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高坂教授の研究室を退出した紺野は、廊下の窓に目を遣った。
窓の外では、雪がちらついていた。昨日から、雪が断続的に降り続いていた。
紺野が高坂研究室を訪れたのは、海外研修を辞退する旨を伝えるためだった。
高坂は理由を訊ねることなく静かに頷いた。昨日の騒ぎは、すでに校内で噂になっていた。紺野が説明するまでもなく、高坂は状況を把握していた。
紺野と向かい合っている間、高坂はほとんど言葉を発しなかった。だが、紺野が部屋を退出しようとしたその時になって、高坂は紺野の背中に向かって低い声で言葉を投げかけた。
『例の文学部の学生とは、今後一切拘わるな』
思わず振り向いた紺野に、高坂は続けた。
『彼とは既に距離を置いている、という事実があれば、それだけで、余計な憶測を防げる。今はまだ表立った動きはないが、火がつくのは時間の問題だ。その程度のことは、おまえなら解っているな?』
まるで、紺野がこの後病院に向かおうとしていることを、知っているかのような口ぶりだった。
紺野は一礼しただけで何も答えず、教授の研究室を退出した。
廊下を歩いていると、談話室から、院生たちの話し声が漏れていた。
談話室は、開放感を重視した構造になっている。廊下との仕切りには天井まで届かない腰壁が設けられ、外から中の様子は見えにくいが、話し声は容易に外まで漏れる造りだった。
特に耳を傾けようとしなくても、自然と耳に入ってくる。
「昨日、文学部の学生が刃物持って構内うろついてたって、マジ?」
紺野は無意識に、歩みを止めかけた。
「手首切ってたって話聞いたけど? 自殺?」
「大学構内で鉈を振り回した挙句、車道に飛び出したってやつだろ」
「えー、こわー。うちの大学で、そんな物騒な事件が起きるなんて……」
「いや、鉈は嘘だろ。ちっこいナイフらしいぞ」
「救急車のサイレンの音、すごかったな。現場は血の海だったって聞いたぜ」
紙コップを机に置く音がして、別の院生が低い声で言った。
「……で、その場にいたのが、紺野先生だったって」
一瞬、ざわめきがぴたりと止まった。だがすぐに軽薄な声が続いた。
「知ってる、知ってる! 現場見た友達が言ってた。救急車来るまでその学生を抱き締めて、ずっと呼び掛けてたって」
「え、あの紺野先生が? 見間違いじゃなくて? そんなキャラじゃないでしょ?」
「いや、それがガチなんだって。車が止まるのと、どっちが早いかって勢いで、その子に向かって飛び出していったんだって。なんか、救急車呼んだのも紺野先生みたいだし、その子の手首押さえて止血までしてたらしいよ」
「てか、なんで紺野先生が、文学部の学生にそこまで? 知り合いだったの?」
「……そういえば、文学部かは分かんないけど、よその学部の学生が、紺野先生の研究室の前をうろついてたの、見たことあるなー。線の細い、男の子。もしかして、その子だったりして」
「へー、そんなの、見たことないわ」
「偶然事故現場に居合わせたとしても、紺野先生ならスルーしてそうだから、よほどの知り合いだったのかもなぁ」
「だな。俺が紺野先生の前で事故っても、通報してもらえる気がしねぇ」
「てか、気づいてすら、もらえなさそう」
苦笑まじりの笑い声が漏れた。
今はまだ、それほど悪意のある憶測は表に出ていないようだ。
だが、〝文学部の学生〟と〝理学部の助教〟という不自然な組み合わせが、好奇の目に晒されるのは時間の問題だった。
不自然な関係は、スキャンダルに仕立てやすい。自然発生的に噂が育つかもしれないし、あるいは、誰かが意図的に火を点けるかもしれない。
――火がつくのは時間の問題だ。
高坂の言葉を反芻する。
この騒動を切り抜けるには、高坂の指示通り、蘇芳との関係を絶つことが最善の策であることは、紺野にも解っていた。
だが、不思議なほど迷いはなかった。
紺野はいつものように、背筋を伸ばし、廊下の先へと淡々と歩いていく。その足取りだけが、いつもより僅かに速かった。
自分の研究室に戻った紺野は、ドアを閉めたあと、ドアに凭れ掛かって、ぼんやりと室内を眺めた。
