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実験がひと段落し、紺野は個人研究室に戻っていた。
蘇芳の事故から、2週間が経っていた。
大学では至る所で、紺野と蘇芳の関係を、面白おかしく揶揄するような噂が、まことしやかに囁かれていた。
予想していた展開とはいえ、自分のことはともかく、蘇芳の噂を耳にするたびに、蘇芳を侮辱されているような気がして、紺野は神経をすり減らしていた。
もっとも、これまでしつこいほど紺野に纏わりついて、不快の種を撒き散らしていた須藤が、近づいてこなくなったおかげで、実験が捗るようになり、それだけはありがたかった。
紺野は机に向かうと、パソコンを起動させ、高坂研究室の共有サーバーに接続した。研究室の共有フォルダの設定やアクセス制限の調整は、すべて紺野に一任されていた。
研究室内の共有フォルダは、ログイン記録と操作履歴が自動的に記録される設定になっている。
この2週間の間で、誰がどのファイルにアクセスしたのかを確認する必要があった。特に、1週間前から数日間続いた、血液製剤の管理記録へのアクセスについてだけは、徹底的に洗い流したかった。
血液製剤の管理記録が閲覧された痕跡に、最初に気づいたのは、3日ほど前だった。
理由もなく、あの記録にアクセスする者はいない。
――蘇芳君の性癖を知った誰かが、私が彼のために、血液製剤を横流しした可能性を考えている……。
蘇芳の性癖を知る人間は限られている。蘇芳本人が必死で隠そうとしていたのだから、本人から漏れた可能性は低いだろう。
――では、どこから漏れた?
アクセス権限は、基本的に高坂研究室のメンバーにしか与えられていないが、紺野が主導するプロジェクトに関わる他の研究室所属の学生や学外協力者にも制限付きながらもアクセス権限を与えている。
――須藤は、妙に蘇芳君を牽制していたが……。
単に紺野に取り入るのに、近くにいた蘇芳の存在が邪魔だったからだと思っていたが、今思えば、それだけではなかったのかもしれない。
――途中で勘付いたのかもしれない。私が蘇芳君に、研究用血液製剤を与えていたことを。
須藤は研究者としての能力は高くないが、場の空気を読むことや、人の懐に入ることに長け、本能的に危険を察知する能力も高かった。
とはいえ、不思議と須藤を疑う気は起きなかった。特に信用しているというわけではない。
ただ、いくら調子が良く、考えの浅い須藤であっても、研究用血液製剤の横流しの情報の重みが分からないほど愚鈍ではない。しかも、空気を読む力は鋭く、逃げ足は妙に速い。紺野の失脚を狙う勢力に、積極的に与したならともかく、彼らにうまく利用されて、血液製剤の管理記録にアクセスさせられるほど間抜けな男ではなかった。
――須藤でないとすると……。
もう一つ、思い当たる節があった。
今年の夏、湖西セミナーハウスで、蘇芳は化学研究会の合宿に参加したが、同じ日程で、動植物研究会も合宿を行っていた。
蘇芳が骨格標本作製用の犬の死骸から、血を飲もうとしていたことは、あの場に居合わせた動植物研究会のメンバー数人が目の当たりにしている。
蘇芳にはその場で謝罪させた。サークル長に口止めし、さらに現場に居合わせた者への口止めを依頼した。念のため、後日、紺野から彼ら全員に直接口止めもした。
だが、あの中に、紺野の失脚を狙う勢力と繋がりのある者がいたとしても、何の不思議もなかった。
キーボードに指を走らせ、操作履歴を一気に絞り込むと、予想通り、特定の人物の名前が並んでいた。
「……やはり、おまえか」
アクセスログに記録されたアカウントは、高坂研究室に所属する修士課程の院生のものだった。
だがこの院生の専門は動物行動学で、血液や試薬管理とは無縁のはずだ。にもかかわらず、彼は蘇芳の事故から1週間ほど経ってからの数日間、血液製剤の保存台帳や、管理記録のフォルダに繰り返しアクセスしていた。
誰かに頼まれてやった。あるいは、何かを調べさせられていたのだろう。
