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紺野が腰を浮かせかけたのを見て取った蘇芳は、慌てて立ち上がった。わずかに揺らぐ足取りで、テーブルの横をすり抜け、紺野の足許に膝をついた。
顔を伏せていても、頭上から降り注ぐ、紺野の鋭い視線を痛いほど感じた。蘇芳は床に手をついたまま、紺野の足元を食い入るように見つめた。
一見、何の変哲もない黒い革靴だが、近くで見ると、素材の滑らかさと、縫製の精緻さが際立っていた。
無駄のないフォルム。飾り気のない美しさ。
――この人そのものだ。
ゆっくりと顔を革靴に近づけていった。頬が、革靴に軽く触れた。硬質な表面と、ほのかに残る外気の冷たさ。革の匂いが、鼻の奥に染み込んでくる。
気づけば、しっとりとした艶やかな革に、自分の頬を摺り寄せていた。頬に伝わる感触は、ひんやりとして、滑らかだった。
蘇芳自身、何をしているのか、もはや、分からなかった。ただ、そうするしかない気がした。
床に這いつくばるような姿勢で、小さく懇願した。
「……紺野さん、お願いです……」
返事はなかった。
それでも、革靴越しに、紺野の呼吸がわずかに変わるのを、蘇芳は感じ取っていた。
それだけで、充分だった。紺野は今、蘇芳を受け入れるか拒絶するか、逡巡している。つまり、今は拒絶されていない。
やがて足蹴にされ、部屋を追い出されるかもしれない。それでも、ほんの僅かな時間でも、紺野が蘇芳を拒絶しないでいてくれるなら、ここまで押しかけた甲斐があったというものだ。
足許の革靴がわずかに動いたと思った次の瞬間、髪を掴まれ、強い力で引き上げられた。
抵抗する隙もなく、頭を無理やり持ち上げられた。
見上げた先には、紺野の能面のような表情があった。その無機質な表情からは、何の感情も読み取れなかった。憐憫なのか、支配欲なのか、それとも全く異なる感情なのか、何らかの強い意志が、その瞳の奥底に鈍く光っていた。
その眼光に圧迫されて、蘇芳はひどく息苦しさを覚えた。呼吸すら、ままならなかった。
紺野の腕が、伸びてきた。その掌が一瞬、蘇芳の頬を撫でた。だがそのままゆっくりと下りていき、蘇芳の首筋で止まった。
「……何をするんですか?」
思いも寄らない展開に狼狽しつつ、上攣った声で問い掛けた。
「壊してほしいんだろう? このまま絞め続けたら、人間なんて簡単に壊れる。それが、君の望みなんだろう?」
その言葉の奥には、僅かに、蘇芳が否定するのを期待するような響きがあった。だが蘇芳は挑発するように、目を見開いて真っ直ぐに紺野を見つめた。否定など、する気はなかった。
「お願いします」
言い終えないうちに、喉元に指が添えられた。そのまま、ぐっと絞られる。
それほど強い力ではなかった。
それでも、喉の奥が圧迫され、空気が細く途切れる。呼吸量が減ったせいか頭がクラクラする。それを苦痛と感じる前に、蘇芳は安堵していた。
――まだ見捨てられていない……。いや、これが終われば、間違いなく捨てられる。だったら……。
今、ここで絞め殺されてしまいたいという願望が、脳裏を掠めた。
「苦しいか? 望んだのは、君のほうだ」
囁くような声には、情の欠片も感じられなかった。だが、その無機質な声が、逆に蘇芳を震わせた。
――この手に……、この人に、命を預けている……。
咽喉を圧迫する指は、蘇芳の呼吸を封じるほどの力ではない。それでも、紺野に生殺与奪を握られていると思うだけで、蘇芳の胸が高鳴った。
鼓動が喉元までせり上がって、どくん、と跳ねるたびに、息が詰まりそうになる。
呼吸の仕方すら忘れてしまいそうだった。
それでいて、自分を見下ろす紺野から、視線を逸らせなかった。
冷たいはずのその瞳が、今だけは、自分に向けて熱を帯びているように思えた。それが蘇芳の願望であったとしても、その願望に縋りたかった。
蘇芳は、瞬きすら忘れて紺野を見上げていた。
だが、紺野の視線がふっと逸れ、同時に手が蘇芳の首筋から離れた。
――え? どうして?
蘇芳は反射的に、首筋に残った熱に手をやった。
――やっぱり、僕を見捨てるのか……?
