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3-1

 蘇芳は理学研究棟を見上げた。  かつては、気安く立ち入ることができた建物だが、今となっては、一般の文学部学生から見た理学研究棟と同様、自分と何の接点もない、遠い存在となっていた。  ――二度と近づくな、とまで言われたのに……。  それでも、他に紺野と会う方法が思いつかなかった。  カードキーを失った今となっては、誰かが出入りするのを待つしかない。その隙を狙って、蘇芳は建物の中に入り込むつもりだった。  正面玄関は目立ち過ぎる。蘇芳は、研究棟の裏手に回った。  裏口は、正面玄関とは対照的に、人の気配がほとんどなかった。木陰に身をひそめて、蘇芳はじっと裏口を見つめていた。  時折近くを通りかかる学生が、不審そうな面持ちで、蘇芳を一瞥していった。  人通りは少ないものの、ここに居ること自体が、目立ってしまう場所だった。周囲には草木があるだけで、他に何もない。わざわざこんなところに立ち止まっている人間がいたら、不審者だと思われても仕方がなかった。  ――もう少し目立たない場所があればいいのに……。  冷えきった風が、雪の溶けた水が染み込んだ地面を這うように吹き抜けた。スニーカーの底から伝わる寒気が、じわじわと骨の髄にまで染み込んでくる。身体が震えるたびに、胸の奥で何かが擦れるように痛んだ。  右手の親指を、そっと握り込んだ。カミソリで軽く切った傷は、もう血がにじむこともなくなっていたが、風にさらされたせいか、薄皮が引き攣れてヒリヒリと疼いていた。  ──マジで気持ち悪い。  吐き捨てるように言い放った美鶴の声が、耳にこびりついて離れなかった。蘇芳が血に欲情しているのを目の当たりにした人は、美鶴に限らず、誰もが似たような反応を見せた。紺野だけが、唯一の例外だった。  ――それでも、血の味に癒されたなら、まだ救いはあったのに……。  だが、血は、かつてのように蘇芳を癒してくれることはなかった。  ──紺野さん……、会いたい。  その気持ちだけが、今の蘇芳を動かす原動力だった。  どれくらい経ったか、2人の学生が連れ立って、楽しげにしゃべりながらドアから出てきた。蘇芳は弾かれたように、ドアに向かった。寒気で痺れた足がもつれ、転げそうになりながらも、なんとか2人組にすれ違う形で、扉の隙間に体を滑り込ませることができた。  2人組が一瞬、不審そうな顔で振り向いたような気がしたが、そんなものに構っている暇はなかった。  蘇芳は紺野の研究室目がけて、無我夢中で走った。エレベーターを待つ時間がもどかしく、階段を駆け上り、ようやく研究室の前まで辿り着いた。研究室の扉の横に掲げられているアクリル製のサインプレートには、「在席中」と表示されていた。  蘇芳はノックもせずに、ドアを勢いよく開けた。ドアが、背後の壁にぶつかる音を立てた。  ――いない……?  いつも座っている椅子に、紺野の姿はなかった。蘇芳は、無遠慮に部屋の中を見回した。  机の陰に半分身体を隠すような姿勢で、しゃがみ込んでいる紺野の背中が見えた。小さな透明なケージの中に手を入れ、何かをしている。書棚の奥に人目を避けるようにして置かれたケージの中から、ガサガサと乾いた音と、小さな茶色い影の動きが視界の端でちらついた。  ――ハツカネズミ……?   紺野はゆっくりと立ち上がり、ドアの方に目を向けた。 「……鍵を掛けておくべきだったか」  蘇芳は、返す言葉がなかった。  代わりに、ケージの中で餌をついばむ、小さな生き物たちを凝視した。  ――ハツカネズミなんか、飼ってるんだ。そんな趣味があったなんて……。  紺野の研究室には、もう何年も通っていたはずだが、そんなものがあるなんて、一度も気づいたことがなかった。  思い返してみても、鳴き声や臭いを感じた記憶はない。匂いで気づけなかったのは、珍しいことだった。  蘇芳は鼻先に意識を集中させてみた。  確かに、ほんのかすかに、動物の匂いがするような気もした。けれど、それは空気の揺らぎに混じって、ようやく感じ取れる程度のものだった。  ケージの脇に置かれた、空気清浄機と思しき、小さな白い筒型の機器の存在にも、初めて気づいた。  ――それに……。  ここにいる時は、他の感覚が鈍るような気がした。  ――だって、紺野さんのことばかり、見てたから。  自分でも笑ってしまうくらい、単純な理由だった。 「用済みの実験動物だ」  蘇芳の視線を感じたのか、独り言のように、紺野が呟いた。 「実験室で飼い続けるわけにもいかなかったから」 「え? あ……、そうですか」  スペースや予算もあるだろうから、不要になった実験動物を、飼い続けることはできないのだろう。  蘇芳が引っかかりを覚えたのは、かつて須藤から言われた言葉を思い出したからだった。  ――紺野さんの実験動物、だっけ?  ――あの人が、どれだけ冷たい人間か。あの人の出世の犠牲になった人間がどれだけいるか、聞いたことくらいあるだろ? 人間に対しても冷たいんだ。実験用の動物に対してなんか、なおさらだよ。実験用のマウスなんか、どんな無残な死に方をしたって、何とも思わないし、要らなくなったマウスは、まるでゴミくずみたいに、ばんばん殺処分に回す人だ。  ――そんな人が、君を『実験動物』と呼んでいることは、しっかりと認識しておいたほうがいい。  須藤の言葉が脳裏に甦った。 「……殺処分しないんですか?」  蘇芳はかすれた声で訊ねた。 「もちろん、ほとんどを安楽殺処分せざるをえない」  紺野は感情のない声で答えた。  ――多分、一度実験に使った個体は、他の研究には使えないんだろうな。それに、遺伝子操作とかした個体は、万が一逃げ出したら、生態系に影響がでちゃうかもしれないし……。  素人の蘇芳でも、それくらいの想像はできた。  それでも、ここにいる数匹のハツカネズミは、確かに生きていた。  ――僕は、この人のこと、必死で見つめていたつもりだったけど、本当は何も見えていなかったのかもしれない。  須藤の言葉に動揺して、紺野に疑いを抱いたことを、今更ながら後悔した。 「自分の血では、足りなかったか?」  唐突な問いかけに、蘇芳は虚を突かれた。  紺野の視線は、蘇芳の左手の親指の根元の傷痕に注がれていた。 「……これは……、違うんです。段ボール、開けてて……ちょっと」  思わず、下手な言い訳が口を衝いて出た。だが喉が強張って、うまく声が出なかった。自傷行為を紺野から禁止されていたことを、忘れたわけではなかった。  紺野は蔑むような目で蘇芳を一瞥した。蘇芳はその視線から逃げるように、俯いた。  ――完全に、見透かされている。  蘇芳の胸に、緊張が走った。 「二度と私と拘わらないとまで言っておきながら、よくここに来れたものだな」  棘のある声に、蘇芳は慌てて顔を上げた。紺野の目に、怒りの色は見えなかった。淡々とした口調も、それほどいつもと変わらない。だが、どこかよそよそしく、距離を置かれているような気がした。  それにしても、紺野らしからぬ、大袈裟な表現だ。蘇芳は小首を傾げた。確かに、もう二度と理学研究棟に来ないと約束はした。だが、拘わらないとまで言った覚えはなかった。そもそも、紺野に禁じられ、蘇芳はその威圧感に圧倒されて、呑まざるを得なかっただけだ。  とはいえ、今は言葉尻を捕らえて、どうこう言っている場合ではなかった。 「そこまでして、血が欲しいか?」  紺野は机の抽斗からナイフを取り出すと、素早く自分の手の甲に刃を押し当てた。  止める暇もなく、紺野はナイフをさっと引いた。  空気を裂くような、微かな音とともに、血の匂いが漂った。  紺野の左手の甲に、一筋の赤が浮かんだと思った次の瞬間、濃い、鮮やかな血が一気に溢れ出した。手の甲を伝って掌へ、指の隙間を縫うように、ぽたぽたと床へ滴り落ちていく。  あまりの出血量の多さに、蘇芳は思わず一歩引いた。  たったそれだけの切り傷で、これほどの血が出るとは思わなかった。蘇芳自身、血を飲むために、自分の手を切ったことなど数えきれないほどあった。だが、これほどの出血量を見たことがなかった。  背筋に冷たいものが走った。  だが紺野の顔には、痛みも、ためらいも、浮かんでいなかった。 「そんなに欲しいなら、やるよ」  紺野は血まみれの左手の甲を、蘇芳の口元に押し当てた。唇に触れた血の味が、口の中に広がった。  かつては、その味と香りに癒された。  だが今は、違った。  血に酔うよりも、紺野に怪我を負わせてしまったことに、意識が奪われた。  蘇芳は紺野の左手首を両手で掴んで、自分の口元から離した。 「……やめてください」  ようやく絞り出したその声は、ひどく掠れていて、自分のものとは思えなかった。  蘇芳は逸る気持ちを必死で抑えながら、ポケットからハンカチを取り出した。 「こんなこと……、やめてください」  蘇芳は紺野の手を取り、傷口をハンカチで覆うように押さえた。ハンカチの上から、紺野の手を両手で力いっぱいに握りしめた。早く出血が止まることだけを祈った。  紺野は蘇芳の様子を観察するような眼差しでじっと見つめるだけで、蘇芳のなすがままになっていたが、やがて蘇芳の手をそっと外した。 「もういい」  手を握りしめられたことが不快だったのかもしれない。冷たく拒絶されたような気がした。  「応急処置は、慣れているから」  蘇芳の縋るような視線を感じたのか、紺野は若干口調を和らげて言い添えた。  慣れているというのは確かなようで、紺野は、棚の抽斗から透明な袋入りの液体や、ガーゼ、医療用テープなどを手際よく取り出し、傷口を洗い流し、ガーゼと医療用テープで手早く傷口を覆った。  