この院生は、動植物研究会の准メンバーだった。
そして、蘇芳が血を飲もうとした場に居合わせた動植物研究会のメンバーの一人である学部生と、親しくしていた。
情報が漏れたとすれば、そこからだろう。
そして、裏で糸を引いていたのは、このログに名を残した大学院生ではなく、その情報を利用しようとした誰かだ。
紺野はディスプレイを見つめたまま、無言で息を吐いた。
情報を得た者が、操作を仕掛けたのなら、報復すべき相手は、操り人形ではなく、その糸を引いた者だ。
――糸を引いているのは、誰か……。
操作ログの詳細モードを開き、一覧を眺めながら、紺野は一つ一つの記録に目を通していった。
フォルダを開いた直後に、複数のファイルを一気に読み込んだ記録があった。おそらく、コピーしたのだろう。
さらにその後、外部のクラウドサービスに接続した形跡も残っていた。
紺野は、送信先の共有設定を追い、ファイルの転送履歴に目を凝らした。
そこに記されていたのは、見覚えのある大学アカウントだった。
生命科学系の准教授の芦沢だった。
直接的な言動は慎ましく、高坂に対して露骨な攻撃には加わらないが、高坂派の影で冷遇されてきたと感じていること、その鬱屈を晴らす機会を虎視眈々と狙っていることには、察しがついていた。
紺野は、自分が芹沢に対して憎悪に近い怒りを感じていることに気づいた。芹沢が得たデータからは、何の不備も見つからないであろうことを確信しているにも拘わらず。
――蘇芳君の性癖を知って、利用しようとしたせいか。
蘇芳のことになると、感情がかき乱されてしまう自分に苦笑しつつも、やはり黙って見過ごす気にはなれなかった。
――芹沢をどう料理するか……。
軽率に動けば、こちらが足を掬われかねない。
紺野が目を伏せ、思考の刃を研ぎ澄ませていたその時、ノックの音が響いた。
――珍しいな。
紺野は顔を上げた。
以前からそれほど来客はなかったものの、この状況で好きこのんで紺野に近づこうとする者はいなかった。
「ちょっといいですか?」
紺野が返事をする前に、扉がゆっくりと開いた。
現れたのは須藤だった。手には、数枚綴じられた研究進捗報告書らしきファイルを持っている。紺野が何も言わないのに、勝手に部屋に入り込んでくるのは、いつものことだった。
「これ、報告書のドラフトです。提出予定の分なんですが、ちょっと気になるところがあって……」
紺野はすぐに、パソコン画面に視線を戻した。
「提出ボックスに入れておけば済む話だろ」
「そんな冷たいこと言わないでくださいよ。紺野先生に見てもらいたいんですって」
馴れ馴れしげに近寄ってくる厚かましさはいつものことだが、さすがに呆れた。
「……おまえ、頭は大丈夫か?」
空気を読むことには人一倍長けた男だった。そんな須藤は、真っ先に紺野から距離を置くと思っていた。
――いや、置けよ。
須藤まで、道連れにする気はなかった。
紺野の言葉を無視して、須藤は一方的に話しだした。
「俺、もっとこのプロジェクトに関わっていきたいんです。紺野先生の下で研究したいから……」
須藤は、いつになく真剣な表情をしていた。
紺野はそれには取り合わず、須藤からファイルを無言で受け取った。その場でページをざっと繰り、目を通した。
「三章、定量性が甘い。リン酸化比率を出すなら、最低でもFold changeは示せ。図表2のWB、帯が薄すぎて判断不能。ゲインを上げて撮り直せ」
ページをめくりながら続ける。
「それと、細胞系の由来、ロット、ATCC番号も記載しろ。同じ細胞でもロットが違えば性質は変わる。外部に出すなら出典の明示は必須だ。バッファーの表記、Tris bufferが〝Tris溶液〟に変わってる。表記を統一しろ」
須藤は驚いたようにまばたきをし、黙って頷いた。
「……二章の考察も見直せ。〝酵素活性が上がった〟と書いているが、ELISA一回分だけで主張するのは軽率だ。再現実験して、データを追加しろ」
紺野はファイルを閉じ、須藤に突き返した。
