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第1話 木下悠翔①
メッセージアプリに既読はつかなかった。
電話をしても呼び出し音は鳴るけれども出てはくれない。
「しかたない」
木下 悠翔 はスマートフォンを切ってコートのポケットに入れると、駅前の古びた雑居ビルの二階を見上げる。
佐々木ダンススタジオ。
窓ガラスに書かれた文字が室内照明で夕闇のなかに浮かんでいた。
「こんばんわ」
悠翔はマフラーを外しながらそうっとスタジオに入る。すでに何人かの人が練習前の準備で体をほぐしていた。
多くが社会の第一線を退いた年齢の人達だ。といっても彼らの何人かは入り口すぐの棚にずらりと並べられたアマチュア大会のトロフィーの所有者ではある。健康維持とお友達作りをきっかけに始めてみたところ、のめり込んでそこそこの実績を積んでしまう。年齢層が高めの人たちが所属するしっかりした運動クラブの場合、そういうのは珍しくない。
そんな中にあって19歳になるかならないかという年齢層は珍しい。珍しいから同年代くらいがいれば、集団の中ですぐにわかる。
悠翔は受付前できょろきょろと室内を見回す。いつも仲良くつるんでいるのは悠翔のほかは同年代の男女二人。それらしき姿は見えなかった。
「あの……新崎 君は?」
「まだ着替え中じゃないかしら? はい、これ書いてくれるかな」
悠翔は受付に置かれたクリップボードを見る。所属する人たちの名前がずらっと書かれていて、入退室の際に時間を書くようになっていた。
新崎 璃空 。その名前の横には十五分前の時間が書いてある。少し下に木下悠翔とあり、すぐ下に市原 萌子 の名前がある。
彼女の名前は赤の二重線で消されていた。
「え、萌子ちゃん、やめちゃったの?!」
悠翔の声が思わず高くなる。はっと周りの視線が気になって、あたりを見回してから、彼は受付のアシスタントにひそっと尋ねた。
「いつ?」
「電話で連絡があったのは二日前かな。……璃空君と、なんかあったらしいじゃない?」
アシスタントの言葉に、悠翔ははぁっと小さくため息をつく。電話もメッセージも届かない理由がなんとなくわかった。
「どうする?」
「何がですか?」
「続ける? それとも悠翔君も辞めちゃう?」
アシスタントの縋るような不安げな眼差しに、悠翔は少し眉を下げる。
「とりあえず今日はやります。着替えてきますね」
返事に少し困ってその場では軽く挨拶する。逃げるように更衣室へ入った。
更衣室には誰もいない。
悠翔は適当に選んだロッカーに荷物を置き、体のラインをはっきりと見せる半袖の吸汗速乾Tシャツに着替える。ダンスという種目には少々むっちり気味すぎる筋肉の塊が鏡に映っていた。
このダンススタジオに悠翔を誘ったのは萌子だ。
二人が知り合ったのは学校近くにある中華料理店というバイト先で、萌子はホール、悠翔は調理場だった。話していると学科は違うが同じ調理師専門学校に通っているとわかった。
潤沢ではない仕送り状況で賄いが出るのはありがたい。しかし一方で中華料理は旨い上にカロリーがエグい。
夏を前に萌子がウエストの肉のたるみを気にし始めた時、駅前のダンススタジオのチラシがバイト先の壁に貼られていた。スタイルの良いダンサーのお姉様に未来の自分を重ね合わせ、萌子は目を輝かせて一緒に行こうと悠翔を誘った。
下心がなかったわけではない。
萌子は周りの同性に比べて自分の身体が少々ぽっちゃり目なのを気にしていた。
それが悠翔にはかわいく思えた。むしろ見た目ばかりを気にして、ダイエットだメイクだデトックスだとインターネットのはやりに振り回される女子が苦手だった。
その点で萌子は食べたいものを食べ、おいしいものをおいしいと正直に言える。会話をしてても気負わなくていいし、こういう子となら付き合ってみたいと悠翔は思っていた。
だから彼女からのお誘いがうれしくて、ダンスなんていう悠翔にしてみればこっぱずかしいことにだって、誘われるままに挑戦できた。
「結局……なにもないまま終わっちゃったな」
悠翔はロッカーを閉めてぼやく。
萌子を学校でたまに見かける。
ただ学科が違うので一緒にいることはない。バイトもここ最近はシフトが変わっていてじっくり話すことも減っていた。
ダンススタジオに通い出して彼女が何を思っていたのかはしれない。
しかしここへ来てすぐに、彼女が同年代の青年に心を奪われたのを悠翔は知っている。そんな彼女からしてみれば悠翔の淡い期待など知ったことではないことも。
萌子が必死にアプローチをかけていた相手が璃空である。
彼は自分たちと同年代だが、スタジオ在籍は一,二年ほど早い。萌子はド素人にも関わらずその経験差を捉まえて「先輩に教えてほしいの」の一言で、積極的にパートナーを頼んでいた。
先生直々の指導を受けて、指導員としても活躍している若い璃空を狙っているのは彼女だけではない。当然のごとく同性のおばさまやお姉さまから萌子は大変ヘイトを買うことになる。本人も知らなかったはずはないが、少なくともそれで悩んでいる様子は悠翔には見られなかった。恋する女の面の皮は厚いらしい。
そうなると付添人に牽制役が回ってくる。おばちゃんたちから彼女がとられちゃうわよ、と注意を求められるたびに、そういう関係ですらないんだけどね、と悠翔は心の中で情けなく呟くしかなかった。
その萌子がどうやら失恋したらしい。
風の噂を悠翔が聞いたのはバイト先でのことだ。
