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湯上りのシルクのパジャマ

 中埜がお風呂から上がると、先程までいた座敷の襖が解放されていて、隣の部屋に布団が敷いてあった。 「お先にすみません。すごいお風呂ですね。広いし、テレビは付いているし、ジェットバスだし。それと…、お借りしたパジャマもピッタリでした…」  湯上りのほてりなのか、紅潮させた頬を緩めて、中埜は絶賛した。 「贅沢だとは思ったのですが、使ってみると、いろいろ便利なものでね。ああ、パジャマ、着て下さったのですね。良かった。サイズも合っていますね。それと『借り物』ではありませんよ。たくさんあるので、貰って下さい」 「え!いいんですか?お高いものなのでは…」  遠慮しながらも、うきうきと楽しそうな中埜に誘発されてか、酒生も機嫌が良さそうにしている。 「ご心配なく。それより、まだ早いでしょう?私が戻るまで、待っていていただけますか?湯上りに一杯やりましょう」  そう言うと、酒生は座敷を出て行った。  中埜が見回すと、すでに布団が敷いてあるだけでなく、座卓の上の先ほどまでの食べ物は片付けられていて、新たにビールと枝豆が用意されていた。  細やかな気遣いに申し訳なく思いながらも、中埜はシルクのパジャマのまま定位置とも言える座布団の上に座った。  オフホワイトのシルクのパジャマの肌触りの良さを堪能しながら、中埜は気恥ずかしさを覚えていた。まるでセレブの猿真似をしているようで、どうも気が引けた。けれど、これが酒生からのプレゼントだと思うと、なぜか心が浮き立つ。  用意されていたビール瓶の栓を開け、手酌でグラスに注ぐ。それをグッと一息で飲むと、湯上りの喉の渇きが癒された。  ふと、酒生教授が服を脱ぎ、シャワーを浴び、湯船に浸かる姿が脳裏に浮かぶ。ふわりと気持ちが舞い上がる気がした。この高揚感に慌てて、中埜はさらにビールを飲んだ。 (いい年をして、男の裸を想像してどうする!)  だが、それは決して不快ではなく、むしろ快美とも言える感情を伴っている。 (まるで、好きな人を妄想している…よう、な…?)  突然、中埜は自分の無意識と向き合ってしまい、内心、大いに動揺してしまう。  まさか自分が、年上の同性に、こんな甘い気持ちを抱くとは…。これはもう、ただの友情では無かった。  それに気付いた中埜は、どうしてよいのか分からず、今、酒生が戻ったら、どんな顔をして向き合えば良いのか、筆舌に尽くしがたいほど苦悩していた。  やがて、まるで蒸したての肉まんのようにホコホコした酒生が、中埜と同じシルクのパジャマで現れた。酒生のパジャマは薄い水色で、縁取りに白いパイピングが施されている。それが、オフホワイト1色のものよりも若々しく見え、中埜は妙にどぎまぎした。  2人はただ居心地の良い空気に包まれ、静かにビールを酌み交わし、穏和に微笑み合った。  夜も深まり、暴風は収まり、ひたすら雨音だけが聞こえていた。 「『雨夜の品定め』、というのをご存知ですか?」  日付が変わろうとする頃、すっかり酔いが回り、座卓に肘を置き、とろんとした上目遣いで、いきなり酒生が言った。 「あ、なんでしたっけ?聞いたことありますけど…」 「『源氏物語』ですよ。あの作品の中には、漢詩、漢文の教養がたくさん出てきます。でも、知っていますか?元の漢文の原書で確認すると、源氏物語のどの知識も、原書の最初のほうばかりなんですよ」  そう言って、酒生は無邪気にクスクス笑った。 「作者は、最後まで読み切れなかったのかもしれませんね」  酒生は楽しそうに笑って、そのまま口を閉じてしまった。 「ええっと、『雨夜の品定め』 というのは…、光源氏が友達と過去の女性遍歴を語るやつでしたっけ?」  中埜は、何10年も前の学生時代の授業で得た、なけなしの古典の知識を引っ張り出しながら語り出した。 「ああ、そう。そうですよ」  緩くにこやかにしていた酒生が、ふっと真剣な眼差しに変わった。 「今夜は、ちょうど雨です。私も源氏に倣って昔の話をしても?」  穏やかな表情の酒生の目つきの厳しさに、有無を言わさぬものを感じ、中埜は何も言わずに頷いた。 「学生時代…、恋をしました。向こう見ずで、傍若無人な恋でした」  中埜には、もう分かっていた。それが、もうこの世にはいないと酒生が言っていた「友人」のことだ、と。それでも、中埜は黙って聞いていた。 「出会いは高校時代。その頃は、お互い『親友』だと思っていました。同じ大学を受け、私は中国文学を、『彼』は中国哲学を専攻しました」  中埜が口を開かない以上、酒生が息を継ぐと雨音だけが大きく響いた。 「少しずつ、少しずつ、お互いにそれが『友情』以上のものだと気付きました。肉欲的なことではないのです。ただ、一緒にいて、笑ったり、泣いたり、怒ったり…。ひたすら語り合うこともありました。2人で一緒にいる、それだけで充分で、幸せでした」  グッと、酒生が唇を歪めた。 「ただ、それだけだったのです。ただ、これまでと同じく、一緒にいる。ずっと…、人生が終わる時まで、ずっと一緒にいる…。それだけを、望みました」  その時、酒生の頬に、涙が一筋流れた。

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