「この内容では出せない。出すつもりなら、指摘した箇所を全部修正してから再提出しろ。期限は金曜の正午までだ。この先もプロジェクトに関わりたいなら、報告書ひとつでつまずくな」
「……あ、はい……。あの、失礼かもですが……、健在ですね」
須藤は狼狽えながらファイルを受け取ると、ぺこりと頭を下げた。
「……ありがとうございます」
紺野は小さく頷くと、パソコンのモニターに視線を戻した。ローカルサーバーの管理画面を閉じると、パソコンの電源を落とした。
この大学では、教員の勤務形態について裁量労働制が採用されている。制度上、大学教員は勤務時間をある程度、自分で決められることになっている。だが現実には、日中に大学の外に出ると、奇異の目が向けられる。特に今の紺野のように、少しでも隙を見せれば揚げ足を取られる立場なら、なおさらだった。
それでも、この時間なら勤務を終えたと言って差し支えないだろう。
「え? もう帰るんですか? まだ6時過ぎ……」
須藤は途中で口を噤んだ。
一般的には勤務終了と言える時間だし、そもそも裁量労働制なので、とやかく言われる筋合いはない。だが、これまで紺野はこんな早い時間に退勤することは滅多になかった。
「……どこに行くんですか?」
行き先など分かっているだろうに、須藤はわざとらしく訊ねてくる。無視して帰り支度をしていると、須藤が呻くような声で話し始めた。
「今朝、分子遺伝学の准教授が、コソコソ話してるのを聞きました。……高坂先生と犬猿の仲の、あの人です。『文学部の学生と助教の不適切な関係が、ついに明るみに出た』って、妙に嬉しそうに言ってました。しかも、普段は目も合わせないような、険悪な間柄の連中に向かって、ですよ。親しげに肩を寄せ合って、笑い声まで聞こえました」
「そうか」
気のない返事をすると、須藤は声を荒らげた。
「先生が毎日、蘇芳君の見舞いに行くせいで、高坂先生を敵視してる連中が、共闘体制を組んじゃったじゃないですか!」
紺野が冷たく一瞥すると、須藤は一瞬怯んだが、それでも絞り出すような声で続けた。
「……普通だったら絶対に足並みなんか揃うわけがない連中なのに、先生が蘇芳君との関係を隠そうとしない様子を見て、これなら追い落とせるって、確信しちゃったんですよ」
須藤の口調には、紺野に対する非難が滲み出ていた。
普通だったら絶対に足並みなんか揃うわけがない連中――まさにその通りだった。
今回の一件で、明確な共通項もない、利害もばらばらな、学内外のいくつもの思惑が、奇妙な連帯を見せていることは、紺野も把握していた。
高坂研究室の実務を一手に担い、反対勢力の動きをことごとく封じてきた紺野が、今回の件で綻びを見せた。
これまで何を仕掛けても、巧みにかわされてきた彼らにとって、それは鬱憤を晴らすまたとない好機だろう。
高坂教授本人を正面から崩すのは難しい。ならば、その右腕を叩く。
動きを封じるには、まず手足から――理屈は単純だが、最も現実的で、おそらく痛快な一手だった。
紺野は、プリントアウトした資料をクリアファイルに収めながら、小さく息を吐いた。
そういうものだと知ってはいたから、今更驚くほどのことでもなかった。
「事故現場で救急要請して、病院に付き添ったあたりまでは、偶然かも、で済ませられたかもしれないけど、毎日見舞いに行ってたんじゃ、反対勢力にしてみれば、『あの学生とは特別な関係でした』って〝自白〟してるようなものですよ」
須藤の声には、苦々しさが滲んでいた。
「奴らは『学生との間に不適切な関係があった』って話を学内にばら撒いてるだけじゃない。……先生の、これまでの他の学生への接し方についても、あることないこと、触れ回っています。《贔屓の学生しか面倒を見ない》とか《追い詰められて潰された学生がいる》とか……」
かつて須藤にも「えこ贔屓、相当ひどいですよ」と言われた覚えがあった。
紺野自身、「酷薄」「冷淡」「傲慢」といったレッテルが自分に張りつけられていることを知っている。
それ自体は、誤解ではなかった。
