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第1話 木下悠翔②

「実家にいるときは、20時以降飲食禁止だったんだよね」 「へえ」  悠翔は単身者用にしてはそこそこ広いキッチンに立ち、回鍋肉の入った鍋を振るいながら聞いていた。  璃空と言えば隣接するメインスペースの単身者用の炬燵付きのローテーブルの一辺に座り、悠翔が先に作ってくれた生ラーメンのチャーシューをずるっと吸い込んでいる。傍らの大皿に20個近くあったはずの餃子はすでに残り3個になっていた。 「太るし、寝る時間が遅くなるからって。消化しにくいから体に悪いって言われた。でもさ。夕食2時間後にすぐ寝るならともかく、中学生にもなってよ、思春期の男子よ。そんな早く寝るわけないじゃん。成長期で消費もそれまで以上にするしさ。気がついたら食後4時間くらいたって、腹減って腹減っていつもなかなか眠れなかったんだよね」 「燃費わるそうだもんな、君」  悠翔はほどよく炒まった回鍋肉を大きめの深皿に盛り付ける。ちょうど早炊きの飯もできあがったので、三合炊きの炊飯器ごとメインルームへ持って行った。  ご飯、一緒に食べよう。  これは決して「どこかへ食べに行こう」ということではない。璃空的には「金は出すから材料を買って、うちで作ってくれないか」という意味である。そして作るのはいつも、料理学校で日々腕を磨いている悠翔か萌子だった。  時刻は10時を回っているというのに、内臓がどこに入っているのか不思議なほどに薄っぺらい体で、どこに入るのかと悠翔が首をかしげたくなるるほど璃空はとにかくよく食べる。食べたらすぐにトイレにもいく。決して吐いているのではない。糞縛られているのである。とにかく歩留まりが悪い。  悠翔はどちらかというと水を飲んでも体重計がきちんとそれを知ることができるようなタイプなのでうらやましい限りだった。 「でもお母さんの言うことが正解だよ」  悠翔はキッチンへ戻ってエビの下処理をし始めた。 「食べてすぐに寝ると逆流性の食道炎になりやすいし、寝付きもよくない」 「無理だよ。二,三曲踊った後からもうずっと腹鳴ってるし」 「そんなハラへリマンで普段はどうやって暮らしてんの?」 「学校では学食の320円のカレーか購買で110円のでっかいアップルデニッシュと午後の紅茶か。家ではバイト代が出た後に悠翔君達が作って冷凍しててくれる惣菜をどんぶりにしてるかな。後の狙いどころはスーパーの半額惣菜と牛乳。濃いめの」 「プロテインは?」 「あれだめ。粉々しくておいしくない」 「そんだけ食べるのに好き嫌いもあるんだから、面倒な奴だなあ。いっそのこと賄いがある飲食でバイトしたら? 焼き肉屋とか」 「俺デカすぎてユニフォームが特注になるらしいんだよね。あと威圧感がすごいから客商売向いてないって言われた」 「誰に?」 「一人暮らししてから受けた飲食バイトの面接で。あと換気扇フードの角で頭打つ」 「ほんとに難儀な男だなあ」  その点で悠翔は困ったことはなかった。  背丈は日本人男子の平均で、飲食のユニフォームはどこの店のものも恰幅のいい体型には優しい。デブが店長を務める店でまずいところはないというジンクスがある業界だからだ。 「だからダンス教室で働かせてもらえるの、助かってんだよね」  食事中としては行儀の悪い立て膝に璃空は頬杖をつく。しかたない。股下80㎝の足では胡座をかくにはこの部屋の床面積では狭すぎてたたみ切れないからだ。  キッチンが3畳でメインルームはこのあたりのワンルームとしては広めの8畳。クローゼットはキッチンの方に備え付けてある。  部屋で見える家具はベッドとローテーブルとテレビ台とテレビとタブレットだけ。