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 背中に回されていた腕の力が弱まったと思えば、突然、蘇芳の身体がずっしりと重たくなった。  蘇芳は糸が切れたように、ぐったりと横たわっていた。目を閉じたまま、動かない。 「蘇芳君……?」  紺野は恐る恐る、口元に手を近づけた。掌に、湿った吐息がかかった。 胸のあたりに目をやると、規則的に上下を繰り返している。  気を失っただけだった。  紺野はふらりと立ち上がると、デスクの上に置いていたペットボトルを手に取った。ゆっくりとキャップを回し、水を口に含む。  冷たい液体が喉を下りていく感覚に、ようやく昂っていた意識が現実に引き戻された。  途端に、安堵と自己嫌悪が同時に押し寄せてきた。  ――何をしているんだ、私は。  蘇芳が縋りついてきた時の表情が、脳裏に焼き付いていた。  ――抱いてほしいです。僕を壊せるのは、あなただけです。  虚勢を張るように、顔だけは真っ直ぐに紺野のほうに向けて、だが目は怯えるように、祈るように、視線を彷徨わせていた。  ――あんな表情で、あんな風に求められたからといって……。  紺野はそこまで思ってから、小さく首を横に振った。  ――そうじゃない。求められたのを言い訳に、劣情に呑まれただけだ。  紺野はデスクの傍らに佇んだまま、ソファに目を遣った。  蘇芳は起きる気配もなく、ソファに横たわったままだった。  ――大島美鶴……。  おそらく彼女に突き放されて、戻ってきた。あれほど怖れ、軽蔑していた自分の許に。  そこまで追い込まれるにいたるほど、蘇芳をひどく傷つけたのかと思うと、大島美鶴への怒りが込み上げてきた。  ――こんなことなら、手放さなければよかった……。無理やりでも、束縛し続けるんだった。  だが、それが蘇芳の望むところではないことも、解ってはいた。  ――大島美鶴の血に欲情したこの子は、死んだ犬の血にも、血液製剤にも反応したが、私の血だけは拒んだ……。  喉の奥から、引き攣った笑いが漏れた。 「素直すぎるよ、君は……」  それほどまでに強く紺野を拒絶したにも拘わらず、結局蘇芳は、紺野のもとに舞い戻ってきた。自分が傷つくためだけに。  ――捨てていくなら、せめて壊してから行ってください。  捨てていきたいわけでも、壊したいわけでもなかった。何をどう誤解したら、あんな言葉が出てくるのか。  ――抱いてほしいです。僕を壊せるのは、あなただけです。  紺野の劣情に火をつけたその言葉も、思えば痛烈な告白だった。言い換えれば《僕はあなたに抱かれるたびに、壊されてきた》ということだろう。  弁明のしようがなかった。  最初に抱いた時、抵抗する蘇芳の顔面を何度も叩いた。手首を縛め、抵抗を封じた。  その後、蘇芳は一切の抵抗をしなくなった。怯えるような、生気を欠いた目で紺野の顔色を窺い、紺野のなすがままになった。蘇芳が紺野に抱かれることを心底嫌悪していたことくらい、紺野もよく解っていた。蘇芳が紺野を求めてくれたことなど、一度たりともあろうはずがなかった。  だからこそ紺野は、蘇芳の「抱いてほしい」という言葉に縋らずにはいられなかった。  今だけは、蘇芳自身の意思で、紺野を受け入れてくれる――差し出してくれたその身体に、貪るように触れたい、彼の身体を貫きたいと、強く思ってしまった。  蘇芳のほうから望んだという事実だけを、言い訳にして。  紺野はゆっくりと歩を進め、ソファに近づいた。ソファの上の蘇芳は、下半身を晒したまま、膝を抱えるようにして眠っていた。丸めた身体は小さく、どこか頼りなげで、触れたら崩れてしまいそうだった。  紺野は恐る恐る手を伸ばし、蘇芳の身体を簡単に拭い、着衣を整え、肩からブランケットを掛けた。  よほど疲れているのか、かなり触れたにも拘わらず、蘇芳が目を覚ます気配はなかった。  紺野は息を潜めるようにして、そっとその横に腰を下ろした。  