紺野は、自身を教育者というよりは研究者であると認識していたし、誰彼構わず関心を向け、指導できるほど、器用な人間でもなかった。だから見込みがあると感じた学生にしか、時間も言葉も使わない。それが自分なりの線引きだった。
だが、その線引きの結果が、「人格」や「倫理」の問題にすり替えられ、悪意の色を帯びて拡散されていた。自然発生的なものではなく、明らかに《誰か》の意図によるものだった。
「……二日前に、理学研究科長から呼ばれてね。教職員倫理に関する検討会とやらに出席した。君が話してくれたことは、大体そこで出た内容と重なるよ」
紺野の言葉に被せるように、須藤が叫んだ。
「弁明されたんですよね? そうですよね? ねえ……」
紺野は口の端だけで笑った。
「したところで、大した意味はない」
須藤は泣き笑いのような顔で紺野を見つめたが、やがて俯き、唇を噛み締めた。
「……あいつら、もう次の段階に入ってますよ」
須藤が押し殺した声で、吐き捨てるように言った。
「水面下で、研究費の使い道とか、薬品の管理記録、研究ノートまで引っ掻き回して、とにかく〝落とす材料〟を探してます。〝倫理違反だけじゃなく、不正もあった〟って方向に持っていこうとしてるんです」
紺野も、その動きを把握していた。
まさに、今調べているのが、その動きについてだった。
学内システムのアクセスログを辿れば、誰が、いつ、どの記録に接触したかなど一目瞭然だ。血液製剤に関するデータは1週間前から、それ以外のデータも数日前から、断続的なアクセスが続いていた。研究費の会計資料、他の薬品の廃棄報告書、実験ノートの管理ファイル――通常なら閲覧されるはずのない過去の記録だ。
まず、蘇芳の性癖を嗅ぎつけた芹沢のグループが、血液製剤の管理記録を突破口にしようとして、不自然なアクセスを繰り返した。
その動きを察知した別の勢力が、〝何か不正が出たらしい〟と思い込み、研究費の使途や薬品の記録、さらには研究ノートまで洗い始めた、というところだろう。
すでに高坂研究室所属の学生や研究員等には、研究データを共有サーバーからオフラインに避難させるよう指示を出してはいるが、それでも彼らに動揺が走っていることは確かだった。
「……君たちの静謐な研究環境を乱して、申し訳ない」
須藤は苛立ったように首を横に振った。
「やめてください。そういうこと言ってるんじゃ、ないんです」
机の上を片付け終えた紺野は、立ち上がったものの、須藤を無視して帰るわけにもいかず、その場に佇んでいた。
「……あいつら、一体何を考えてるんでしょうか? そりゃ、確かに倫理違反だけじゃ弱すぎて、高坂先生の牙城を揺るがすなんて無理ですけど……。だからって、証拠も挙がってないのに“紺野先生に研究不正まであった”って噂を広め始めてるのは、もう異常ですよ。本気で紺野先生に研究不正なんてあると思ってるんですかね? 記録、データ、試薬の扱い……、どれをとっても厳密すぎるって有名なのに。なりふり構わず紺野先生の情報を引っ掻き回して、何も出てこなかったら、どうする気なのか……。もう、理屈じゃなくて、勢いで動いてるとしか思えません。訳が分からない」
「司令塔がいないからな」
「へ?」
「司令塔のいない集団は、暴徒と化しやすい」
「……冷静に分析してる場合じゃないですよ」
ふてふくされた声で、須藤が呟いた。
「紺野さん、……お願いします。今からでも遅くありません。しばらく、蘇芳君と距離を置いてください。彼、まだ意識が戻ってないんでしょ? だったら寂しがりはしませんよ」
紺野は目をわずかに細め、須藤を観察するように見た。
須藤から忠告を受けるとは、予想外だった。しかも、ふざけているわけでも、茶化しているわけでもなく、真剣そのものだった。