そんな不安が胸に広がるよりも早く、紺野が体を屈め、蘇芳の腕を掴んだ。
紺野は強い力で蘇芳の身体を引き上げると、殊更に荒々しい仕草で蘇芳の体をソファの上に押し倒した。
背がクッションに沈み、重力と支配が同時にのしかかる。
紺野の膝がソファに食い込み、逃げ場を塞いだ。もっとも、蘇芳は逃げる気などなかった。
首筋に残る、紺野の指の感触と熱の余韻に浸りながら、蘇芳は紺野を見つめた。
見下ろしてくる紺野と、互いの視線が交錯した瞬間、蘇芳は息を呑んだ。
紺野の目が、見たこともない色をしていた。
いつもの理知的な、冷徹な眼差しは影を潜め、獲物を前にした猛禽のように血走った目で蘇芳を凝視していた。
肌が粟立ち、体が強張った。
――怖い……。
一瞬、そう感じた。本能が警鐘を鳴らしているのかもしれない。
だが蘇芳はその本能を、即座に否定した。
今、まさに《壊される》のだと本能が察したとすれば、それは蘇芳の望むところだった。
もともと、紺野に捨てられたら、もう蘇芳には何も残らなかった。どうせもぬけの殻となるなら、殻ごと叩き壊してくれたほうが、ありがたかった。
紺野は蘇芳の上半身には目もくれず、ズボンを下着ごと引き下ろした。太腿を伝って足元までするりと抜け落ちていく感覚に、思わず息を呑んだ。足元にかろうじて残ったのは、くるぶしまでずり落ちた靴下だけだった。
自分が今、どれだけ無防備な姿を晒しているのか、肌に直に触れる冷たい空気が静かに教えてきた。
紺野の指が、臀部の狭間をなぞらえたかと思うと、無造作に体内に突き入れられていた。性急に捻じ込まれた指は、体内を掻き回し、蹂躙する。
指で襞を擦り上げられるたびに、襞が燃えるように熱くなる。
「……紺野さん」
小さく、名を呼んだ。
応える声はなかった。だが、蘇芳の体をまさぐる指の動きは止まらなかった。それが、答えだった。
拒絶されていない――それだけで、蘇芳は胸が熱くなった。
過去の痛みも、拒絶された記憶も、誰にも受け止められなかった渇きも、何もかも、すべてが、この瞬間に溶けていく。
それが錯覚であってもよかった。今はただ、この人に何もかも預けてしまいたい。
咽喉から漏れる喘ぎ声を抑えようとする理性は、もはや機能していなかった。蘇芳の下腹部から漏れる淫靡な水音に対して、恥じらう意識すら薄れていた。
快楽の涙でぼやけた視界に、ふいに眩しい光が入り込み、蘇芳は思わず目を眇めた。
額縁のガラスが、部屋の照明を反射して光ったらしい。
蘇芳は、ぼんやりと、額縁の群れを見上げた。
白い壁に、額縁に入れられた表彰状が、何枚も飾られていた。蘇芳には分からないが、紺野がわざわざ飾るくらいなのだから、きっと栄誉ある賞の表彰状なのだろう。
――栄光……。
かつて、このソファの上から、同じように表彰状を見た時のことを思い出した。
あの時、表彰状の群れから、紺野のエリート意識の高さを再認識した。そして、沈丁花の花言葉を反芻し、理学研究会のメンバーから散々聞かされた紺野の酷薄さについて、わざと意識の隅に追いやって、勝手に本質的には優しい人だと思い込んでいた自分を嘆いた。
だが、紺野がエリート思考の塊だったとしても、それが蘇芳が感じてきた本質的な優しさと、なぜ矛盾すると思ったのか。
どちらも、この人の本質だ。
酷薄さは、研究に対する真剣で妥協のない姿勢の表れに過ぎない。それと本質的な優しさは矛盾しない。
――どっちも、好きだった。僕はこの人のことが、好きでたまらなかったんだ。
血液製剤をくれるからでもなければ、血の匂いを纏っているからでもなく、自分が紺野その人に惹かれていた事実を、今更のように思い知った。
*
指を抜き取られた瞬間、来るべき時が来たのかと、霞んだ頭の中で思った。蘇芳は無意識のうちに、紺野の背中に腕を回し、縋るようにしがみついた。 ――捨てて行かないで……。
心の中で呟いたつもりだったが、うわごとに出てしまったのか、紺野の動きが一瞬止まった。
身を起こしかけていた紺野の上体を、しがみつく蘇芳の腕が、わずかに引き戻していた。
紺野は蘇芳の腕を振り払う代わりに、蘇芳のセーターの裾に手を滑り込ませた。裸の背中に掌を置き、あやすように撫で上げる。
掌の熱と、無骨な指の感触に、蘇芳は息をつめた。布越しではなく、直に肌に伝わる感触に、蘇芳は心を震わせた。
紺野は再び蘇芳の身体をソファのクッションに沈めると、蘇芳の足に手を伸ばし、膝裏から支えて、内腿をゆっくり開かせた。
恥じらいを感じる暇もなく、熱くて硬いものが、隘路を押し広げるように侵入してくる。
軋むような音とともに、接合部に、引き攣れるような痛みが走った。
痛みとともに、痺れるような熱が、繋がっているところから全身に広がる。
圧倒的な質量に、蘇芳は浅い呼吸を繰り返した。
最奥まで深々と貫かれたところで、動きか止まった。蘇芳はようやく、深く息を吐いた。紺野のものが、自分の体内に埋め込まれている今は、拒絶されることはない。
