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 年が改まり、蘇芳の事故から1ヶ月ほど経過したが、蘇芳は昏睡状態のままだった。  紺野が理学研究科長からの呼び出しを受けたのは、1月の半ばだった。  理学部本館の応接室は、重苦しい空気が漂っていた。  紺野は指示されるままに、理学研究科長の向かいのソファに腰を下ろした。  正面には理学研究科長が座り、その両脇には、今回の調査を主導した反高坂派の教授が二名並んでいた。  中央のローテーブルを囲むように席が設けられていて、理学研究科長の右手側のテーブルの横辺には、懲戒委員会への協力教員として名目上招かれた、生命科学系の准教授である芹沢が腰掛けていた。実質的には反高坂派の補強要員のような立場だ。  高坂は芹沢の向かいにあたる末席に、腕を組んで座っていた。  研究科長が口元を引き結び、ぎこちない手つきで一通の封筒を差し出してきた。 「これが、懲戒委員会での結論です。戒告処分といたします。書面でご確認ください……」  研究科長はほんの僅かに言い淀み、視線を落とした。 「……なお、本件については、安全衛生委員会から『重大な管理上の不備とは認めがたい』との報告も上がっております。……ですが、記録上の処理手続きに一部不備があったことは、事実として確認されておりますので……今後はより一層の注意をお願いしたく……」  最後の語尾は、反高坂派と高坂の両方に言い訳するかのように、空気のように薄れていった。  高坂の白けた視線が、研究科長を射貫いた。  紺野は、その一瞬を見逃さなかった。  ――高坂先生は、安全衛生委員会の報告を盾に、処分に反対はしたようだな。先生なりに、一応庇おうとはしてくれた、ということらしい。  だとすると、高坂は彼らに押し切られたことになる。  かつての高坂は、その一瞥だけで場の空気を変え、その場を制してきた。その影響力に陰りが見えたということかと思うと、長年傍にいた紺野としては、物悲しさを感じずにはいられなかった。  とはいえ、感傷に浸っている場合ではなかった。  紺野は封筒を黙って受け取った。  封を切り、内容を一読する。事前に把握していた通りの文面だった。約4年前に、抗体試薬を1日早めに廃棄した記録があったことが、今回の処分理由だった。  ――あれだけ調べ上げて、これしか出なかったか……。  調査は1ヶ月弱の短い期間だったが、10人を超える調査担当者が投入された。まるでひとつの研究室を丸ごと解体するかのような勢いだった。研究費の使途、試薬の発注履歴、実験データ、研究ノート、薬品管理記録、冷凍庫のロック記録、学内Wi-Fiログなど、あらゆる記録が精査された。  その中で、処分の口実とされたのは、四年も前に記録された、一件の〝早すぎる廃棄処理〟だった。  当時修士課程二年だった紺野は、新たに届いた抗体試薬が冷蔵庫に入りきらず、当時指導を受けていた博士課程の先輩に相談した。「そのくらいなら、前日に捨てても問題ない」と言われ、紺野も深く考えずに指示に従い、一部を予定日より一日早く廃棄した。  確かに管理記録上は、廃棄日と使用期限が一致していない。  だが、現場ではよくある話だった。冷蔵庫の容量、スケジュールの都合、運用上の判断で、どの研究室でも黙認されてきた暗黙の了解で、処分対象になるような話ではなかった。  だが今回の調査は、〝学生との不適切な関係〟という噂を起点に始まった、明確な意図をもったものだった。  血まみれの学生が刃物を手に大学構内を歩き回り、車道に飛び出したという出来事は、大学にとってあまりにセンセーショナルだった。  早期の火消しを求める大学本部の意向を背景に、反高坂派の教員たちは、ここぞとばかりに奇妙な共闘体制を組み、大学側の圧力に迎合する形で、黙認されてきた薬品管理の慣習をあえて形式的に摘発し、処分に持ち込んだ。  何百という記録の中から、ようやく敵対勢力が見つけ出した唯一の〝瑕疵〟が、それだった。  