蘇芳の頭の近く、背もたれの隙間に片手を差し入れ、もう片方の手で蘇芳の肩を支えながら、静かにその体を引き寄せた。  蘇芳の頭が、自分の膝の上にそっと収まる。  目を覚ます気配は、やはりない。  ただ、今はこの静けさを壊したくなかった。それだけを思って、紺野は身じろぎもせず、じっと座っていた。  蘇芳が、ゆっくりと身を寄せてきた。蘇芳の頬が、腿の内側にかすかに触れた。  無意識の動きだと分かっていても、一瞬、呼吸が止まった。  蘇芳の頬が掠めたのは、腿の付け根に近いあたりだった。  緊張するな、と言い聞かせるより早く、体の奥がぎくりと反応していた。  ――眠っている相手に、何を動揺しているのか。  紺野は自分の動揺ぶりに、苦笑を漏らした。  そんな紺野をよそに、蘇芳は安心しきった様子で眠っていた。  何の警戒も、恐れもなく、まるで、信じている人間の腕の中にいるような表情だった。  散々身体を弄び、心身ともに痛めつけた相手に取り縋るようにして眠る姿に、紺野の胸が軋んだ。  ――それでも、目を覚ますまでは、傍にいられる……。  そう思った時、ようやく紺野の緊張が解けた。  紺野は、蘇芳の頬に手を伸ばし、蘇芳の頬に触れるか触れないか、微かに肌に触れるくらいの距離で、ゆっくり撫で上げた。  仄かな温もりを感じた。  ――温かい……。  何度も、何度も、丁寧に撫で続けた。  蘇芳の手が、何かを探すように動いた。紺野は蘇芳の頬を撫でる手を止め、じっと蘇芳の手の動きを目で追った。その手は、自分の頬に置かれた紺野の手を捕らえた。紺野の手の甲を指先で撫でながら、安堵したような様子で、蘇芳が小さく呟いた。 「……母さん……」  紺野はまじまじと、蘇芳を見つめた。  蘇芳は目を閉じたまま、淡い笑みを浮かべている。  どうやら寝言らしい。  蘇芳の母親は、彼が物心つく前に、乳癌で亡くなったと聞いている。  紺野は暫く呆然としていたが、やがて溜息まじりに頷いた。  ――そういうことだったんだな。……いや、本当は、前から薄々気づいてはいたが……。  紺野がどれだけ蘇芳に恋心を寄せようと、決して蘇芳の心が紺野に向くことはない。  蘇芳はかつて、血を呑むと性的な興奮を覚えることを仄めかした。だが、思い違いではないだろうか。  ――この子が本当に欲しいのは血じゃない。母乳だ。  母乳は血液から造られる。成分はおおよそ同じといえる。もっとも、母乳にはヘモグロビンが含まれないため、赤くはない。だが、乳癌を患っている場合、母乳に血が混ざることが多いという。蘇芳の記憶の奥底に刻み込まれているのは、血液が混入した母乳の味なのだろう。  どんなに足掻いても、紺野には、母親の代わりは務まらないだろう。  だからこそ、蘇芳は紺野ではなく大島美鶴に、救いを求めた。  ――だとすれば、確かにこの子の選択は、間違っていない。  紺野はジャケットの内ポケットから、小さな折り畳み式ナイフを取り出した。  高校生だった蘇芳が、自傷用に持ち歩いていたナイフだった。血液製剤を提供する代わりに、このナイフを取り上げた。  いつか折を見て、返さなければならないと思っていた。  ――君のお母様の形見と言っていたな。  思いつきで言ったような口ぶりではあったが、完全な出まかせでもなさそうだった。  ナイフを蘇芳の掌の上に置いてみると、彼は大切そうにそっと握り締めた。 「……そんな大事な物を取り上げて、悪かったな」  柔らかい、少し茶色がかった髪を撫で上げながら、紺野が小さく呟いた。 今更だが、決して須藤の身代わりなどではなかった。  最初こそ、遠目からみた姿が須藤に似ていることに動揺した。  だが、紺野が愛しいと思い、報われない思いと悟りながらも片思いをし続けた相手は、紛れもなく蘇芳文弥ただひとりだった。  紺野は屈みこみ、膝の上で眠る蘇芳の額にそっと顔を近づけた。唇が一瞬、かすかに蘇芳の額に触れた。 