夕闇が迫る中、沈みゆく太陽の光が窓から差し込み、室内を静かに染めていた。
視線は、自然とソファのほうに向けられた。
――蘇芳君……。
昨日の今頃、目の前のソファの上に、蘇芳がいた。穏やかな寝息を立て、紺野が掛けたブランケットにうずまるようにして眠っていた。
今はただ、ソファの上に、ブランケットが乱れた状態のまま取り残されているだけだった。
昨日、このソファの上に蘇芳を組み敷き、眠る蘇芳を放置して実験室に向かった。そのことを思い起こすたびに、胸郭が圧搾されるような自責の念に襲われた。
蘇芳を組み敷いた時、蘇芳の目は、真っ直ぐ壁の方に向けられていた。
紺野の肩越しに、虚ろな眼で見ていた光景――。
紺野は、蘇芳の視線の先を追った。
そこには、いくつもの表彰状が整然と飾られていた。
国内外の科学賞、学会からの研究功績賞──いずれも、個人の研究に対する顕彰で、名誉あるものばかりだった。紺野が己の実力で勝ち取った、疑いようのない成果だった。
――栄光って言葉を聞いた時、紺野さんのことが思い浮かんだから……。
脳裏に、蘇芳の声が甦った。
蘇芳は紺野に沈丁花の香りの香水を贈った。紺野が香水をつける趣味のないことを知っている蘇芳は、沈丁花の花言葉が《栄光》だと説明し、その言葉から紺野を連想したという。
あの時は、化学研究会の連中に、何か吹き込まれたとくらいにしか思わなかった。
これまで何度も、他人から陰口を叩かれてきた。「鼻持ちならない」「自惚れている」「人を見下している」――大抵は、嫉妬混じりの中傷に過ぎなかった。
実力がなければ、手に入らない賞ばかりだ。嫉妬混じりの中傷になど、取り合う謂れはなかった。
だが蘇芳は、これらの表彰状を、死んだ魚のように濁った、虚ろな目で眺めていた。
――あの子まで、私をそんな目で見ていたのか……?
紺野はふらりと表彰状の一枚に近づき、額縁に映る己の顔を見た。疲れ果てた目をした男が、何も持たずにそこに立っていた。それは、自信や誇りの象徴ではなく、ただ空虚な飾りにすがる哀れな存在にしか見えなかった。
紺野は手を伸ばし、その表彰状を外した。額縁の重みを感じる間もなく、手近な段ボール箱に無造作に放り込んだ。二枚目、三枚目と、機械的に外していった。
気づけば、壁には何もなくなっていた。僅かに壁に残されているのは、四角い日焼けの痕だけだった。
紺野は虚ろな気持ちで、研究室を後にした。
向かう先は、蘇芳の入院している病院だった。行ったところで、蘇芳に会えるかは分からないが、それでも行かないという選択肢はなかった。
*
病院の受付ロビーは、昨日よりも少しだけ騒がしかった。夕刻の時間帯で、面会者が重なっているのだろう。
紺野は受付で簡単な手続きを済ませ、病棟へと向かった。
ナースステーションにいた看護師が、紺野に気づいて近づいてきた。
「昨日は、遅くまで、ありがとうございました」
「いえ。家族でもないのに長居して、申し訳ありませんでした」
昨日、紺野は救急搬送される蘇芳に付き添った。意識は戻っていないが、命に別状はないとは聞かされ、僅かに安堵を覚えたものの、身内の一人も来ない蘇芳を、ひとりにして帰る気にはなれなかった。
蘇芳の父が駆けつけたのは、日付が変わる頃だった。蘇芳の父の到着を見届けた紺野は、そっと病院を後にした。
いずれは謝罪しなければならない相手ではあったが、顔を合わせるだけの気力は残っていなかった。
看護師は周囲を見渡してから、やや声を落として続けた。
「検査結果は、一通り揃ってきています。頭部には外傷もなく、CTでの画像診断や脳波検査でも、今のところ異常は見つかっていません」
昨日も、同じような説明を聞かされた。車に撥ねられながらも、奇跡的に外傷はほぼなかったが、意識が戻らないという。
「……まだ意識は戻っていないということでしょうか?」
看護師は曖昧に頷いた。
「精神的なショックによる一時的な昏睡状態というのは、それほど珍しいことではありません。お若いし、きっと、すぐに目を覚まされますよ」
看護師は微笑んでみせた。だが、すぐに暗い表情を浮かべて、言葉を継いだ。
