、少し違和感のある姿だったから、なんとなく覚えていた。
「ああ、それで……。コートを汚したくなかったんですね。大事にされてたんでしょう。それでこのコートが奇跡を起こしたのかも……」
秋物の薄っぺらいコート、しかも蘇芳が気に入らず、なかなか袖を通そうとしなかったコートが、蘇芳の命を救ったとすれば、皮肉でしかなかった。
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