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第1話

❖ ── ✦ ── ❖ 第1幕 修羅場の夜 ❖ ── ✦ ── ❖ 深夜。 窓の外は静かで、部屋の中だけが戦場だった。 ペン先が紙を叩く音が、時計の秒針と一緒に心臓を突き刺す。 あと数時間で〆切。 あと数枚で入稿。 ――止められない。 止めたら全部が終わる。 ⸻ 「柳瀬さん、ここのトーンお願いします!」 「写植も、まだ残ってます!」 アシスタントの声は泣きそうに震えていた。 「わかった。まとめてそこに置いとけ」 柳瀬優は落ち着いた声で答える。 その声は冷静で、指の動きは正確で、なのに響きだけはやけにやさしい。 「ここから角度流す。……はい、次」 命令のように、でも不思議と安心させる響き。 アシスタントたちは小さく頷いて、再び手を動かす。 「ありがとうございます……!」 切羽詰まった声に、千秋は胸を抉られるように感じた。 ――俺がもっと早く仕上げていれば。 ――みんなをこんなに追い込むこともなかったのに。 ⸻ 胃が焼ける。 目の奥が熱い。 でも、ペンは止まらない。 「……やば……やばいやばい!」 内心で何度も叫ぶ。 でも声に出したら、本当に崩れてしまいそうで。 汗が頬を伝い、原稿用紙の端を濡らした。 慌てて袖で拭いながらも、手だけは止めなかった。 ⸻ そのとき、机の端でスマホが震える。 『印刷所と交渉中。三十分は稼げる。――羽鳥』 たった一文。 それだけで、呼吸が変わる。 電話越しに響いた低い声が、まだ耳に残っている気がした。 羽鳥が動いている。 そう思うだけで、もう少しだけ走れる。 ……でも。 同時に、胸の奥に別の痛みが膨らんでいく。 ――俺は、結局。 ――優に頼って、羽鳥に守られて。 ――自分じゃ、何ひとつできてないんじゃないか。 悔しさと焦燥で、指先がまた震えた。 ⸻ 「柳瀬さん……すみません、トーン足りなくて!」 「写植、ずれました……!」 アシスタントたちの声が限界に近づいていた。 声が裏返って、涙が滲んでいるのが分かる。 「落ち着ついて。……ここは俺がやるから。みんなは休憩してきていいよ」 優が短く告げると、不思議と空気が安定した。 彼の手の動きは速く、正確で、迷いがない。 アシたちは一瞬迷ったが、震える足を引きずって控室へと消えていった。 残ったのは――千秋と優だけ。 ⸻ 「……っ」 千秋のペン先はもう限界で、紙の上を擦る音すら重たかった。 視界が霞む。 胃が痛む。 吐き気すら込み上げてくる。 「千秋」 すぐ横から声が飛んだ。 優の手が、千秋のペン先に新しいインクを落とす。 「大丈夫だ。……俺がついてる」 その一言に、呼吸が一瞬だけ楽になる。 同時に、胸が締めつけられた。 ――俺は、また。 ――優に助けられてばっかりだ。 情けなさと、どうしようもない安心が同時に押し寄せる。 ⸻ スマホが再び震えた。 『交渉成立。入稿、ギリギリ間に合う。データを回せ。――羽鳥』 文字を見た瞬間、全身の力が抜けそうになった。 「……トリ……」 千秋は思わず名前を口にしかけて、慌てて唇を噛む。 優がちらりとこちらを見る。 その視線はやさしいはずなのに――胸の奥がざわめいた。 ⸻ 最後のコマに線を引く。 トーンを貼る。 白を入れる。 そして―― 「……終わった」 千秋の声は、驚くほど小さかった。 けれど、机の上には確かに完成原稿が積まれている。 優が大きく息を吐き、わざとらしく肩をすくめた。 「ほらな。言っただろ、間に合うって」 千秋は机に突っ伏した。 涙なのか汗なのか分からない熱が、頬を伝う。 「優……ありがと」 掠れた声でそう漏らした瞬間、胸の奥で別の鼓動が跳ねた。 ⸻ 玄関の方で、重たいドアの音がした。 羽鳥が戻ってきたのだ。 「吉野、よくやった」 低い声が、夜の空気を変える。 束ねられた原稿を手際よく確認し、羽鳥は出版社へ向かう準備を始めた。 千秋は、安堵と同時に―― また違う種類の緊張を覚えていた。 ⸻

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