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月見村へ

 プライベートでの酒生家へお泊りが決まった帰り道のことだった。  お馴染みの赤いスクーターを走らせながら、中埜は何とも言えない気持ちを持て余していた。 (中埜さんの、手料理がいただきたいのです)  酒生の台詞を思い出し、なぜか中埜は赤面した。 (ま、まるでプロポーズじゃないか…)  かなり昭和的な感覚の中埜は、手料理を食べたいなどと言われて、動揺していた。  確かに、酒生教授とは相性が良いと思う。一緒に居て気負う必要が無いし、食の味覚も合う。食事をしていて楽しいし、週2回の月見村がこれほど待ち遠しいと思えるのは、酒生のおかげだと思う。  しかし、その先の感情が自分でも見えない。  なんとも言えないもどかしい感情を胸に、満月の夜の期待と不安にかき乱される中埜だった。 ***  金曜の夕方に買い物を済ませておいた中埜は、とっておきの手土産を用意して、1日に数本しかない月見村を通るバスに乗りこんだ。  午前中、村を出るバスはかつての通勤通学用の6時30分と、買い出しなどに便利な8時50分の2本だけ。逆に街から村へと向かうには駅前から10時40分発の1本しかない。乗り遅れないよう、中埜はきちんと10分前にはバス停でバスを待っていた。  その手には何かがぎっしり入ったエコバッグ、背中にも大きなリュックを背負っていた。 「なんだかイヤな天気ね」  同じバスに乗った、酒生教授と同じくらいか少し年上くらいのご婦人が話しかけてきた。  ご婦人は、月見村のそのさらに奥にある村に住む、1人暮らしの姉を訊ねるのだという。そこもまた限界集落だが、中埜の配達地域ではなく隣の深沼(みぬま)町の管轄だった。 「そうですね。一雨(ひとあめ)、来そうですね」  相変らず人の好い中埜は、ここでも愛想良く応じるが、ご婦人は眉を寄せていた。天には厚い雲が広がっていた。 「一雨どころじゃないわよ。きっと大雨になるわ。行きはともかく、帰りの大雨は困るわ~」  困るのは、中埜も同じだった。今夜は酒生家に宿泊するのだから、帰りの心配はない。しかし、今夜は満月を眺めるのを楽しみにしていたのだ。この雨雲のせいで、見事な月が見られないのかと思うと、中埜は少し恨めしく思った。  月見村に続く農道の手前にバスの停留所はある。そこで下車したのは、やはり中埜1人だ。初めてのバスでの訪問に、なぜか少し緊張していた。  いつもは赤いスクーターで走り抜ける道を、中埜はテクテクと歩き出した。速度が違うせいか、視線の高さが違うからか、なんだか月見村そのものがいつもと違うように見える。  今日は土曜だからか、買い出しに出たり、遊びに行ったりしている村人もいるため、平日の配達時以上に、この村は閑散としている。  ゆっくりと歩きながら、中埜は改めて思う。以前は、休みの日には街から家族や親戚を訊ねてくる人たちも多く、平日よりも賑やかだったと聞く。平日しか知らない中埜だったが、かつての村に思いを巡らせると、なんだか切ない気持ちになった。  やはり、人も、村も、老いていくのは止められない。  そんな思いを胸にしながら、中埜はようやく酒生家に続く坂道の下まで辿り着いた。 「あら、まあ、珍しい!」  甲高い悲鳴のような声に驚いて、中埜は振り返った。  そこにいたのは、いつも酒生家に届けて欲しいと、自家製のお漬物や佃煮を中埜に預ける独り暮らしのご婦人だった。1人暮らしですることもなく、手すさびに保存食を作るのが趣味なのだ。 「中埜さんじゃないの!制服を着ていないなんて、初めて見たわ!」  そう言われて、何と答えて良いのか分からず、中埜はただ平素と変わりない、人の良さそうな笑顔を見せた。 「昇一郎さんのところへ?まあ、いつの間にそんなに仲良くなったのよ」  笑いながら言われて、なんだか気恥ずかしく、中埜はこめかみをコソリと掻いた。 「でもちょうど良かったわ。今、酒生家に行くつもりだったのよ。でも、この坂がきつくてね。若い頃は、駆け上がったものだけど、今じゃとてもじゃないわ」  確か、酒生教授と彼女は小学校の同級生だと言っていた。中埜はふと、教授もまたこの坂に苦労しているのではないか、と心配になった。 「これ、昇一郎さんに届けてくれる?」 「なんですか?」  いきなり2リットルのペットボトルを押し付けられ、中埜は慌てた。ボトルはラベルを外されていて、何かの再利用だと分かった。中の液体は不明だが、確かに約2キロのボトルを抱えてこの坂を登るのは、ご婦人には厳しい事だろう。 「今年の梅酒。何年か置いておくと美味しくなるけど、新物は今だけだから。容器がアレだから、早めに飲み切って、と伝えて。あ、今日は仕事じゃないんなら、中埜さんも飲んで行きなさいよ」 「ありがとうございます。そのように、酒生さんにも伝えますね」  いつまでもご婦人のおしゃべりに付き合う時間が惜しくて、中埜はそう言って話を切り上げ、颯爽と坂道を登って行った。

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