「……ただ、自傷行為のこともあるので、先生も、慎重に見ているところです」
言いにくそうに言葉を詰まらせた後、ちらりと紺野を見た。
「お会いになりますか?」
「……いいんですか?」
蘇芳は昨日から集中治療室にいた。
「ほんの数分だけ、様子をご覧になるだけでしたら」
「……お願いします」
看護師は紺野を案内しながら、話を続けた。
「基本的にはご家族だけなんですが、特別に主治医の許可が出ています。患者さんにとって、心理的に安定をもたらすということで」
その言葉に、紺野は思わず片頬を歪めた。
自傷行為の原因を作った張本人が、「心理的に安定をもたらす」相手だと認識されているとは、皮肉以外の何物でもなかった。
マスクと手袋を着用し、集中治療室の中に案内された。ガラス扉が開くと、わずかな機械音と、消毒薬の匂いがした。
機械に取り囲まれた白いベッドの上に、蘇芳がいた。
紺野は椅子を引いて腰を下ろすと、しばらくその横顔を見つめていた。顔色は、昨夜よりも少し良くなっているような気がした。目を閉じた顔には苦悶の色はなかったが、生気も感じられなかった。
「落ち着いています」と小さな声で、看護師から告げられた。
確かに、落ち着いた様子ではあったが、それは命に別状がないというだけの話だろう。
眠っているのではなく、目を閉じたまま、目覚めないという現実だけが、重たく横たわっていた。
紺野は、掛け布の隙間から、わずかに覗いていた左手に目を留めた。手首には、包帯が巻かれていた。
点滴のルートは反対側の腕に取られている。
紺野は静かに、そっとその手首の上に自分の指先を置いた。包帯越しに、温もりと、安定した脈動が伝わってきた。
紺野は安堵の吐息を漏らした。
昨日の夕方、紺野が握った時の手首は、氷のように冷たく、途切れがちな、弱々しい脈動しか感じられなかった。
だがあの時、咄嗟に押し当てたハンカチを瞬時に赤く染め上げた創傷は、幾筋もの縫合痕という形で、蘇芳の左手首に残っていた。白い包帯の下、医療用の細いナイロン糸で留められた傷跡が、かすかに膨れているのが分かる。
――蘇芳君……。
呼びかけても、返事があるはずもなかった。それでも、問いかけずにはいられなかった。
――どうして、こんなことになったんだ?
紺野との絶縁を望んだのは、蘇芳のほうだった。紺野は蘇芳の意向に沿ったつもりだった。それなのに紺野の行為は、蘇芳にとって望んでいたものとは異なっていたらしい。「捨てていくなら、壊してから行け」と迫ってきて、その挙句、自ら手首を切り裂いた。
紺野は小さく首を横に振った。
――分からない……。何が何だか、全く理解できない……。
分かろうとしてきたつもりだった。だが、おそらく紺野は何一つ解ってはいなかったのだ。
――ナイフを返すべきではなかった。目を離すべきではなかった。
そのことは、悔やんでも、悔やみきれないほど、後悔している。
――では、どうしていればよかったのか?
蘇芳の言葉の裏を、感情の奥を、何一つ読めていなかった自分に、その答えが見つけられるはずもなかった。
その時、蘇芳の指先が微かに揺れた。
「……蘇芳君?」
ほんのわずかな動きだったが、勘違いなどではなかった。
紺野は反射的に、掌ごと包み込むように、蘇芳の左手を握った。蘇芳の手は何の反応もないが、それでも紺野は、その手を握りしめた。
――いや、もう何でもいい。生きていてくれれば、もう一度目を覚ましてくれれば、それで……。
「……そろそろ、よろしいですか?」
看護師の声に、紺野は我に返った。
顔を上げると、看護師はモニター画面の表示に目を移していた。心電図や酸素濃度などを確認しているようだが、モニターに何か変化があったわけでなさそうだ。
――いや、違う……。
紺野が涙ぐんでいることに気づき、わざと視線を背けてくれたのだろう。
紺野は、蘇芳の左手から手を離すと、何事もなかったかのように立ち上がった。顔を上げ、名残を惜しむそぶりも見せず、集中治療室を後にした。
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