決して荷物の多い部屋ではない。  けれどもそのベッドがロングのセミダブルなものだから、これが想定外に大きな顔をして部屋の面積を占拠していた。 「最初は生徒だったんでしょ?」  悠翔は殻をむいたエビに下味をつけて片栗粉の入ったビニール袋の中へ放り込む。空気を入れてがさがさと中を振った。  璃空はよそったご飯の上にできたての回鍋肉をのっけて頷く。 「いつからやってんの?」 「高校……かな。部活やめちゃって、学校も推薦で決まってて暇してたんだよね。毎日ゲームばかりしてたら母さんからどうだって誘われてさ」 「経験あったの?」 「ないよ。でもおもしろそうじゃない?」 「恥ずかしくなかった?」 「別に。食べ物でもなんでもそうだけど、経験してみないとわかんないからさ。だめだったらやめたらいいや、くらいに思ってた。でもダンス界隈って俺のこの無駄にデカいタッパとウエスト70センチのひょろっこい体が才能扱いされるんだよね」  恵まれた体型と、本人は自覚したことのない涼やかな美形と、育ちの良さそうな言動で璃空は先生に気に入られた。おかげでレッスン代の半額と広告塔としてのバイト代を先生自らの指導付きでゲットすることとなったのである。 「俺、年中頭に音楽流れてるタイプだからさ、踊ったりするのも性に合ってたみたい」 「なに、その年中頭に音楽流れてるって?」 「そういうのない? 俺そうなんだよ。音楽だけじゃなくて学校ではずっと予習に見た解説動画が流れてるし、ゲームしてるときはゲーム実況が流れてる。ぼーっとしてるときは漫画読んでるかな、脳内で」 「騒がしいね。ちゃんと休めてる?」 「さあ。昔っからだから慣れちゃった。寝てるときにはよく寝言を言ってるらしいよ」 「それ誰から?」 「萌子ちゃん」  悠翔の手が止まる。耳の奥で血の気が引いていく音を聞いた気がした。  寝言を知っているということは夜を一緒に過ごしたということだ。  悠翔は萌子と璃空と三人で夜を明かしたことはない。ということは二人きりで過ごした時があったのだ。  健康的な男女が、少なくとも萌子が璃空の恋人になりたがっている状況で、二人きりで夜を過ごして何もないなんてことは悠翔には考えられない。  ロングサイズのセミダブルベッドが部屋の中で存在感を増した気がした。 「ね、寝たの?」 「付き合ってたからね」  さらっと言ってのけた璃空の様子にビニール袋内でエビを振っていた悠翔の手が完全に止まった。  璃空と悠翔の間で気まずい沈黙が広がってしまう。 「あ、知らなかった?」 「う、うん」  ショックだった。  仲のいい三人だったと思っていたのに、付き合ったことを二人のどちらからも知らされていなかったこととか、それなりの年齢になっているんだから当然とはいえ、璃空と萌子がこの部屋で淫らな夜を過ごしていたこととか……。 「で、い、今も付き合ってん……の?」  悠翔はビニール袋からエビを取りだし、熱した油の入ったフライパンに落としていく。自分では冷静を装っているつもりだったが、手元が震えてエビが二,三重なってしまった。  一方の璃空はそんな悠翔の心の内など知らず、ラーメンをすする。   「別れた」 「い……つ?」 「二,三日前かな」  ドンピシャだ。  悠翔の中で連絡がつかなくなったこと、ダンス教室をやめたこと、バイト先で失恋の話を聞いたこと、すべての辻褄が合ってしまった。 「いつから、付き合ってたの?」 「君たちがダンス教室に入ってきて二週間くらいだったかな。でも別れよう、って言われて」 「え?」  驚いた拍子に悠翔の手からエビが二つ固まって落ちて、びちゃん、と盛大に熱々の油をはねさせる。跳ねた油は悠翔の中指の背にべちゃりと張り付いた。 「あっち!」 「大丈夫?!」  璃空が立ち上がり、慌てて悠翔に駆け寄った。  