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回想(2)
あの夜からずっと、クラリスはエルネストの稚児だった。どんなに魔法を身につけ、一人で戦える強さを持った今でも、それは変わらない。
夜のアジトは、ランタンの灯りと低い笑い声に包まれていた。外の風が入り込み、仕切り代わりの幕がふわりと揺れる。ここはクラリスの寝床。地位の高い彼は、それなりに良い寝床を与えられていた。けれども、自分一人の場所ではない。
「……おまえ、やっぱり俺のそばにいてくれるんだな」
長身の影が潜り込み、エルネストの顔が暗闇の中に浮かび上がる。相変わらず、澄んだ瞳はまっすぐで、どこか挑むような光を宿していた。
「他に寝る場所が無いからです」
頭から被った毛布は、あっけなく剥がされた。エルネストの手が体に伸びる。
「離して……」
クラリスが身を捩っても、肩を掴む手はびくともしない。逞しい指が顎を持ち上げ、視線を絡め取る。
「……やっと捕まえたぞ」
掠れた声が、胸の奥を震わせた。その距離をためらいなく詰められ、唇が重なる。熱の塊が喉へと流れ込み、背中を支える腕が腰へ回された。
寝間着があっけなく脱がされる。夜の冷気が肌を撫で、誰かのぬくもりを求めずにはいられない。自然とエルネストの体に寄り添い、心臓の鼓動が耳の奥で鳴り響いた。
「逃げないんだな」
嬉しそうな声が耳元で囁く。触れ合う肌と肌。覆いかぶさる影が、視界のすべてを塞ぐ。熱が高まり、息が浅くなる。世界がエルネストだけで満たされていった。
やがて、エルネストの手が、迷いなくクラリスの素肌を撫でた。指先が肩から腰へと緩やかに下り、その軌跡を追うように体が火照ってくる。
「……俺を気持ち良くしてくれるんだろ?」
エルネストの問いかけに、クラリスは何も答えない。ただ、慣れた様子で押しつけられた一物に刺激を与え続けた。
唇を再び奪われ、抗う間もなく舌を絡め取られた。エルネストの体温が厚い胸板越しに伝わり、押し寄せてくる熱がクラリスの背中まで包み込む。衣擦れの音は、密やかに夜を満たしていった。
やがて、影は絡み合い、一つになる。すっかり体に馴染んだエルネストの一物を、クラリスは難なく受け入れた。熱い吐息が首筋をなぞり、指先が髪を掬う。触れられるたびにクラリスの体は反応し、逃げ場を失っていく。
「……おまえは、俺のものだ。今までもこれからも」
押し殺したエルネストの声が、耳の奥に刻まれる。その言葉は甘くて重くて、心を捕らえて離さない。時間の感覚が溶け、音も光も遠のいていく。
(もっと、私に触れて欲しい。いかせて欲しい……)
やがてエルネストが体を強張らせると静寂が訪れ、クラリスは腕の中で小さく息をついた。残ったのは、荒い呼吸と互いの体温だけ。肌が冷えるにつれて、期待は失望に変わった。自分さえ満足すれば終わり。それがエルネストのやり方だった。
「……気持ち良かったぞ」
エルネストの満足げな声が耳元をくすぐった。ごつい指先が器用にクラリスの肌を滑り、首からかけた緑色のペンダントをつまみ上げる。
「これ、つけてくれてるんだな」
アジトに来て間もなく、エルネストから贈られたものだ。その時、彼は「お守りだ」と笑った。中には“命のしずく”と呼ばれる、水晶のかけらのような薬が収められている。生き返りの薬だというが、本当のところは分からない。遠い昔に、エルネストが旅人から奪ったものだ。
「お守りですから……」
「つまり、俺を愛しているということだ」
“そうだろ?”と見つめる瞳は、あくまでも優しく穏やかだった。だが、ペンダントを握られるたび、胸の奥がざわつく。これは守りの証なのか、それとも彼に繋ぎ止められる鎖なのか──。
クラリスは複雑な思いを隠しながら問いかけた。
「どうすれば……私を一人前とみなしてくれるのですか?」
その言葉に、エルネストの表情がわずかに歪む。
「別に、一人前にならなくていい。おまえは俺がずっと面倒を見てやるからな」
「けれども、私は……」
「クラリス!」
抗議の声は、唇によってふさがれた。いつも、そうだった。問いを投げても、誤魔化されてしまう。なぜだか分からないが、エルネストはクラリスが強くなることを望まない。それが、悔しくてたまらなかった。
「おまえは黙って俺のそばにいればいい」
強い口調に、言葉を返せなくなる。それでも、エルネストの体を押し返す勇気も力も持ち合わせてはいなかった。
「……そうだな。ヴィクターを一人で討ち取れたら、一人前の男と認めてやってもいいぜ」
からかうように笑う声。
鬼の国の王──ただ立っているだけでも気迫が伝わる威厳ある男。仲間が捕らえられ、命を落としたこともある。エルネストが目の敵にする理由を、クラリスはよく知っていた。
「本当ですか?」
「バカ、冗談だ。一人で討ち取れるわけがないだろう」
エルネストはクラリスを抱きすくめ、その厚い胸板に顔を押しつける。
「……おまえが死んだら、俺は泣くぞ」
震える声が耳に届き、汗の匂いが鼻腔をくすぐった。
“私は愛されているのだろう……” それでも、満たされない自分がいる。せめて、稚児扱いから抜け出し、一人前の男としてエルネストと肩を並べたい。何でも対等に言い合って、求め合えるような。
夜明け前、クラリスはそっとアジトを抜け出し、ベルネアのもとへ向かった。青い瞳が、主を見つけると柔らかく細められる。かつて瀕死の状態で山に倒れていたこの竜を救ったのは、クラリスだった。それ以来、ベルネアは彼にだけ背中を許し、世話も受け入れてきた。
撫でていた手が止まると、ベルネアは首をかしげる。
「……私のわがままに、付き合ってくれるか?」
人間の言葉をどこまで理解しているのかは分からない。けれども、短く鳴き声を上げて頬を寄せてきた。
「勝負をかけたいのだ。一人前になるために」
背中に飛び乗り、手綱を引く。ベルネアは高らかに鳴き、夜明けの空へと羽ばたいた。
「おい、クラリス! どこへ行くんだ!」
異変に気づいたエルネストが、寝間着もろくに整えぬまま外へ飛び出してくる。だが、クラリスを乗せたベルネアは、すでに空の点となっていた。
*
ベルネアの翼が夜明けを切り裂き、山並みの影が遠ざかっていく。冷たい風が頬を打ち、クラリスの迷いを削ぎ落としていった。
──稚児扱いは、もうごめんだ。一人前の男になって、エルネストを正面から見返してやる。
そのためには、鬼の王ヴィクターを討ち取らなければならない。たとえ、何の恨みもなくても。
「行こう、ベルネア!」
竜は高らかに鳴き、さらに高度を上げる。眼下には鬼の国の城下町が広がり、朝の光を浴びて静かに息づいていた。しかし次の瞬間、その平穏を破る鐘の音が空気を震わせた。敵襲の知らせに、街はざわめきに包まれる。
「私はクラリス! 鬼の王ヴィクターよ、おまえを討って我が名を世界に刻む!」
凛とした声は澄みきった空を駆け抜ける。こうして若き山賊は、たった一人で鬼の王を討つための戦いに飛び込むのだった。
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