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早鐘
「私はクラリス! 鬼の王ヴィクターよ、おまえを討って我が名を世界に刻む!」
凛とした声が夜明けの空気を震わせる。敵の急襲を告げる教会の鐘が、怒声のように街中へ響き渡った。低く重い音は何度も繰り返され、石畳を伝って城下の隅々まで轟く。
兜を抱えて駆け出す兵士、子を抱えて戸口へと消える母親。鐘の音は、平穏な一日の始まりを容赦なく断ち切り、戦の始まりを告げる冷たい刃のようだった。
空中を旋回する竜の背中で、クラリスは眼下を睨む。淡い金髪は風に揺れ、朝の光を受けて柔らかな絹糸のように輝いた。大きな瞳は青と灰色の間で揺らめき、見る者の心を捕らえて離さない。頬は寒さでわずかに色づき、あどけなさを残す細身の体躯は、剣を振るうよりも舞う方が似合いそうだった。
クラリスは、ベルネアの背中を軽く叩き、旋回を指示する。
「右へ! あの部隊を狙え!」
青い鱗を煌めかせた竜が急降下し、クラリスは雷の魔法を放った。白光が地を裂く。爆ぜる衝撃で兵士たちは吹き飛び、武器を手放して地面に叩きつけられた。焦げた匂いが鼻をつき、確かな手応えが胸を満たした。
城壁の上では弓兵たちが次々と矢を番え、空へと放つ。矢羽の唸りが耳をかすめるたび、ベルネアの翼がひときわ強くはためいた。
「避けろ!」
ベルネアはクラリスの声に応え、滑空から急上昇へと転じる。矢を弾き返すため、クラリスは炎の魔法を放った。炎が燃え移った矢が落下して、兵士たちの服を焼き、悲鳴が地上に散る。
だが、さすがは一国を守る城。兵士の数は尽きることを知らない。このまま全員を相手にしていては、魔力がもたないだろう。
「ベルネア、東の塔だ!」
クラリスが指示を出すと鋭い鳴き声が返り、竜は翼を広げて方向を変えた。
やがて視界の先、バルコニーに濃紺の寝間着をまとった巨躯が現れた。漆黒の長髪を背に流し、二本の角が額から鋭く突き出ている。岩のように鍛え上げられた肩や胸板。闇色の双眸は光沢を帯び、視線ひとつで獲物を貫こうとしていた。
鬼の王ヴィクター。その圧倒的な存在感からして、“鬼の正当な世継ぎは、国が危機に陥ると巨大化して救う” という言い伝えが、あながち嘘でもないように思われた。
「何事だ!」
城中に響く怒声が、クラリスの耳を打つ。傍らの家臣たちが慌ただしく経緯を説明している間、クラリスは詠唱を終えて雷を放った。稲妻はヴィクターの頬をかすめ、背後の壁を焦がす。
「あと少し……!」
悔しさを飲み込みながらも、クラリスは矢継ぎ早に攻撃を繰り出そうとする。だが地上からの弓矢や魔法が相次ぎ、ヴィクターに集中するのは容易ではない。
(ヴィクターさえ討ち取れば私は……)
地上からの攻撃が手薄になった隙を見計らって、クラリスはもう一度ヴィクターに向けて雷の魔法を放つ。しかし、今度は早々に見切られてしまった。
「さすが、鬼の王。飲み込みが早いな」
ヴィクターは家臣が用意した弓を構える。一介の兵士が持つ物とは違って、遠目からも分かるくらい豪奢な弓だ。矢を弦に宛がい、ぎりぎりまで引き絞る。
クラリスは放たれた矢を簡単に避けた。それでもヴィクターは顔色ひとつ変えない。
「その程度の弓で私を落とせると思っているのか!」
クラリスは挑発する。ヴィクターは目を細めると
「面白い。我を本気にさせたな」
と次の矢を放った。それは、まるで生き物のように軌道を変え、クラリスを追いかける。
「何だ……この矢!」
戸惑っている間も地上からの攻撃は途切れることなく、クラリスは慌ててベルネアを真上に羽ばたかせた。
「もっと早く討ち取れると思ったのに……」
魔力は半分を切った。決着を急ぐべく、クラリスは渾身の雷を放つ。しかし、ヴィクターは逃げるどころか逆に矢を放った。雷は寸前で躱され、矢だけが一直線に迫る。ちょうど地上からの攻撃が重なり、ベルネアが制御を外した。
(当たる──!)
鋭い痛みがクラリスの左肩を貫いた。視界が揺らぎ、耳の奥で鐘の音が遠のく。手綱を握る力が抜け、指先が痺れ始めた。
(毒……?)
呼吸が浅くなり、クラリスの意識が闇に沈んでいった。大地が迫る──その瞬間、鋼の腕が彼をさらい取った。鎧のきしむ音、兵士の息遣い、ベルネアの悲痛な叫び。
ベルネアは、なおも主を見下ろし続けたが、地上からの攻撃を浴びると、鳴き声を残して夜明けの空に消えていった。
城の入口にヴィクターが姿を現す。その頬には雷で焦げた痕が残っていた。
「この者、処刑いたしましょうか?」
横たえられたクラリスを見て、長老のロボアールが問う。
「……いや、殺すには惜しい」
ヴィクターは、眠るクラリスの頬を撫でて低く笑った。
「きれいな顔をしている。華奢な体つき……戦士より稚児の方がふさわしいくらいだ」
好色な眼差しに、ロボアールは眉をひそめた。
「裸にしてベッドに寝かせろ。鎖も忘れるな」
寝間着を翻し、ヴィクターは城内へ入っていく。その目は新たな玩具を手に入れた歓びで爛々と輝いていた。
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