逆に言えば、他には何一つ見つからなかったという証左でもあった。  皮肉なことに、紺野が本当に血液製剤を私的に使用していた時期――蘇芳にそれを渡していた頃には、一切の隙が生まれないよう徹底的に記録を整えていた。  結果として、最も規定を逸脱していた時期の記録ほど、整然としていた。 不正が一切なかったように見える時期と、処分理由となった記録の時期が逆であるということに、紺野は心の底から冷めた思いで文書を眺めた。  文書を封筒に戻しながら、紺野は静かに口を開いた。 「……戒告処分ですか。ありがたいですね」  室内の空気が、僅かに揺らいだ。研究科長がまばたきしたのが見えた。 「これで、誰がどこまで調べたか、正確に把握できましたから」  静かに放たれた言葉に、研究科長の眉が僅かに動いた。  研究科長の左右に座る二人の教授と、芹沢准教授が、同時に顔を上げた。  紺野は視線をゆっくり巡らせ、かれらの顔を見回した。  そして、わずかに目を細めて、芹沢を見たところで視線を止めた。  その瞬間、芹沢の顔色が変わった。芹沢に視線を止めたまま、紺野は続けた。 「今回の処分に関連して懲戒委員会に提出された調査資料ですが、その元となった各記録の参照・抽出の履歴は、全て手元にあります。誰がいつ、どの記録を閲覧し、どのルートで資料を集めたのか、照会経路も含めて、ご希望があれば、一覧をお渡ししましょうか」  部屋の空気が、凍りついた。  反対派の教員たちの顔には、動揺とも狼狽ともつかない、曖昧な色が浮かんでいた。  紺野の言葉の意味を、彼らは理解していた。「自分たちの手の内は、すべて見られていた」ということを。  理学研究科長も、動揺を隠しきれなかった。  眉間に浅くしわを寄せたまま、俯いて湯呑みに手を伸ばしたが、指先が震えて、湯呑みを持ち上げることができなかった。  研究科長は、あくまで形式上の管理責任者ではあるが、自分の知らないところで誰かが越権的な調査をしていたとすれば、その責任の一端は自分にも及ぶ。  紺野がすでに、それを把握している可能性があることに気づいたのだろう。  調査の実質的な舵取りを行ったのは、この場にいる反高坂派の二名だった。芹沢の動きに感化され、「何かあるはずだ」と思い込んで、躍起になって調査を進め、記録の隅をつつくような真似までした末に、ようやく引っ張り出せたのが、たった一件、しかも現場では黙認されてきた慣習レベルの処理だった。  そんな結果を引っ張り出すために、どれほど無茶な調査を敢行したか、そのおかげで、高坂研究室のメンバーや関係者の研究環境をどれほど乱したか。  芹沢が、突然口を開いた。 「ちょっと待ってくれ、それは誤解だ。私は……直接関わったわけじゃないし、そもそも、協力教員として中立な立場でここに……」  誰も問いかけていないのに、上擦った声で弁解し始めていた。 「……おたくの研究室の院生が勝手に動いただけで……。私が止めなかったのは、倫理的な問題を調べる意義があると……」  紺野は何も言わず、じっと芹沢の顔を見据えていた。  そこでようやく、芹沢は自分が誰にも追及されていないことに気づいたのか、言葉が途切れた。  静寂の中、誰かが息を飲んだ音が、やけに大きく響いた。  研究科長は色を失い、懲戒委員会を主導した教授2名は互いに目を見交わした後、芹沢を睨む。芹沢は置物のように硬直している。  そんな中、ただ一人、まったく表情を変えない人物がいた。  高坂教授だ。  彼は椅子に背を預けたまま、静かに腕を組んでいた。  紺野の発言を聞いても眉一つ動かさず、まるで事前にすべてを予測していたかのような沈黙を貫いた。  芹沢の弁明中、高坂は少しだけ、唇の端を持ち上げたようにも見えた。嘲るような、薄く冷たい笑みだった。  紺野は立ち上がると、軽く会釈した。 「それでは、これで失礼いたします」  誰ひとり口を開かない中、紺野は悠然とした足取りで応接室を後にした。  応接室のドアを開くと、盗み聞きしていたらしい院生が慌てて逃げていく姿が見えた。