「……高坂先生も、多分怒ってますよ、紺野さんが毎日病院に通ってること。高坂先生って、誰もが自分の指示に従うのが当然だと思ってますよね? 高坂先生、最初の頃は、紺野さんと蘇芳君に個人的な関係は一切ない、って結構強気で説明してたはずです。紺野さんに、蘇芳君と縁を切るように指示済だったからじゃないですか? あの人、一見温厚そうに見えるけど、絶対違いますよね。……高坂先生の気質なら、紺野さんが誰よりもよく分かってますよね? 高坂先生の奥さんか、って揶揄されるくらい、高坂先生のこと知り尽くしてる、あなたなら……」
そこまで言って、須藤は口を噤んだ。言いにくそうに唇を噛んでから、掠れた声で続けた。
「高坂先生の庇護まで失ったら、もう逃げ場はありませんよ。敵に囲まれて狙い撃ちにされる紺野さんの姿なんか、見たくないんです」
須藤は床に視線を落として、苦渋に満ちた顔で呻くように呟いた。
この軽薄な男でも、こんな表情をできるのかと意外に思いながら、紺野はまじまじと見つめた。
「あいつら、最初は火のないところに煙を立てようとしただけだったんですよ。小学生のガキが、太陽光を虫眼鏡で集めて、紙をちょっと焦がしたくらいの話です。放っときゃ、すぐに消える程度の火……。それを今じゃ、ガソリンを撒き散らかして、マッチ擦りながら、祭りだって大騒ぎですよ!」
須藤は怒りを滲ませた大真面目な顔で、声を張り上げた。
あまりにも荒唐無稽な喩えは、ある意味、須藤らしかった。
だがガソリンは、気化した蒸気が先に燃える。撒いた直後にマッチで火を点ければ、真っ先に燃え上がるのは火をつけた本人だ。
皮肉なことに、須藤の喩えは状況の本質をよく言い当てていた。
紺野は空虚な笑みを浮かべた。
「……何笑ってんですか? 俺があなたを心配してるのが、そんなに可笑しいですか? いつも、そうだよ。全てお見通し、みたいな涼しい顔して、人を寄せ付けないんだ。そりゃ、俺の持ってきた情報なんて、あんたのことだから、既に掴んでたんだろうけど……。僭越な発言をして、申し訳ありませんでした、とでも言えばいいんですか?」
須藤は怒りというより、苛立ちとやるせなさが混じった声で捲くし立てた。
「……おまえとあの子が似てると思ったことはないが、すぐに癇癪を起こすところは、少し似てるかもな」
「……蘇芳君に、ですか?」
紺野は苦笑を浮かべただけで、答えなかった。
須藤は何か言いたげにしていたが、紺野は構わずコートを羽織った。ドアに向かおうとする紺野に、須藤はすれ違いざまに呟いた。
「……いや、解ってますよ。紺野さんのことは、俺が多分、誰よりも」
思わず振り向いた紺野に、須藤は諦念を帯びた笑みを浮かべた。須藤らしからぬ表情に、紺野は虚を突かれた。
「あなたは、蘇芳君を見捨てられない。俺を見捨てられなかったのと同じようにね」
須藤に部屋から出るよう、視線で促したが、まだ話し足りないのか、須藤はじっと佇んでした。
僅かに声を落として、須藤がゆっくりと告げた。
「蘇芳君が、意識を取り戻したら教えてください。俺、あの子に謝らなきゃいけないことがあるんです」
思いがけない言葉に、紺野は須藤に目を遣った。
「……何を?」
須藤は紺野と目が合うと、一瞬頬を緩ませたが、すぐに表情を引き締めた。
「例のスマホのことです。俺が学食でスマホ拾ったのは確かなんですが、……実は、置いて行った奴をちらと見たんです。見たことある奴だとは思ったんだけど、その時は特に気にしてませんでした。席取りのためにスマホをテーブルに置いただけだと思ってましたから」
須藤が、蘇芳のスマートフォンを学生食堂で拾った時の話だった。
「この前、実験室でそいつを見かけて、思い出しました。2年生の山田って奴ですよ」
「……山田徹か。蘇芳君と同じ高校出身だ」
蘇芳の数少ない友人の一人だった。顔まではよく覚えていないが、名前は何度か蘇芳から聞いていた。
「いきなり喧嘩腰で噛みつかれたから、つい応戦しちゃったけど、蘇芳君の主張はあながち間違ってなかったんだって、その時になって気づきました。多分、山田が蘇芳君の名を騙って、紺野さんに連絡を入れたんだと思います」
思いがけない事実を突き付けられ、紺野は狼狽えた。
――あのメールは、蘇芳君からのものではなかった……?
