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 西の空が、血のように赤く染まっていた。  それなのに、灰色がかった雲の下からは、雪が舞い落ちていた。本降りではないが、風に乗ってちらほらと舞っている。  雪と血の入り混じったような空は、どこか現実味のない色彩だった。  蘇芳はふらふらと、理学研究棟を出た。地面には、僅かに雪が積もっていた。  小さな氷の塊を踏み締めながら、蘇芳は歩いた。  足が、痺れるような冷気に包まれた。  ――君の考えは、全く理解できないよ。  蘇芳の存在そのものを否定するような紺野の乾いた声が、脳裏に冷たく木霊した。  目の前が霞んで、靄がかかっていた。  ――解ってる。解ってるんだ。見捨てられた、ってことくらい…。  透徹した寒気が、ひしひしと胸に迫ってきた。コートの襟をかき寄せても、身を刺すような冷たさが、和らぐことはなかった。秋物のコートは、冬には薄すぎて、冷たい風が裏地の隙間をすり抜けた。  蘇芳は寒さに肩を竦めながら、歩き続けた。 「……紺野さん」  蘇芳は独り言のように呟いた。  自分がどこに向かって歩いているのか、蘇芳自身、分からなかった。  もはや、行く当てはなかった。  右手に握る、小さな折り畳み式ナイフが、異様に重たかった。  ――毎週金曜日の夕方、ここにおいで。血液バッグをあげるから。その代わり、リストカットは禁止だ。   紺野はそう言って、このナイフを蘇芳から取り上げた。悪戯っぽく笑った紺野の相貌を、今でもはっきりと思い描くことができた。  蘇芳は紺野との約束を、律儀に守り続けた。どんなに血が欲しくても、自らの身体に刃を向けることだけはしなかった。  ――それが、紺野さんとの約束だったから……。  目を覚ました時、部屋には紺野の姿はなく、代わりにこのナイフが、テーブルの上に置かれていた。  ――先に約束を破ったのは、僕の方だ。だけど……。   蘇芳は手にしたナイフを、じっと見つめた。  ――壊してほしいんだろう? このまま絞め続けたら、人間なんて簡単に壊れる。それが、君の望みなんだろう?  そう言って、紺野は蘇芳の首を絞めた。だが、紺野の指は、それほど強く絞めつけることなく、離れていってしまった。  ――僕が望んだのは、あなたに壊してもらうこと……。  だが、紺野は蘇芳を最後まで壊さず、蘇芳に自傷用のナイフを突き返した。  咽喉の奥から、笑いが込み上げてきた。 「『壊れたいなら、勝手に自分で壊せ』ってことですか。……確かに、あなたの手を煩わそうとするなんて、図々しいにも程がありますよね」  蘇芳は独りごちると、乾いた声で笑った。  コートの袖を汚さないよう、左袖だけ少し腕まくりしてから、蘇芳は左手首に冷たいナイフの刃を押し当てた。  迷いはなかった。  勢いよくナイフを引くと、皮膚が裂け、手首は黒みを帯びた赤色に染められた。   かつて蘇芳を魅了した血の匂いが、鼻を衝いた。  だが、今は啜りたいと思うどころか、鉄臭い匂いに、吐き気を催した。  それでも、蘇芳は自分の身体から溢れる血液を前に、歓喜に包まれた。まるで自分の命そのものが零れ出しているような、奇妙な錯覚に囚われた。  ――蘇芳色……。血の色だな。  いつだか、紺野がそんなことを呟いていた。  蘇芳色がどんな色なのか、正確には知らないが、やや暗めの赤色だと聞いたことがあった。今、自分の体内から溢れ出ている血は、まさに蘇芳色なのだろう。  ――ずっと、生きるのが、辛かった……。  思いきり刃を引いたつもりだったが、傷口は期待したよりもずっと浅かった。それでも薄手のセーターは血を吸いきれず、繊維をすり抜けた液が掌へと垂れ、足元の舗道に赤い雫を落としていた。  歩くたびに、脈打つように滲み出て地面に落ちる血に、蘇芳は僅かに満たされた。  ――紺野さんに護られて、少しだけ楽に生きられることを知って、こんな僕でも、生きていいんだって、無邪気に思ってしまった……。  思えば、紺野が蘇芳に手を差し伸べたのは、ほんの気紛れだったのだろう。実験動物への、気紛れな愛情と似たようなものかもしれない。  だが紺野なら、気紛れであろうと、一度引き取ったマウスは、その命が尽きるまで責任をもって面倒を見るに違いない。  ――だったら、僕はマウス以下か。  無性に笑いが込み上げてきた。脇腹が痛くなるほど笑ったのは、何年ぶりだろうか。  蘇芳はナイフを握り直し、もう一度手首に押し当て、さっきよりも勢いをつけて引いた。  再び鋭い痛みが走った。刃が皮膚を裂き、肉に食い込む感触をしっかりと感じた。さっきよりは、深く切れたような気がした。  その証拠に、指先から滴り落ちる血液の量が格段に増えた。その血は歩を進めるたびに、アスファルトの上に濃い飛沫を描いていった。  どこに向かっているのか、蘇芳自身にも分からなかった。それでも、足は止まらなかった。