悠翔はジャブジャブと流した水道の水で手を冷やしながら、璃空にエビが焦げないよう、フライパンを見ててほしいと指示を出す。その後で璃空に尋ねた声は素っ頓狂に上ずった。 「萌子ちゃんから?」 「うん。俺、振られちゃったの」  璃空はエビの様子を菜箸でつまんで確認しつつ、事も無げに言う。  こんな王子様を袖にする女の子がいるなんて信じられない。この顔で、このスタイルで、国公立理工学部生というスペックでお断りというのなら、どんな男ならお眼鏡にかなったというのだろうか。悠翔にはわからなかった。 「付き合うことにしたのはどっち?」 「告白してきたのは萌子ちゃん。それを俺はいいよ、って受けた」 「好きだったの?」 「ああいう肉付きのいい子は好きだよ」  抱き心地がいいからね、と璃空はいたずらっぽく悠翔の肉付きのいい二の腕を掴む。女の子のように指が沈むような脂肪の柔らかさでなく、男性特有の弛緩した筋肉の弾力が璃空の長い指を押し返した。 「なんで別れたの? 引き留めなかったの?」 「別れることそのものは仕方ないと思うし」 「好きだったんでしょ?」 「でも相性ってあるじゃない。きっとあわなかった」 「えっ……と……体の、とか?」 「あ、なに? 悠翔君やらしいこと想像してた?」 「違うの?」 「期待に添えなくて悪いけど、萌子ちゃんとはヤッてないよ」 「え、え、え、でも寝たって」 「寝たよ。一緒に。そこのベッドで何回か。でも萌子ちゃんが『もうちょっと痩せたら抱いてください』っていうからさ」 「それ、守ってたの?」 「そう。どっちでもいいんだけどね。俺からしてみれば。だって俺がかわいいって思ったのはその時の萌子ちゃんだったし。でも女の子って『努力』しちゃうんだよね。それがなんか、もう、ちょっとしんどくなってさ」 「あー……」  悠翔は流水ですっかり冷えた手を眺めて、少し伏し目がちになって俯く。 「……それ、わかる。なんとなくだけど」  悠翔ははははと乾いた笑いを作って再び璃空の顔を見上げる。  璃空は少し驚いたような目を何度か目を瞬かせてから、満足げににこっと笑った。 「えーわかってくれる? 学校でさ、この話すると誰に話しても『クズが!』って怒られるから、言えなかったんだよねぇ」 「ん、まあ、女の子の努力をかわいいと思えないってのは確かに『クズが!』って俺も思うんだけど、努力されることが重いっていう気持ちは、わかる」 「そのままでいいのにって思うのに、女の子ってすごい努力するんだよね」 「俺のことを好きで、もっと好きになってほしいから努力してるっていうのはわかるんだけど、時々努力の見返りをこっちに求めてくることがあるのが、重くない?」  悠翔は自らの過去を振り返って少々うんざりと言った。  それほどお付き合い経験が豊富なわけではないが、学生時代というのは運動か勉強ができて、挨拶だとか受け答えだとか、基本的なコミュニケーションスキルが身についていて、人柄を保証してくれる人間関係を持っている男なら女の子からお声がかかってきたりする。  そのとき、悠翔がよく相手から感じたメッセージが「自分だけに誠意を見せろ」的なものだった。こっちはあんたに喜んでもらおうと優しくしたりかわいくなろうと努力してるんだから、と。  そういう変化を悠翔は求める方ではなかったので恋愛に伴う圧力(プレッシャー)をとにかくきつく感じた。努力し続けないと続かない関係に息切れしてしまうのだ。  結局、相手からか自分からかはわからないが、いつの間にか関係はフェードアウトしていくのが常だった。  璃空は細い首筋が折れてしまうのではないかと思うほどぶんぶんと激しく頷いてエビを手際よくひっくり返していった。 「そうそうそうそう、そうなんだよね。