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2-18

 どうやって下宿先のアパートまで戻ってきたのか、覚えていなかった。  こんなことは、紺野に犯された時以来だった。  気が付けば、玄関先で倒れ込んでいた。硬い床に突っ伏したまま電気もつけず、夢と現を彷徨いながら、紺野とのやり取りを反芻し続けていた。  ――捨てられたんだ……。  これほど辛いとは思わなかった。  今更ながら、自分が紺野に依存しきっていたことを思い知った。  ――好血症だと触れ回ってやる。  かつての紺野の言葉が、脳裏に甦った。  ――むしろ、そうしてくれたほうが、よかったのに。  だが、紺野が取った手段は、それよりも遥かに残酷だった。紺野は蘇芳のことを、意識から締め出したのだ。  憎しみすら、ぶつけてはくれなかった。  ――あの時に戻りたい。  かつて、最悪の出来事だと思っていた、紺野に強引に抱かれた後。  ――紺野さんは、あの後、何度も連絡をくれた。ふてくされて、まともに反応しない僕に、優しく話しかけてくれた。季節外れのTシャツを着ていた僕に、コートを買い与えてくれた。  今になって思えば、紺野は精一杯に蘇芳を気遣ってくれていた。  だが、どんなに戻りたいと思っても詮のないことだった。        *    昼も夜も曖昧に過ぎていく時間の中で、蘇芳の意識はたゆたい続けた。たまに台所の水を呷り、何か口に入れていたような気もするが、それすら確かではなかった。  それなのに、最後に触れた、スラックスの生地の感触は、今も指先にはっきりと残っていた。  ウール混の布地は、なめらかというより、どこか乾いていて冷たかった。温度も重さもない、空虚な布切れを握りしめているような感覚だった。それでも蘇芳は、必死でその裾に縋った。掴んでしまえば、何かが変わる気がした。  しかし、あの布地はただ冷たく、静かだった。  ――先生は、来月半ばに出立される予定だよ。  憐憫と優越感が入り混じった、須藤の声が甦った。  ――あれは11月の出来事……。今日は、何日なんだ……?  蘇芳は鉛のように重たい身体を這うように動かし、スマートフォンに手を伸ばした。  メールが何通か届いているが、もちろん、紺野からのメールはなかった。  スマートフォンの画面に表示されている日付は、12月10日だった。須藤の情報が確かならば、紺野が出立するのは12月半ばということなので、まだ出立していないことになる。  蘇芳は僅かに安堵を覚えた。だが、出立の日が刻一刻と近づいている状況であることには、変わりなかった。  ――紺野さんが行ってしまう、僕を置いて……。  蘇芳は、ふらりと立ち上がると、クローゼットを開いた。中からトレンチコートを取り出すと、その布地をそっと撫でた。  紺野の厚意をなかなか受け止められなくて、ほとんど袖を通すことがなかったコートだった。父から正論で諭されてからは、なおさら袖を通す気がしなかった。  退行催眠による虐待の記憶が、偽の記憶である可能性が高いと蘇芳自身が思えるようになり、紺野に対する自分の気持ちに素直になれて、ようやくコートに袖を通すことができた。  このコートを着て、紺野の研究室を訪ねた時、紺野は微笑んでくれた。  血から解放されつつあること、美鶴からの退行催眠を断ったことを告げたら、やはり同じように、静かに微笑んでくれた。  あの時、絡まった糸が解けていくような気がした。  だが、それは蘇芳の勘違いだった。紺野が連絡を絶ったのは、その後からだった。  そして、その後の不可解なほど明確な拒絶――。  あの日、紺野に対して何かやらかしてしまったのではないかと、何度も考えた。だが、いくら考えても、何がいけなかったのか、何一つ思い当たらなかった。  ――何が何だか、もう分からない……。  喉が渇き、身体が震えた。  紺野にリストカットを禁じられて以来、蘇芳はその約束を愚直に守ってきた。どうしても血が欲しくなった時でも、自分の口内を噛む程度で我慢していた。  ――でも……。  少しでも、この苦しみを紛らわせられるなら。  ――リストカットじゃない。ほんの少し、傷をつけるだけ。  自分に言い訳をしながら、蘇芳はカッターナイフを取り出した。  カッターの刃先を、掌の端、親指のつけ根あたりの皮膚に押し当てた。そして、そっと撫でるように引いた。  鋭い痛みとともに、じわりと血が滲み出た。  血の匂いが、鼻孔を擽った。だが、昔のように、良い香りだと思えなかった。それでも蘇芳は、縋るように傷口に舌を這わした。  塩辛さと鉄の味が、舌の上に広がった。  だがやはり、かつて感じたような安らぎは、得られなかった。  ――血が足りないから?  そうではないと、頭の中では解っていた。  それでも、蘇芳は過去に不安と苦悩から逃れた方法に、縋らずにはいられなかった。  もう一度同じ場所に刃を当てたその時、突然、ドン、と大きな音が響いた。玄関の扉を叩く音が、しつこく響いた。  新聞の勧誘か、何かのセールスか。  大学から目と鼻の先にある、貧乏学生しか借り手がいない安アパートに、セールスなど滅多に来なかった。  居留守を決め込もうとしたところで、ドアが開いた。 「おい、蘇芳。いるなら返事くらいしろよ。鍵開いてたぞ。不用心だな」  現れたのは、山田だった。蘇芳の返事も聞かずに、勝手に玄関に足を踏み入れた。 「美鶴さんが心配して、どうしても、って……」  ドアの隙間から、美鶴が顔を覗かせた。 「蘇芳君、なんか、ずっと大学に来てないでしょ? どうしちゃったの? あたし、ちょっと言いすぎちゃったかな。でも、大丈夫。ヒプノセラピーは万能だから、今からでも全然、遅くないんだから」  美鶴も玄関に入ってきた。  「……おい、何やってんだよ?」  部屋が薄暗いせいか、山田は蘇芳の姿がはっきり見えていなかったらしい。ようやく目が慣れてきたのか、蘇芳がカッターナイフを手にしていることに気づいた。 「おまえ……、自分の血、舐めてんのか?」  山田の声は、震えていた。  蘇芳の親指の根元から、血が滴り落ちていた。口元には、べったりと血がこびりついていた。  蘇芳は慌てて、カッターナイフをシンクの天板の上に置いた。  玄関に向かって一歩踏み出したところで、悲鳴のような叫び声が響き渡った。 「いやあっ、来ないで!」 「美鶴さん? 落ち着いて……」  蘇芳がもう一歩近寄ると、美鶴は山田の背中にさっと身を隠した。山田の陰から少しだけ顔を覗かせ、蘇芳を睨みつけた。 「マジで気持ち悪い。……血を舐めるとか、意味わかんない」  美鶴の顔面に貼りついていたのは、得体の知れないものへの不快感と恐怖恐怖、そして軽蔑だった。  ――懐かしい、これまで何度も見た表情……。  眩暈がした。  くらくらと揺れる頭の中で、過去に何度も見た光景が蘇った。  理解者のふりをして近づいてくるのに、途中で突然態度を豹変させ、忌避する人や、まるで害虫のように駆除しようとする人。  美鶴はその中でも、一際熱心に蘇芳を気に掛け、熱心に救ってくれようとした人だった。そんな美鶴からの拒絶の科白に、胸を錐で刺されるような痛みを感じた。 「こんな奴、誰からも、まともに相手されるわけ、ないじゃない……」  美鶴は吐き捨てるように言い放つと、くるりと背を向け、部屋を飛び出して行った。 「美鶴さん? 大丈夫ですか?」  山田も蘇芳に目をくれることなく、美鶴の後を追った。  ドアが大きな音を立てて、閉まった。  その音に、蘇芳は僅かに正気を取り戻した。  ――僕の醜態を見て、顔色一つ変えなかったのは紺野さんだけだったな。  何を見ても、紺野につなげてしまう。   ――会いたい……。紺野さんに会いたい。 「紺野さん……」  床に落ちたコートを拾い上げ、袖を通した。玄関先に向かって、足を一歩踏み出した。ふらついたが、なんとか転ばずに踏みとどまった。  ――大丈夫、僕はまだ歩ける……。  足を一歩踏み出すごとに、体の奥から力が漲ってくるような気がした。蘇芳はふらりと玄関を出た。向かう先は、ひとつしかなかった。  ――紺野さんの許に……。

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