力尽きて倒れるまで、歩き続けるのだろう。  蘇芳は再び、ナイフを左手首に押し当てた。すっかり赤く染まったナイフの刃は少し頼りなかったが、それでも、角度を変えて切った。  何本もの赤黒い筋が手首を走り、もはや、どこに刃を当てればいいのか、分からなくなっていた。それでも、さらに一度、勢いに任せて、深く、速く切り裂いた。 「……こんなものじゃない。まだまだ……」  うわ言のように、勝手に口が動いた。  何度も何度も、蘇芳は自分の左手首にナイフの刃を押し当てては、引いた。  寒くて感覚が麻痺しているせいか、痛みは感じなかった。ただ溢れ出る血液の生温かさが、気持ち悪かった。  それでも、心臓の鼓動とともに血が押し出され、腕が痺れるように重たくなる感触は、どこか心地よかった。  蘇芳は、歩き続けた。徐々に足がもつれ、蛇行するようになったが、それでも歩き続けた。  遠くで、チャイムの音が鳴っている。最後の講義終了を告げる音だった。  振り向くと、遠くに理学研究棟が見えた。窓に灯る明かりが、滲んで見えた。涙のせいでは、決してなかった。ただ、世界がぼやけていた。  視線を下ろすと、不揃いの赤い点描がいびつに連なり、蛇のようにくねり、ゆらぎながら、舗道を染めていた。どこへ向かっているのかもわからない、壊れた軌跡は、蘇芳が生きてきた軌跡そのものだった。  蘇芳は、再び歩き始めた。  ナイフを手に握ったまま、蘇芳はふらふらと歩き続けた。  何度も刃を立てた左手首はもはや傷のない場所がないほど傷だらけで、左手は赤黒く染まっていた。  ――どれくらいの血が流れたら、人は死ぬんだろう?  激しく脈打つ感覚だけが、まだ自分が生きていることを示していた。           *  何度か転倒しそうになりながらも、なんとか歩いていると、ふいに、周囲の空気が変わったような気がした。  遠くから、ざわめき声が聞こえた。ぼんやりと、声のするほうに視線を遣ると、人だかりができていた。 「やばくない?」 「あれ……、血……?」  何人かが立ち止まり、スマートフォンを構える姿が見えた。  遠巻きの人影たちは、蘇芳をまるで見世物のように眺めていた。  ざわめきの中から、甲高い悲鳴が上がった。 「ナイフ……! 逃げて!」  叫び声とともに、逃げ出す足音が、ばらばらと石を弾いたように響いた。 「落ち着け、ナイフを離すんだ」  何を勘違いしているのか、蘇芳に対して、大声で呼びかける声もした。心配しなくても、このナイフは自傷用だ。他者を傷つける気など毛頭なかった。  野次馬たちのざわめきは、どこか現実感に欠け、まるでスクリーン越しに眺めているようだった。  耳鳴りがした。  世界がうっすら白んでいく。  眩暈がして、立っているのがやっとだった。  それでも蘇芳は、歩を進めた。止まってはいけない、なぜかそんな気がした。 「蘇芳君!」  聞き慣れた声が、蘇芳の頭蓋に響いた。その瞬間、心臓を鷲掴みにされるような衝撃が走った。本能的に、蘇芳は足の動きを止めた。  ――幻聴?  声のするほうに視線を向けた。  だが目が滲んで、白くぼやけた光景が広がっているだけだった。それでも、蘇芳は、必死で焦点を合わせようとした。なかなか思うように焦点が合わない。それでも諦められず、何度も瞬きしていると、ほんの一瞬、回りの制止を振り切り、人だかりの中から飛び出してきた紺野の姿を捉えた。  ――幻影……?  白くぼやけた世界の中で、蘇芳は頬に笑みを浮かべた。  ――そりゃ、そうだよな。紺野さんが、あんなに取り乱した姿、人前で晒すわけないじゃないか。   それでも、最後に逢いたかった人の声を聞けて、姿を見ることができて、蘇芳は嬉しかった。  蘇芳は再び、ふらりと一歩、前に出た。さらに、もう一歩。 「蘇芳君、動くな!」  これまで一度も聞いたことのない紺野の絶叫に、思わず足を止めたその時、ヘッドライトが照らされた。蘇芳は眩しい光に目を眇めた。耳を劈くような急ブレーキの音が、静寂の中、響き渡った。  ――ああ、ここは、正門の傍の構内道路……。夕方には、搬入車が頻繁に出入りしてるんだっけ。  どうでもいい情報が、頭に浮かんだ。  全身に激しい衝撃が走ったと思った次の瞬間、夜空が目に映った。いつの間にか雪は止み、冴え渡った夜空に、大きな月が光っていた。  体がゆっくりと宙を舞った。  妙に懐かしい感触だった。  ――ああ、そうだ……。あの時……。  思い出したのは、教室の隅で、ふわりと抱き上げられた時の感触だった。  ――紺野さん。  恐る恐る見上げると、紺野の怜悧な横顔が見えた。  凛とした眼差しに、なぜか安心感を覚えた。  思わず紺野の胸に頬を寄せた。温かい感触に、安らぎを感じた。あの時、とても幸せだった。  蘇芳は小さく微笑んだ。  ――僕は、あなたの人形になりたかった……。

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