萌子ちゃんにさ、もっと付き合う前みたいにおいしいものをおいしいとか、かわいいものをかわいいとか、自分の好きなことを俺は表に出してほしかったんだ」  しかし付き合い始めてみると萌子は身の丈以上の恋にすっかり浮き足立ってしまった。  王子様に見合う女の子になろう。  そればかりを意識してして、食べたいものがあっても『ダイエット中だから』と我慢し、ダンスも必死にやりすぎて足を挫いてしまった。  身体の無理は精神を蝕む。やがて璃空にもわかるほど明らかに情緒が不安定になってきていた。 「その上、なんか、教室の女の人たちにいろいろと言われてみたい」 「新崎君は慰めてあげなかったの?」 「気にしなくていいとは言った。少しぽっちゃりしてるって言っても、標準体重から大幅に超えてるわけでもないし、同じ体重でも体質の違いで見え方って違うこともあるじゃない? だから大丈夫だよ、とは言ってた。でもダメだったみたい。突然『別れよう』って。好きな人ができたんだって」 「へ、へえ……」  結局、彼女は一人になる隙もなく、自分の身の丈にしっくりくる相手を見つけて去って行った。  それはそれで悠翔にはショックではあったが、璃空と付き合って別れたと聞いたときのインパクトが強すぎて、ああそうですか、位の印象になっていた。  エビに十分火が通ったことを確認して璃空は一旦火を止める。悠翔も蛇口をひねって流水を止めた。 「火傷、大丈夫?」  璃空は悠翔の手を取ると、赤くうっすら水ぶくれている中指の付け根あたりの火傷痕を痛ましげに見つめた。  大きな手だ、と悠翔は思う。  長い指先は爪がきれいに手入れされている。節張っているけれどごつがましくはない。うっすらと浮かび上がって見える血管が何やら艶かしい。  その手に比べると自分の手は無骨で、分厚くて、指は太くて、毛が生えていて、色気がない。悠翔は少し恥ずかしくなった。 「も……大丈夫、だと思う」 「でも一応消毒して、バンドエイド貼った方がよくない?」 「バンドエイドよりガーゼの方がいいかも。ま、ほんとに、大丈夫だと思うけどね」  その程度の火傷なら学校では日常茶飯事だ。そのための応急処置も学んでいるし、経験からどの程度なら病院へ行くべきかとかも悠翔はわかっている。  けれども璃空は一人で焦っていた。 「待ってて。とってくる」  慌ててクローゼットを開けて薬箱を探す。  クローゼットの扉は天井より少し低めの高さまでである。その鴨居に頭を下げて中を覗く人を、悠翔は初めて見た。  薬箱は戸袋のところにあって、その中から璃空はシール式のガーゼパッドを取り出した。 「あったあった。手を貸してくれる?」  言われるまま悠翔はヒリヒリしだした手を差し出す。その手を璃空が恭しくとった。  まるでワルツを踊る前のお誘いのようだ。  そんなことを悠翔が考えていると、優しくとられた手をそのまま璃空に引き寄せられる。  手の甲に彼の形のよい唇が触れた。  その感触を追って、次は柔らかく濡れた舌が触れる。  そのままちらり、と上目遣いに璃空が悠翔を見る。  演技中の艶やかな視線。それをまっすぐに受け止めて、悠翔は真っ赤になってしまった。  これではまるで……お姫様へのご挨拶ではないか。  悠翔がそんな風に意識をしていると、璃空が何事もなかったような素振りでガーゼを貼って傷口を保護してくれた。 「ごめんね。消毒液なかったから、舐めちゃった」 「え、あ……うん。その……ありが、と。えっと、あの、すぐにエビチリ作るから!」  悠翔は慌てて手を引き、すぐにコンロへと向かう。  璃空はその様子を微笑ましく見てから、少々冷めた食事へと戻っていった。

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