あっという間の処置だった。  実験などで怪我をした学生に応急処置を施すことが、よくあるのだろう。  蘇芳は何もできず、その様子を見つめるしかなかった。  紺野は処置を終えると、ソファに腰を下ろした。疲れているのか、ソファの背に凭れ掛かっている。 「……あの……」  恐る恐る声を掛けると、紺野は向かいのソファに目配せした。蘇芳も座っていいらしい。蘇芳は僅かに安堵した。 「……失礼します」  蘇芳はおずおずと、紺野の向かいのソファに腰を下ろした。   紺野は蘇芳を見つめるわけでもないが、視線を逸らすわけでもない。居心地の悪い沈黙に、蘇芳は視線を自分の手元に落とした。左手の親指の付け根に残された傷痕が、嫌でも目に入った。 「血が欲しいわけでもないなら、君は何をしに来たんだ?」  けだるげな声で、紺野が訊ねた。   蘇芳は顔を上げた。  血の匂いが、まだ鼻の奥に残っている気がした。蘇芳自身の血の匂いなのか、紺野の血の匂いなのか。そんなことすら、すでに蘇芳は判別することができなくなっていた。  血が欲しくて来たわけではない。それは確かだ。  ――でも、何をしに、って言われても……。  ただ、会いたかった。それだけだった。 「大島美鶴にも、見放されたか?」  紺野の口調が淡々としているのはいつものことだが、やはり、どこか突き放すような冷たさを帯びていた。 「……違うんです。僕は美鶴さんのことが好きだったわけじゃ……」  蘇芳はおずおずと、弁明しようとした。  確かに美鶴に見放された、それ自体は事実だ。だが、美鶴に見放されたから紺野に会いに来たわけではなかった。 「君の好きな相手になど、興味がない」  紺野は冷たく遮った。その声色には、哀れみや苛立ちどころか、関心さえ感じ取れなかった。  返す言葉を失って、蘇芳は唇を噛み締めた。  どれだけ言葉を重ねても、もはや紺野の心は動かせないだろう。紺野は自分に従う者に対しては寛容だし、親身にもなってくれるが、敵対者に対しては完膚なきまでに叩きのめすか、無関心か、のどちらかだ。  ――所詮、無理な望みだったんだ。  蘇芳は、紺野の逆鱗に触れてしまったらしい。  もうかつての立ち位置には戻れない。  ――それなら……。 「……僕を、壊してくれませんか?」  無関心よりは、叩きのめされたほうが、まだましだった。  紺野の鋭い視線が光ったような気がした。蘇芳には、紺野の顔を見るだけの勇気はなかった。目を伏せたまま、けれど、声だけは届くように、まっすぐに投げかけた。 「……抱いてほしいです。僕を壊せるのは、あなただけです」  蘇芳は言葉を重ねた。  受け入れてほしいと望むほど、厚かましくはないつもりだ。でも、これ以上、拒絶しないでほしかった。情けでも、支配でも、偽りでも、何でもいいから、今、ここに自分がいてもいいと、思わせてほしかった。 「捨てていくなら、せめて壊してから行ってください」 「捨てる」という言葉を口にした瞬間、紺野の視線が刃のように鋭く光った。 「君が、私から離れたかったんだろう? 私は君の意思を尊重したまでだ」  紺野らしい突き放し方ではあったが、紺野の双眸が僅かに揺れたのを、蘇芳は見逃さなかった。  怒り、苛立ち、不快感、そういった感情がほんの一瞬、紺野の瞳の奥で揺れた。  ――やっぱり、そうだ。あのメール……。 「了解した」という紺野からの謎の返信は、蘇芳のスマートフォンから、紺野宛に送られたメッセージに対する返信だったのだ。送信者が、蘇芳のスマートフォンから送信履歴を削除したメールは、紺野が、これほどはっきりと負の感情を抱くような、不躾で非常識な絶縁宣言のようなメッセージだったのだろう。  そうだとすれば、全てが氷解する。  蘇芳は唇を噛んだ。  須藤のことが、心底、憎かった。  須藤は、蘇芳にはなくて、蘇芳が欲している全てを持っていた。紺野を支え、目的に向かって伴走できるだけの器量、そして、紺野からの信用。  それなのに、なぜそんな姑息な手を使ってまで、蘇芳を奈落の底に突き落とそうとするのか。  ――紺野さんに訴えても無駄だ。紺野さんは、僕よりも須藤さんの言い分を信用する……。  絶望感に打ちひしがれながらも、蘇芳は重ねて懇願した。 「お願いします。最後に、ただ一度だけでいいんです」  紺野は腕組みしたまま、冷徹な視線を向けている。突き刺さるような眼差しを直視できず、すぐに視線を落とした。 「君の考えは、全く理解できないよ」  重たい沈黙を破ったのは、紺野のどこかなげやりな言葉だった。紺野は口の端を歪めるようにして笑った。 「今に始まったことではないか。昔から、そうだった。ずっと……」

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