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回想(1)

鬼の国の南側に連なる山々を、賊たちは我が物顔で支配していた。谷を抜け、峠を越えようとする旅人を襲い、馬車ごと荷物を奪う──それが彼らの日常だ。その中でも、竜と魔法を操るクラリスは異彩を放つ存在だった。 山風を切って飛ぶベルネアの翼。真下で驚き、立ちすくむ馬車。雷の閃光が地を裂き、悲鳴が響く。抵抗する隙を与えず、獲物は沈黙し、荷物は山賊の手に落ちる。今日もまた、奇襲は寸分違うことなく成功していた。 アジトに戻ると、灰色の外套の裾を翻して、小柄な影が駆け寄ってくる。足音は驚くほど軽く、気づけばすぐ目の前だ。ティア──クラリスより少し背が低く、細身の体は無駄な肉が一切ない。獣のようなしなやかさを湛えている。 乱れた黒髪は首元でざっくりと切り揃えられ、風にそよぐたびに瞳の色が覗いた。一見あどけない顔立ちだが、立ち姿には隙がなく、指先まで研ぎ澄まされた気配が漂う。腰の双短剣が微かに光を反射していた。 「クラリスの兄貴! 今日も大収穫だね」 息を弾ませながら、荷を引いてきた仲間たちを振り返る。 「収穫じゃないよ。ただ奪ってきただけだろう」 肩をすくめるクラリスに、ティアは屈託なく笑った。 鬼の国では、鬼がすべてにおいて優遇される。人間であるクラリスもティアも他の山賊たちも、まともな職を得る道は閉ざされていた。だからこそ、ここで生き延びるためには奪うしかない。 それでもティアは言う。 「俺なんかじゃ、こんなにうまくやれないよ。尊敬するなぁ」 「ティアだって腕利きのアサシンだ。そのうち一人でもやれるさ」 ティアは毒の扱いに長け、気に入らない相手には仲間であろうと容赦なく盛る。そのせいで山賊たちは距離を置き、機嫌を損ねないよう気遣っていた。恐怖を武器にして一目置かれるティアを、クラリスは羨ましく思う。自分もまた、魔法で山賊たちを制し、強さを示してきたつもりだったが──。 「よぅ、クラリス。やっと帰ってきたか」 甲高く響く声に、周囲の者たちがさっと道をあける。そこに立っていたのは、山賊の頭目エルネスト。日焼けした褐色の肌に、口元の無精髭。額から後ろへ乱雑に束ねられた栗色の長髪が、動くたびに馬の尾のように揺れた。笑えば白い歯が覗く。 クラリスは何も言わず、すれ違おうとした。だが、逞しい腕が背中に回り込み、あっという間に捕らえられる。 「無視するな」 「は、離してください」 抵抗するも、力では敵わない。厚い胸板に引き寄せられ、唇を奪われた。息が詰まり、意識が遠のきそうになる。ティアを見れば、すでに視線を逸らして通り過ぎた後だった。 「冷たくするなよ。俺とおまえの仲だろ?」 「そ、そんなの……知らないです」 「昔は素直だったのにな。いつから可愛げがなくなったんだ?」 その澄んだ瞳は、十年前、初めて自分に手を差し伸べたあの日と同じ色をしていた──。 * クラリスの家は貧しかった。何人も子どもを養えるほどの余裕はなく、わずかな食事では腹を満たすこともできない。空腹をなだめるため、山に入って果実をむさぼるのが日課になっていた。 その日は、奥まで入りすぎたのかもしれない。クラリスは帰り道が分からず、足元の落ち葉を踏みしめながら泣いていた。湿った土の匂いが濃く漂い、小鳥のさえずりがふと途絶える。次の瞬間、葉擦れの音に混じって、重く確かな足音が近づいてきた。 視界に現れたのは、自分よりはるかに大きな人間の男だった。肩幅は広く、腕は逞しく、まるで岩を踏み割るような足取り。ただ立っているだけで、山のような威圧感を放っている。だが、クラリスを覗き込む瞳は意外なほど柔らかだった。 「可愛い顔をしてるな」 甲高い声と共に、温かな手のひらが涙で濡れた頬をそっと撫でる。そのぬくもりに、胸の奥がじんわりと緩んだ。 「俺のところに来れば、たらふく喰わせてやるぞ」 「知らない人についていってはいけない」──そう教えられていたはずなのに、空腹と男の優しさには抗えなかった。 手を伸ばした瞬間、ぐいと力強く引かれ、そのまま厚い胸板に抱き上げられる。硬い腕の圧力に息が詰まり、反射的に小さな悲鳴が漏れた。けれども、こんな山奥では、その声が誰かに届くこともない。逃げる術もなく、クラリスはそのぬくもりにしがみつくしかなかった。 たどり着いたのは、焚き火の赤い光に照らされた山賊たちのアジト。豪快な笑い声と肉の焼ける匂いが漂い、目の前に並べられた料理の数々に幼い胸は期待で高鳴る。男は目を細め、その様子を意味ありげに眺めていた。 「腹いっぱいになるまで食べていいんだぞ」 その言葉に背中を押され、クラリスは夢中で料理を口に運んだ。肉汁が滴る厚切りのステーキ、香ばしく焼き上げられた魚、野菜が溶けるほど煮込まれたシチュー、そしてふかふかの白いパン。舌の上で温かさがとろけていく。生まれて初めて知る満腹という感覚に、体が癒されていった。 やがて、クラリスは安堵して男の膝に身を預け、頭を撫でられるまま、ゆるやかな眠りに落ちていく。焚き火の弾ける音が子守唄のように耳をくすぐった。 そして──再び目を覚ましたとき、空気が変わっていた。膝のぬくもりはそのままに、周囲の視線が妙に熱を帯びている。何かがおかしい、と幼い本能が告げていた。ランタンの灯りは落とされ、焚き火の光だけが壁に大きな影を映していた。 その影が、ゆっくりとクラリスに覆いかぶさってくる。大きな手のひらが肩に置かれ、逃げ道を塞ぐ。胸の奥で、冷たいものがじわりと広がった。 「怖がるな……大丈夫だ」 甲高い声が耳元で響き、息が頬をかすめた。背中を撫でる手のひらは温かいはずなのに、全身が強張って動けない。焚き火の爆ぜる音さえも遠くなり、代わりに聞こえるのは、重く響く鼓動と自分の呼吸だけ。世界が暗く沈み、時の流れが消える。 ──その夜を境に、クラリスはもう子どもではいられなくなった。

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