怖いとさえ思った紺野の血走った眼差しが、かえって安心感を生んでいた。
引き抜かれたと思った次の瞬間、一気に根元まで貫かれ、蘇芳は身体を仰け反らせた。
激しく突き上げられて、蘇芳は呼吸もままならなかった。
身体の中に隙間なく、ぎっちりと埋め込まれているものの圧迫感に、内臓が押し上げられるような気がした。
必死で浅い呼吸を繰り返しながら、蘇芳は縋るように紺野の背中に手を回し、少しでも身体を寄せた。だが、どれだけ身体を近寄せても、触れることができるのは、冷たい布だけだった。
下半身を露わにしている蘇芳に対して、紺野は着衣をほとんど乱していなかった。
肌に触れたい。直接、肌に触れていたい――そんな願いが、喉の奥で小さく燃え上がる。だが、どれほど背中に腕を回してしがみついても、指先がたどり着くのは冷たい布地だけだった。
抱きしめ返されることはない。
ただ、蘇芳が縋るのを、紺野は拒まなかった。
それだけのことだった。
繰り返し打ちつけられる衝撃に、身体の芯が灼け切れそうだった。
それでも、どこか冷めた場所で、蘇芳は思っていた。
――どうしてこの人だけは、僕を捨てて行かないと、無邪気に信じ込んでいたのか……。
須藤の声が脳裏に蘇る。
――君じゃ、紺野さんの助けにはなれないよ。
――君みたいなのが纏わりついてたら、紺野さんはいずれ、立場を失うよ。
あんな男に言われるまでもなく、蘇芳自身、よく解っていた。
所詮、自分は紺野の隣に立って、ともに歩くことなどできないのだ。手を引いてもらえなければ、まともに歩くことすらままならない。
須藤は、自分が最も言われたくなかったことを、最も正確に突き刺してきた。だからこそ、蘇芳は須藤を激しく憎んでいた。
これまでの人生で、傷つけられた記憶なら、いくらでも思い出せる。
けれど、その中で、誰か一人を心底憎むとしたら、間違いなく須藤だった。
――紺野さんも、あの男の言い分のほうを信じた……。
二度と思い出したくない光景が、脳裏に過った。
理学研究棟の裏口前で、蘇芳が紺野から捨てられたことをはっきりと自覚させられた時。
――むやみに人を貶めるような発言は慎め。
あの時の紺野の冷たい視線が、脳裏に焼き付いていた。感情の欠片もない、物を見るような目だった。
――ああ、そうだった。あのとき、僕は捨てられていたんだ。
それなのに、何度も縋ってしまう。
――もっと、ちゃんと捨ててくれないと、僕はいつまででも、あなたに取り縋ってしまう……。お願いだから、徹底的に壊して……。
激しく体を揺さぶられて歯の根が合わず、唇を噛むことすらできないまま、熱に侵されて揺れる視界がぼやけた。
ふいに、蘇芳の目元に紺野の指先が触れた。
紺野の指先が、蘇芳の涙を拭い取った。
知らない間に、涙を流していたようだ。
「……痛かったか?」
紺野が真剣な面持ちで、蘇芳の顔色を窺っていた。
蘇芳は思わず、紺野から目を伏せた。
そんな風に、優しくしないでほしかった。捨てていくだけの存在に、情けをかけるのは、かえって残酷なことだと、分かってほしかった。
そう訴えようとしたのに、口を衝いて出たのは、違う言葉だった。
「僕を……、置いておいて……」
喘ぎ声を上げすぎたせいか、のどが嗄れて、まともに声が出なかった。自分でも満足に聞き取れない掠れ声で、蘇芳は小さく呟いた。
「……せめて、記憶の片隅にでも……」
ただの感傷にすぎない、取るに足りない願いを、なぜ紺野に訴えようとしてしまったのか。もっとも、蘇芳本人にも満足に聞き取れないほどの掠れ声を、紺野が聞き取れるとは思えなかった。それでも、思わず漏らしてしまったその言葉は、蘇芳の胸の中で、自嘲のようにも祈りのようにも響いた。
返事はなかった。
だが次の瞬間、紺野が蘇芳の身体を渾身の力で抱き締めてきた。その腕の力はあまりにも強く、逃げ場がなかった。骨が軋む音が、どこか遠くで聞こえたような気がした。
後頭部に手を回され、顔を紺野の胸元に押しつけられた。わずかに汗の混じった、少し湿った匂いが鼻を掠めた。心地よい、でも少し切ない匂いに、頭の芯が麻痺していくようだ。
紺野の体温が、シャツの布越しにじわりと沁みてきて、僅かに高鳴る紺野の鼓動が、頬に伝わってきた。
この力強い抱擁は、少なくとも、拒絶ではないと感じた。とはいえ、蘇芳の呟きに対する肯定だと思い込むのは、厚かましいような気がした。
――それでも……。
蘇芳は紺野の体温に包まれながら、うっとりと目を閉じた。
――最後にそれくらいの夢を見たって、許されるんじゃないか?
そう思った瞬間、すっと、意識が暗闇に溶け込んでいくのを感じた。
音も、匂いも、重みも、何もかもが、暗闇に溶けていく。腕を絡ませ、必死でしがみついている紺野の背中のシャツの手触りすら、曖昧になっていく。
静けさの中で、意識が、静かに、闇に溶け込んでいった。
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