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第1話
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第1幕 修羅場の夜
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深夜。
窓の外は静かで、部屋の中だけが戦場だった。
ペン先が紙を叩く音が、時計の秒針と一緒に心臓を突き刺す。
あと数時間で〆切。
あと数枚で入稿。
――止められない。
止めたら全部が終わる。
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「柳瀬さん、ここのトーンお願いします!」
「写植も、まだ残ってます!」
アシスタントの声は泣きそうに震えていた。
「わかった。まとめてそこに置いとけ」
柳瀬優は落ち着いた声で答える。
その声は冷静で、指の動きは正確で、なのに響きだけはやけにやさしい。
「ここから角度流す。……はい、次」
命令のように、でも不思議と安心させる響き。
アシスタントたちは小さく頷いて、再び手を動かす。
「ありがとうございます……!」
切羽詰まった声に、千秋は胸を抉られるように感じた。
――俺がもっと早く仕上げていれば。
――みんなをこんなに追い込むこともなかったのに。
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胃が焼ける。
目の奥が熱い。
でも、ペンは止まらない。
「……やば……やばいやばい!」
内心で何度も叫ぶ。
でも声に出したら、本当に崩れてしまいそうで。
汗が頬を伝い、原稿用紙の端を濡らした。
慌てて袖で拭いながらも、手だけは止めなかった。
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そのとき、机の端でスマホが震える。
『印刷所と交渉中。三十分は稼げる。――羽鳥』
たった一文。
それだけで、呼吸が変わる。
電話越しに響いた低い声が、まだ耳に残っている気がした。
羽鳥が動いている。
そう思うだけで、もう少しだけ走れる。
……でも。
同時に、胸の奥に別の痛みが膨らんでいく。
――俺は、結局。
――優に頼って、羽鳥に守られて。
――自分じゃ、何ひとつできてないんじゃないか。
悔しさと焦燥で、指先がまた震えた。
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「柳瀬さん……すみません、トーン足りなくて!」
「写植、ずれました……!」
アシスタントたちの声が限界に近づいていた。
声が裏返って、涙が滲んでいるのが分かる。
「落ち着ついて。……ここは俺がやるから。みんなは休憩してきていいよ」
優が短く告げると、不思議と空気が安定した。
彼の手の動きは速く、正確で、迷いがない。
アシたちは一瞬迷ったが、震える足を引きずって控室へと消えていった。
残ったのは――千秋と優だけ。
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「……っ」
千秋のペン先はもう限界で、紙の上を擦る音すら重たかった。
視界が霞む。
胃が痛む。
吐き気すら込み上げてくる。
「千秋」
すぐ横から声が飛んだ。
優の手が、千秋のペン先に新しいインクを落とす。
「大丈夫だ。……俺がついてる」
その一言に、呼吸が一瞬だけ楽になる。
同時に、胸が締めつけられた。
――俺は、また。
――優に助けられてばっかりだ。
情けなさと、どうしようもない安心が同時に押し寄せる。
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スマホが再び震えた。
『交渉成立。入稿、ギリギリ間に合う。データを回せ。――羽鳥』
文字を見た瞬間、全身の力が抜けそうになった。
「……トリ……」
千秋は思わず名前を口にしかけて、慌てて唇を噛む。
優がちらりとこちらを見る。
その視線はやさしいはずなのに――胸の奥がざわめいた。
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最後のコマに線を引く。
トーンを貼る。
白を入れる。
そして――
「……終わった」
千秋の声は、驚くほど小さかった。
けれど、机の上には確かに完成原稿が積まれている。
優が大きく息を吐き、わざとらしく肩をすくめた。
「ほらな。言っただろ、間に合うって」
千秋は机に突っ伏した。
涙なのか汗なのか分からない熱が、頬を伝う。
「優……ありがと」
掠れた声でそう漏らした瞬間、胸の奥で別の鼓動が跳ねた。
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玄関の方で、重たいドアの音がした。
羽鳥が戻ってきたのだ。
「吉野、よくやった」
低い声が、夜の空気を変える。
束ねられた原稿を手際よく確認し、羽鳥は出版社へ向かう準備を始めた。
千秋は、安堵と同時に――
また違う種類の緊張を覚えていた。
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