バイト先の人たちは萌子と悠翔がダンススタジオに通っていることも、そこでどんな修羅場が起こっているかもしらない。だから「らしいよ」の一言で詳細はそれ以上聞けなかった。
きっと相手は璃空だ。告白でもして、振られてしまったのだろう。悠翔にはその予感があった。
「仕方ないよねぇ」
歌うように呟いて着替えを終えた悠翔はスタジオに戻る。さっきまでいなかった『別格』の姿がそこにあった。
色素が薄い猫っ毛のふわふわとしたショートボブ。その襟足から伸びるすらっとした長い首筋。
真ん中分けした長い前髪の毛先にも癖がついていて、それがキラキラと光を透かせて顔の左右でドレスの裾のように揺れる。
切れ長でありながら穏やかな目は、スタンダードの滑らかな足さばきが向かう先の動線を常に先取る。観客へ一瞬だけ残された目線に捕らわれた者は誰もその艶っぽさに言葉を失う。
伝統的な日本人スタイルではありえない、身長190cmの歪みのない細身。
8頭身の腰は身長が175cmあるかないかの悠翔の肘と同じ高さ。
引き締まったお腹はペタンコのくせに長身を支える筋肉でしっかりと支えられている。
なにより腕。
両手をひろげた長さは身長とほぼ同じだというが、彼も例に漏れない。その腕がシャドウでホールドを描くとき、まるで大きな鳥が翼を広げたように見える。
実に美しい。これが新崎璃空という男だ。
悠翔は想い人をかっさらわれたというのに、彼に対しては恨みよりも憧憬が先に来てしまう。こんな相手が恋敵では勝負になりようがない。
下心を抱いてついてきた萌子が去ったのだから、本来はこのスタジオに悠翔が通う義理はない。ないのだがすぐに辞める判断ができないのはこの璃空の存在があるからだ。あまりの完成された美しさに悠翔は同性相手だというのに心を奪われた。
璃空はシャドウでワルツを一通り軽く流すと、スタジオの端に置かれたペットボトルで喉の渇きを潤す。彼の側にスタジオの先生である佐々木が近寄ってなにやら熱心に話しているが、璃空ははははと軽く笑って受け流し、視線をちらりと逸らす。その目線の先に悠翔があった。
どきっとする。演技中の艶やかな流し目を悠翔に思い出させた。
璃空は悠翔を認めると、先生の言葉もそこそこに逃げるようにして走ってきた。
「先生、なんだって?」
「んー……今度なんかの大会があるらしいから出てみないか、って」
「断ったんでしょ。見てみろよ。先生のあの渋い顔」
悠翔はちらっと先生の方を見る。国内戦では若い頃から数々のタイトルを取り、今も現役で審査員などもこなす大ベテラン。それが不機嫌というよりも大変残念そうに悠翔たちを見ている。璃空もその顔をはっきりと見ていたが、あろうことか笑顔でひらひらと手を振ってみせた。
悠翔は璃空を見上げる。
「原因、自分だってわかってる?」
「だって俺、そこまで真剣にやるつもりないもん。競技ダンスって衣装と遠征代が馬鹿ほどかかるしね」
璃空は悪びれもせずに言った。
そんな彼を古株の女性があっという間に取り囲み、悠翔を彼女らの結界の外へ追い出してしまう。萌子という嵐が過ぎ去った後のスタジオはいつもの調子に戻っていた。
「今日はワルツのお相手をしていただけないかしら?」
「あら、あなたは前に相手してもらったでしょ。私はルンバがやりたいんだけど」
「そんな! 私ずっと順番待ってたんですよ。新崎君、今度大会でやるタンゴ、練習付き合ってくれない? 旦那、残業で今日来れなくって」
「いいですよ。俺でよかったら、順番にやりましょうか」
誰に対してもあからさまにいやな顔一つせず、多少ひきつってはいるもののホストのような柔らかい笑みで璃空は応える。それを見て、悠翔はまたため息をつく。小さく肩をすくめて同じくサンバを練習しているおじさんたちの方へ歩いて行った。
「僕なんて、サンバしか踊れないってのにさ」
悠翔はワルツという優雅な体型ではなく、ここへ来るまではダンスと言ったら「マツケンサンバ」くらいしか知らなかった。実際にサンバを練習し初めて、その曲がサンバでも何でもなくキューバ系列のラテン歌謡であると知ったくらいだ。
一方の璃空はダンサー然とした恵まれた体形に、なんでも一回聞けば卒なくこなしてしまう身体的な覚えの良さがある。
彼は何でも持っている。足りないのは熱意だけ。
宥めても、すかしても、彼は自分のペースでしか何事もやらない。器用にどの種類のダンスも踊れるが、これといって極めることはしない。それが彼をして大成しない理由だった。
「悠翔君!」
「ん?」
背後から璃空に声をかけられて悠翔は振り返る。自分たちの姉や母親、下手すれば祖母くらいの女性たちに身動きを封じられたまま、頭二、三つ分くらい高いところから璃空は叫ぶように言った。
「今日さ、バイト代出たんだよね。終わったらご飯、一緒に食べようよ!」
「あ~……」
悠翔は言葉の意味を理解して、への字口で返答に困った。
その間に周りの女性が自分を誘ってくれないのかとせっついている。食べに行くわけではないのだ。一緒になんて行けるわけはなかった。
断られるなんてまったく考えていない璃空の目はまっすぐに悠翔を見つめていた。
「……いいよぉ」
悠翔はなおざりに言って軽く手を上げると背を向ける。
背後で動き始めた璃空の靴音は一方で軽やかにツーステップを踏んで離れていくのだった。
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