確かに、普段の蘇芳の文面とは異なり、芝居がかったような表現ではあった。だが「少しでも良心があるのなら」という言い回しに、紺野に対する、押し殺し続けた恨みが込められているような気がしたのは確かだ。
紺野は、自分の頭から血の気が引いていくのを感じた。悪寒が走り、背中から嫌な汗が滲み出ている。足許がふらついて立っていられず、ソファに座り込んだ。
「あの、差し支えなければですが……、そのメール、見せてもらえませんか?」
須藤が、恐る恐る訊ねてきた。
「蘇芳君からのメールは、もう全て削除した」
虚ろな声で、紺野は答えた。
「……証拠隠滅…のわけ、ないですよね……?」
紺野は苦笑いを浮かべただけで、答えなかった。そんな中途半端な証拠隠滅を謀るメリットがないことは、わざわざ説明しなくても須藤も察している。
紺野は、焦点の合わない目で虚空を見つめながら、抑揚のない口調で、記憶の底にこびりついた、できれば記憶から消し去りたい文章を諳んじた。
「《僕はもうあなたに会いたくはありません。もしあなたに少しでも良心があるのなら、金輪際僕と拘わらないでください。僕の望みはただそれだけです》」
「……え?」
始めは紺野が何を言っているのか理解できなかったらしく、須藤は目を見開いて、口を半開きにして紺野に見入っていた。途中でその言葉が、蘇芳から送られたメールの文章だと気づき、ばつが悪そうに咳払いした。
「いや、なかなか強烈な……。《良心》とか《金輪際》とか、古風というか、普段使う言葉じゃないですね。あ、でも彼、文学部か……」
首をひねりながらも、須藤は言葉を継いだ。
「理学部の奴が、文学部っぽい文章を書こうとしたら、こんな感じの文章になっちゃうかもしれませんねぇ」
須藤は、山田が書いた文章だと言いたいらしい。
「百歩譲って、蘇芳君が、紺野さんと距離を置きたいと本気で思ってたとしても、こんな失礼極まりない、へんてこな文章を送りつけるような度胸、ありますかねぇ?」
紺野の白い目に気づいたのか、咳ばらいをすると、ふざけた口調を少し改めて、続けた。
「だいたい、こんな失礼なメールを送りつけておいて、理学研究棟の下で紺野さんを待ってたって、おかしくないですか? 紺野さんは気づいてなかったと思いますけど、けっこう長時間待ってましたよ。多分、2時間くらい……。紺野さんが姿を見せた時のあの子の顔、覚えてます? スーパーの前で繋がれてる犬が、買物から戻ってきた飼い主を見つけた時みたいな顔してましたよ」
須藤の言い分は理解できるが、紺野が蘇芳を腕ずくで犯したことまでは知らないからこそできる、善意の解釈という可能性も払拭できなかった。
そんな迷いを感じ取ったのか、須藤は自信満々に言い切った。
「認めちゃったらどうです? 蘇芳君にベタ惚れなんでしょ? あなたが冷静さを失うのは、蘇芳君絡みの時だけですよ。こんな変な文章、普段のあなたなら、真っ先に送信者を疑いますよ」
軽口を叩くような口調で、冗談っぽく笑ってみせると、須藤は足早にドアに向かった。
「俺、そろそろ行きます。追加の実験しなきゃだし。金曜の午前中でしたね。絶対に間に合わせてみせますから」
手にしたファイルを掲げて見せてから、須藤は部屋から出て行った。
急に静けさが戻った室内で、紺野はしばらく放心していたが、やがてソファから立ち上がると部屋を後にした。
廊下を歩きながら、さきほどの須藤の言葉を反芻した。
あのメールの文章に、違和感を覚えなかったわけではなかった。ただ、本能がその意味を深く考えることを拒んだ。
