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第1話 木下悠翔③

 ふと、悠翔は夜中に目を覚ます。  枕元を手探りすると、指先が硬質なボタンに触れた。  たぶん目覚まし時計。  その中央ボタンを押すと薄ぼんやりと文字盤に青白いナイトライトがともる。時刻は2時を示していた。  頭上から寝息が聞こえる。視線を移すと悠翔の身じろぎにすら全く起きる気配のない璃空の顔がある。至近距離なので薄暗がりでもその整った顔の輪郭がよくわかった。  結局、食事を食べ終わってだらだらしていたら終電を逃してしまった。  悠翔の住んでいる専門学校の寮は一駅隣だ。歩いて帰れない距離でもなかったが、璃空が「だったら送る」ときかず、それを断る受けるの問答の行き着いた結果、始発で帰る=それまでここで寝る、と悠翔が折れた。  シャワーとTシャツは借りた。璃空は細身だが縦に大きい。Tシャツは4Lを着ていたので、横に3Lの悠翔が着ても問題はない。  下着も貸そうかと言ってくれたが、悠翔の肉付きのいいお尻はどうやっても璃空の下着には収まりそうにない。だったらと璃空はコンビニに走ろうとしたがサイズがないのは悠翔も経験済みだ。どちらも断った。今は一度脱いだ下着をもう一度履いている。  セミダブルのベッドはロングで璃空が足を曲げる必要がない。彼は細身で縦にピンと寝転んでいるので、悠翔が少々肉厚でも多少身を寄せ合えば男二人でも一緒に寝られる。璃空としてはできればキングサイズがおきたかったそうだが、部屋の広さ的にそれではこの部屋の床面積が殲滅されてしまうので諦めたとのことだった。 「あ~……そうじゃなくて……そこは3,2、1で……」 「寝言、か?」  萌子が聞いたというやつである。璃空は夢の中でまでダンス教室で踊っていた。  この寝言を、こうして萌子もきいたのだろう。  悠翔はごそごそと掛け布団の中に潜り込む。スウェット姿の璃空からは、部屋に漂う中華料理の匂いに紛れて甘くていい匂いがした。 「なんだよ。匂いまで男前か」  すねたように悠翔は悪態をついたが、長い前髪がふわっと顔にかかる整った寝顔を見ると、毒づく気持ちもすぐに消えた。  この顔が近づいて、手の甲に口づける。その光景を思い出す。  上目遣いは普段おばさま方に見せている紳士的な璃空ではなく、動物的な本能を刺激する何かを感じさせた。  悠翔は他人のセクシャリティを詮索する方ではないし下世話な興味も偏見も少ないつもりだが、自分はゲイではないと思っている。  それでも璃空に、彼の洗練された優雅さに目を奪われる。それは女性的な美しさとは違う。彼のダンスや、日常の動作一つ一つは、芸術品を見ているような恍惚感を与える。その類いの精緻な美だ。  璃空自身にたぶん自覚はない。彼は常に自然体なのである。その自然体が浮世の毒に犯されていない。だからつんつんと取り澄ましたところもない。  粗野に見えて荒っぽい言葉遣いは決してしないからとてもフレンドリーに感じるし、何気ない気遣いが優しさを通り越して誘惑にすら感じることもある。しかしどれも深い意図は彼にない。自然と自分のうちから出てくる衝動に従って行動しているだけなのだ。それが人を引きつける。  天性の人たらし。  そういうのはもう生まれつきの才能とか、育ってきた環境とかの問題で、努力して身につくものでもない。わかっているが悠翔はうらやましくて仕方ない。悠翔はというと人並みには気を使って、周りとの協調や異性へのアプローチを努力してきた方だから。そこでは少なからず不自然な自分がいた。 「ずるいなあ」  悠翔はごそごそと背中を向ける。璃空も悠翔の体勢に合わせるようにごそっと身じろいだ。  璃空の長い腕が悠翔の背後から覆い被さってくる。指の長い大きな手がだらりと肩から前に垂れていた。 「大きな手……」  悠翔は璃空の手の中へそっと自分の手と重ねてみる。掌の大きさはさほど変わらないのに、指の長さは関節一つ以上は優に違う。足も大きかったな、と悠翔は玄関先の靴を思いだした。たぶん6cm近く違う。  足の大きさは姿勢の安定感に繋がる。体の重さだとか屈強さは明らかに悠翔の方に利があるのに、璃空と踊ったことのある人たちは皆口をそろえて言うのだ。  その安定感は桁違いだ、と。  だからみんな璃空と踊りたがる。特に決して手の離れないスタンダードを。日々の不安も、疲れた心も、彼とと踊ると元気になる。何があっても、しっかりと支えてくれる人がこの世界にはいるからまだ自分は大丈夫。そういう気持ちで自分の全力を出し切ることができるらしい。 「……どんな感じなのかな」  璃空は人気者だからいつもあちこちに引っ張りだこで悠翔はまだ一度も一緒に踊ったことがない。  何よりこんな王子様に筋肉ダルマの自分は似つかわしくない。  スタンダードなんてほとんど踊ったことがないから拙いに決まっている。不格好にぎくしゃくと踊った挙句、倒れた拍子に璃空を傷つけてしまうかもしれない。  そんなことを考えていると、重ねた手がきゅっと悠翔の手を包み込んだ。そのまま巻き込むようにして背後から抱きしめられる。 「クマちゃぁ~ん」  今度はどんな夢を見ているのか甘ったるい声で璃空は言う。  きっとふわふわで肉付きのいいクマのぬいぐるみでも抱いているのだろう。現実では自分なのだが、と思ったら悠翔は複雑な気持ちになった。  背中が、暖かい。  目を閉じると大きい体がぴったりと背後から悠翔を包み込んでいるのを感じた。甘くていい匂いもするし、心地よくてすぐに欠伸が出てくる。  自分でも知らないまま悠翔の瞼はすうっと閉じて、意識も夜の中へ落ち込んでいった。

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