「……幸せになれよ」  思わず口をついて出た言葉に、紺野自身が驚きと戸惑いを覚えた。  誰かの幸せを祈ったことなど、これまでなかった。それほど深く関わりを持った相手がいなかったせいか、それとも、紺野自身がそれらに無頓着だったせいか。 〝祈り〟も〝幸福〟も、紺野から縁遠かった。  祈ったところで、現実は何も変わらない。  幸福など、定義すらない、実体のない言葉遊びにすぎない。現実を直視できない人間が好んで口にする、夢想のようなものだと思っていた。  ――それでも、今だけは祈らせてほしい。  蘇芳を追い込み、壊し続けた張本人が、彼の幸福を祈るのは、ある意味滑稽だった。祈る資格すら、ないだろう。  ――それでも、今だけは……。  こんな風な歪な関係しか持てない相手ではなく、対等の関係で、共に支え合いながら歩んでいける相手に、早く巡り会えることを、ただ祈った。  紺野の祈りをよそに、相変わらず蘇芳は穏やかな表情で規則的な寝息を立てている。  頬を撫でると、くすぐったかったのか、無邪気な笑みが漏れた。   ――これを、〝幸福〟というのか?   ふいに、子供の頃に見た河原を思い出した。  川底に沈んだ小石が、水面の揺れに紛れて、一瞬ほのかな光を返した。その光に目を奪われ、光った小石を掬い上げた。だが、そこにあるのはただの石ころに過ぎない。乾けば、どこにでもある無名の破片に戻る。  あの時に見た、ほのかな、一瞬の幻の光のようなものを〝幸福〟というなら、確かに今、紺野は〝幸福〟だった。幻の光が今、自分の指先に、温度として触れている。  そのぬくもりが、偽りでも、錯覚でも、虚構であってもよかった。  ――今はただ、君の傍で、君の幸福を祈っていたい。  上を目指すことだけを考えて生きてきた。  論文の一本、実績の一つが、自分の価値を証明するものだと信じていた。  それなのに、今は、この小さな静寂のほうが、はるかに重たく、愛おしく感じられた。  だが、蘇芳の温もりを感じることができるのは、これが最後だった。  ――この子が、目覚めるまで……。         *  そんな束の間の幸福は、スマートフォンの振動音によりかき消された。紺野は極力身体を動かさないように注意しながら、ジャケットの内ポケットからスマートフォンを取り出した。  須藤からの電話だった。  蘇芳は、紺野の膝で穏やかな寝息を立てている。眠っているのか、気を失っているのか分からないが、少なくとも、多少の話し声で起きるような様子ではなかった。  紺野は蘇芳の掌の上にあるナイフをテーブルの上に置くと、立ち上がり、その場で通話をつないだ。 「……どうした?」 『紺野さん、どうしましょう? 冷却装置の温度が上がってて、アラームが止まらないんです。マニュアル通りにやっても……』  須藤の焦った声が、アラーム音と、数人が言い争うような声とともに聞こえた。かなり混乱している様子が窺えた。 「通電は? 再起動はかけたか?」 『一回やったんですけど、初期化後にまた異常値が出て……。冷却水の流量も確認しましたけど、正常値なんです。このまま止まったら、サンプルが全滅で……、数週間分の実験が全部無駄になってしまうんです。もう、どうしたらいいのか……』  ここまでの報告で、学生に任せてどうにかできる範囲は超えていると分かった。  センサー異常なら、院生はもちろん、機械に詳しくない教員でも判断できない。制御系の不具合であればなおさら、モニタリングのログや内部を直接見なければ判断は下せない。  紺野は短く息を吐いた。 「分かった。すぐに行く。何も触らずに、そのまま待っていろ」  電話を切った後、一瞬足を止め、ソファに目を遣った。  蘇芳は、うずくまるように身を丸めたまま、目を閉じていた。蘇芳の肩がかすかに上下していた。  もう少し、ここに留まりたい気持ちもあった。だが、冷却装置のトラブルを放置するわけにはいかなかった。  