捕まえて問い質すこともできたが、あえて放置しておいた。  理学部本館の階段を下りる途中、背後から低い声で呼び止められた。 「……少し、時間はあるか?」  高坂だった。蘇芳の事故の翌日に海外研修を辞退する旨の報告をして以来、事務的な接触しかしていなかった。 「地下の書庫前にしよう。人が来ない」  高坂はそう言って、階段を先に下りていく。紺野もそれに続いた。  地下階は薄暗く、ほのかに紙とインクの匂いが漂っていた。ほとんど人が通らない場所で、資料室のシャッターは閉じられ、壁には古い掲示が色褪せたまま貼られていた。  その前で、高坂は立ち止まり、ようやく口を開いた。 「君の牽制に、連中、顔色を変えていたな。……あれで、だいぶ揺らいだ。君も、すでに照準を絞ったようだな」  ――やはり、気づかれたか。  紺野が芹沢への報復を目論んでいることに気づきながら、特に何も意見しない。黙認する、ということだろう。 「……事実を述べただけのつもりです」 「そうだな。だが、その〝事実〟が、どれほど効くかも、わかっていてやったんだろう?」  高坂は、まるで確認するように言うと、一歩、紺野に近づいた。 「……感謝はしていない」 「はい」  高坂に恩を売る気など、毛頭なかった。自分と院生たちの研究環境を守るために、できることをしただけだった。 「……君に泥を被せる形になったな」  高坂は紺野から視線を外して、小さく呟いた。 「研究が続けられれば、それで充分です」  その返答に、高坂は小さく笑った。 「……研究に関しては、本当に、抜け目がないな。……だが」  高坂は声を低くした。紺野を正面から見据えた。 「もう、蘇芳文弥とは手を切れ。……今回の件は、あれがきっかけだった」  二度目の忠告だった。高坂が最初の忠告を黙殺した相手に、再び忠告するのを、これまで見たことがなかった。 「噂だけで処分される時代だ。研究を続けたいなら、情に溺れるな」  高坂は、冷静な声で、現実を突きつけるような口調で言った。   紺野は高坂を見つめてから、視線を下げた。  「……ご忠告、ありがとうございます」  それだけ告げると、紺野は高坂に一礼し、踵を返した。  背中に強い視線を感じるものの、高坂がそれ以上、追ってくることはなかった。          *  紺野は、理学研究棟の一角にある自分の研究室へと向かっていた。  その途中、例によって談話室から声が漏れていた。 「……で、ほんとに戒告処分なんだってさ。学内メール、今朝回ってたよ」 「マジか……。戒告なんか、処分のうちにも入らないだろ。あれだけ大掛かりに調査してたから、てっきり、なんか不倫とか論文改ざんとか、もっとデカいネタかと思ってたけど」 「不倫って何だよ? 文学部のメンヘラ学生と恋仲だったとしても、不倫にはならねえだろ」  乾いた笑いが漏れた。 「いや、笑いごとじゃねえよ。その戒告の理由が〝抗体試薬を1日早く捨ててた〟って記録が、1件あったことだけらしいんだ」 「……は? それって俺もやったことある……てか、誰でもやってない?」 「だよな。冷蔵庫のスペースないとき、早めに処分とか普通にある」 「で、それで処分? おかしくね?」 「どう見ても、おかしいよ。この処分を決めた側だって、絶対やったことあることじゃん? 自分たちに跳ね返ってくるような処分、よく強行したよな」 「すごく大規模に調査してたから、引っ込みがつかなくなったとか?」 「あれだけ調べて、それしか出てこなかったってことだろ。……むしろ、そっちのほうが怖くね?」 「……ある意味、紺野先生、無敵だよな」 「無敵なんてもんじゃねえよ。すごかったぞ」 「何が?」 「本館の応接室で、懲戒処分の通知受け取ってたんだけど、その場で爆弾発言を炸裂させてた。『誰が、どこまで調べたか、正確に把握できました』って宣言しちゃってたよ」 「……マジ? アクセスログ、全部取ってるってこと?」 「多分……」 「うわ、終わったな……。