――蘇芳君から恨まれていることを、直視したくなかったんだ……。
自分が恨まれて当然のことをしたという自覚はあった。だからこそ、目を逸らし、記憶の奥底に封じてしまいたかった。
――抜け殻でも、手元に縫い止めておきたいと思いながらも、本心では蘇芳君の心が戻ってきてくれることを切望していたわけか。
もしも須藤が推察するように、あのメールが蘇芳になりすました他の人物が送信したものとすると、少なくとも、あのメールに書かれていた内容は、蘇芳の意思とは一切関係がないことになる。
――だとすると……。
それを考えた瞬間、目の前が暗転していくような錯覚に陥った。
理学研究棟の前で、寒空の下、待ち続けていた蘇芳は、目の下にうっすらと隈を浮かべ、それでも懸命に笑い掛けようとしていた。
そんな蘇芳の手を振り払い、縋るような視線を痛いほど感じながら、背を向けて立ち去った。
紺野の研究室に入り込んできた時、切羽詰まった様子を感じながらも、蘇芳の言うことに、まともに取り合わなかった。
あの時の、蘇芳の震える声が、脳裏の奥から這い上がってくる。
――捨てていくなら、せめて壊してから行ってください。
偽のメール一通を本物と信じた自分の弱さが、どれほど蘇芳を追い詰めたのか。そのことに思い至った瞬間、胸の奥が軋むように痛んだ。
――蘇芳君の心を切望しながら、誰よりも深く、その心を踏み躙ってしまっていたのか……。
病室に向かうのが怖かった。
だがベッドの上の蘇芳は、紺野を拒絶することなく、無心に眠り続けていた。
意識が戻ってもいないのだから、拒絶できるはずがない。
そんなことは頭の中では解っていたが、それでも紺野は崩れるようにベッドの傍らの椅子に腰を下ろした。
「……蘇芳君」
そっと、左手を握った。
蘇芳は僅かに口角を上げたような気がしたが、おそらく紺野の気のせいだろう。
思えば、これまで蘇芳に触れる時、拒絶されるのが苦しくて、内心ビクビクしていた。
――今は……。
柔らかい頬を撫で上げたその時、巡回の看護師が現れた。紺野は立ち上がって目礼した。
「どうぞ、そのままで」
看護師は紺野に微笑みかけた。
検温など一通りの作業を済ますと、看護師は蘇芳を見つめながら呟いた。
「……本当はね、今週、大部屋に移すはずだったんですよ。でも主治医の先生が、目覚めた時に混乱する可能性があるから、なるべく静かな環境で、っておっしゃるので、今は病院の判断で個室になってます」
紺野は無言で軽く頭を下げた。自分が病院の判断に対して、感謝を伝えられる立場ではないことは、よく解っていた。
「……なぜ、まだ目を覚まさないのでしょうか?」
「脳の方は、全く異常がないので、おそらく、強いショックで気持ちが追いついていないんだと思います。こういうケース、結構あるんですよ。お若いから、ご自分のタイミングで、ちゃんと戻ってこられますよ」
看護師は、紺野を力づけようとするかのように笑ってみせた。
「紺野さんが来てくれると、なんだか蘇芳さん、嬉しそうなんですよ。他の看護師も言ってます。きっと紺野さんのこと、すごく信頼しているんですね」
紺野は思わず蘇芳から目を背けた。
――この子の心を、私が誰よりも深く踏み躙った……。
看護師の悪意のない言葉が、まるで錐のように紺野の胸に突き刺さった。
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