机の隅に、埃をかぶったまま置かれていた小瓶に目が留まった。  かつて、蘇芳に贈られた香水だった。香水をつける趣味はなかったが、贈られたことが嬉しくて、ほんのわずかに身にまとっていた。  蘇芳を無理やり抱いた日を境に、一度も使っていなかった。使う理由もなかった。  だが今は、何かを残していきたいと思った。  眠る彼を置いて立ち去ることに、わずかな罪悪感と、焦燥にも似た思いが絡まっていた。  紺野は瓶のキャップを外し、かつてと同じように、空中に一吹きし、その霧の中を通って、部屋を後にした。  紺野は足早に実験室に向かった。ほんの数分、必要な指示だけ出したら、またすぐに蘇芳の許に戻ってくるつもりだった。  実験室の前室で、白衣を纏いながらガラス越しに実験スペースを覗くと、冷却装置の前に、数人の学生が集まっていた。まるで祈るような姿勢で、誰も手を出さず、深刻そうな顔で装置を見つめていた。  実験スペースの扉を引いた瞬間、甲高い警告音が耳を劈いた。  冷却装置を囲うように立っていた数名の学生たちが一斉に動きを止めた。彼らはおずおずと後ろに下がった。須藤はモニターの前に突っ立ったまま、何か言い訳のようなことを口走っている。  紺野は無言のまま、冷却装置の前に歩み寄った。  実験台の隅に備え付けられている箱の中から使い捨て手袋を一枚取り出し、左手に嵌めた。  本来は薬品や試料のためのものだが、素手で触るよりは安全だ。それに今日は、左手の傷を隠せることがありがたかった。  表示パネルを一瞥する。  数値の揺らぎ方が、センサーの誤作動ではなく制御系の不安定さを示していた。  紺野は操作キーを叩き、モニタリングログを呼び出した。迷いなくスクロールし、異常値の出所を切り分ける。 「……センサーじゃない。給電系統だな」  誰に説明するでもない独り言だが、その一言で場の空気が張り詰めた。  確かめるには内部を見るしかなかった。紺野はそのまま制御ボックスに手を掛けた。  左手で配線を押さえ、右手で端子を探った。 「……端子が浮いている。こんな雑な造りで、よく今まで動いていたな」  思わず漏らした吐き捨てるような声に、院生たちが息を呑んだ。遠巻きに、まるで触れてはならないものを見つめるような空気が流れていた。  端子を締め直した瞬間、警告音が途絶えた。装置が低い唸りを取り戻し、赤い警告灯が消えた。 「……すみませんでした」  沈黙の中で、須藤が小さく頭を下げた。 「いや、今回の判断は正しかった」  紺野は冷淡に切り返し、工具を戻した。 「異常が出たら即座に報告しろ。それだけがおまえたちの仕事だ」 「……あ、はい!」  須藤は返事をしながらも、他の学生たちを横目で見ながら、小さく顎を引いた。自分が呼んだから紺野が来たんだ、とでも言いたげな得意げな仕草だった。  そんな須藤を尻目に、紺野は足早に実験スペースを後にした。  白衣を脱ぎながら、何気なく窓に目を遣った。  窓の全面が、夕陽で真っ赤に染まっていた。真っ赤というよりは、どす黒いと形容したほうがいいくらいの、濃い赤色だった。ちぎれた雲が、炎のようにたなびいている。  あまりの不気味さに、紺野は胸の奥をざわつかせた。  ふいに、蘇芳の姿が脳裏に浮かんだ。  ――あれから、何分経った? おとなしく寝ていてくれたらいいが……。  紺野は実験室を飛び出し、廊下を駆けるように戻り、研究室の扉を勢いよく開けた。  だが、部屋の中には誰もいなかった。  ソファには、ブランケットが乱れた形のまま無造作に置かれていた。テーブルの上に置いたはずの、折りたたみ式ナイフは、消えていた。  紺野は一瞬、動けなかった。  その意味に気づいたとき、心臓が一瞬止まった気がした。  次の瞬間、紺野は研究室を飛び出していた。  廊下を駆け抜ける足音だけが、冬の研究棟に響いた。

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