あいつら」 「あと、なんか、芹沢が必死で言い訳してた」 「だっせーな」 「そういや、高坂先生は何してたの? 紺野先生の恩師じゃん? 止めなかったの?」 「いや、声しなかったから分からないけど、押し切られたんじゃね?」 「えー、あの高坂先生が?」 「高坂先生の研究室、最近論文数減ってるって聞いたよ。論文を順調に発表し続けてるのって、紺野先生だけじゃん。昔ほどの影響力ないんじゃね?」  しばらくざわついたあと、やや抑えた声で、別の院生が呟いた。 「なぁ、さっきの、紺野先生の爆弾発言だけど。……実は俺、調査のとき、例の記録整理手伝えって言われて、協力したんだ。いや、やりたくなかったけどさ、上に言われたら、仕方ないじゃん? ……大丈夫だよな? 不可抗力だし……」  途端に談話室の中が、静まり返った。  反高坂派の教員が、懲戒委員会に提出する資料作成のために、学生たちに記録の整理を手伝わせていたという話は、風の噂で聞いていた。  気まずい沈黙のあと、突き放すような、小馬鹿にするような声が聞こえた。 「……おまえ、詰んだな」 「えっ、ちょっと、やめてくれよ……」  狼狽しきった声が漏れた。 「いや、紺野のことだから、おまえみたいな小物、眼中にないって感じじゃね? まあでも、何かの気紛れで、いきなり潰されるかもな。チャタテムシを指先で潰す感じで」  別の院生が、茶化すような口調で口を挟んだ。  チャタテムシは、古本や湿った書類に発生しやすい1㎜ほどの微小昆虫で、研究室の書棚に長く放置された資料の間から現れることもあり、見覚えがある者は少なくない。  ――チャタテムシとは、言い得て妙だな。確かに、目障りでさえなければ〝チャタテムシ〟をざわざわ潰しにいくほど暇じゃないな。 「マジでやめてくれよ。こっちは真剣なんだよ」  怯えと怒りが入り混じった声が、悲鳴のように響いた。 「真剣も何も、高坂研って、紺野先生が管理し始めてから、異常にセキュリティが厳しくなったって話は、結構有名じゃん。それを分かって、手を出したんだから自業自得でしょ」 「だよなー。実は俺も声掛けられたんだけど、インフルに罹ったことにして、逃げ切ったもん」 「なんか、今年はえらくインフル流行ってんなー、って思ったら、おまえらが犯人かよ」  紺野は、そのまま静かにその場を離れた。  自身の個人研究室のドアを開け、閉めるまでの間も、談話室からの声はやまなかった。  研究室のドアを閉じ、ようやく静寂が訪れた。  紺野は無言で椅子に腰を下ろし、いつものように机の隅の小瓶に手を伸ばした。  蘇芳から贈られた、香水の小瓶だった。  何時の頃からか、この香水を微かに身に纏ってから、蘇芳の病室を訪れるのが習慣となっていた。  香水は、半分くらい残っていた。   この香水を使い切るまでに、目覚めて欲しい――そんな祈るような思いで、つけ始めたような気がする。  ――戒告処分か。  紺野は小瓶を指先で弄びながら、理学研究科長から渡された封筒を横目で見た。  自分が想像していた以上に、紺野は無感動にこの処分を受け止めた。   戒告処分は、処分の中では軽いほうだ。それでも、この記録は自身の経歴に消えない汚点として、確実に刻まれる。  だが、そもそも、紺野は研究用血液製剤を蘇芳に手渡していた。血液製剤の不適切な管理についてであれば、処分を受ける覚悟はできていた。それが明るみに出れば、戒告処分どころか、懲戒解雇となってもおかしくはなかった。  ――そうなっていたところで、おそらく後悔はしなかっただろう。  倒れかかった蘇芳を横抱きに抱き上げたあの時、蘇芳は紺野に無防備に自分を預けた。その時、紺野はあの無邪気な無防備さに、完全に呑まれた。  ――蘇芳君に触れた時点で、どこかで覚悟を決めていたんだろうな。  後悔していることといえば、眠る蘇芳を放って、実験室に行ったことと、車道に踏み出した蘇芳を止められなかったことくらいだった。

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