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第1話
第一章 海原を渡って
揺れている。
窓から見える空は曇って、しかも雲が飛ぶように過ぎていく。
レネは横たわったまま今日の空を呪った。こんな天気でなければ、今頃は潮風に吹かれて心地よく楽しんでいたかもしれない。せっかくの船旅だというのに、ベッドから起き上がることもできず、ただうんうん唸っているだけとは。
船の揺れは想像を大きく超えていた。横になっていてさえひどい。いつになったら真っ直ぐ立てるのかと不安でならない。
少し離れたテーブルからは、幼い子どもの声が聞こえている。
「おまえはほんとうになさけないなあ。たかがふねじゃないか。よっぱらっておきあがれないなんて、どうしようもないやつだ」
子どもの両手には人形がひとつずつ握られている。片方がもう片方に叱られているようだ。この子が何を思ってその人形ごっこをしているかは、訊かずともわかる。
レネはどうにか顔を上げた。
「すみません、リュカ様」
リュカはふんと鼻を鳴らした。
「レネなんでよったの」
「今日は風が強いので、揺れが、少し」
リュカは右手の人形で左手の人形を叩いた。
「おまえがふねによったりするからつまらないじゃないか! ばかばか!」
ばかとはひどい。が、言い返せない。
今日のレネはまったく使いものにならなかった。レネが寝込んでいるからリュカもひとりではどこにも行けず、こうしてふたり船室に閉じこもっているのだ。
リュカはしつこく左手の人形を叩いている。右の人形が王子、左が従者である。つまり、リュカとレネだ。
リュカはついに不憫な従者人形を放り投げた。
「おまえなんかだいっきらいだ! ぼくはおとうさまのところへかえるからな!」
王子人形はおもちゃ箱へ帰ったようだ。
レネはひそかにため息をつく。ぼくはおとうさまのところへかえる――人形の王子はおもちゃ箱に帰るが、そこに「おとうさま」はいない。そしてリュカは、少なくともあと一年は父親のもとへ帰ることができない。
リュカの茶色い巻き毛や透き通った青い瞳は本来愛らしいもののはずが、への字に曲がった口と眉間に寄った皺がすべてを台無しにしていた。
ふたりを乗せた船は大型の全装帆船である。三本のマストが立ち、帆をいっぱいに張った勇壮な姿を目にした時は、レネも心が躍った。いつもむっつりと膨れているリュカでさえ、ぽかんと口を開けたものだ。
出航したのは一昨日の朝だった。航海は二日半を予定している。今日の夕方には到着するはずだ。
思い返せば出航当初から雲行きは怪しかったのだ。海上に出てからどんどん雲が増え、今朝からは風も出てきた。
「こんなのたいしたあらしじゃないのに、レネがなんじゃくなんだ」
リュカがぶつぶつ言うのは、船員たちの受け売りである。この程度の時化はよくあることだそうだ。だいたい子どものリュカが平気な顔をしているのに、大人のレネが酔うなんてと、どうも笑われているらしい。
「リュカ様にはかっこいいところをお見せしたかったのですが」
精いっぱいの冗談だったが、リュカには睨まれた。
「レネはかっこわるいよ。ふねにもようし、ぜんぜんつよくないし、ばか」
文句を言うのにも飽きたようで、リュカはおもちゃ箱を開けた。せっかく入れた王子人形が飛び出す。
「ぼくのえほんはどこ? えほんがないよ」
「ありますよ。入れたのを覚えていらっしゃるでしょう?」
「ない!」
そんなはずはない。リュカのおもちゃ箱は小さなもので、人形ふたつとおもちゃをいくつか、絵本を数冊でいっぱいのはずだ。「ない」と言い張るのは、拗ねているのだろう。
「後で一緒に探しましょうね」
「ぼくのえほん」
リュカはテーブルを蹴り始めている。レネがいま絵本を探してくれないために、不機嫌が増したようだ。
ややあって、小さな声が聞こえた。
「はやくふなよいなおしてよ」
レネはどうにか微笑んだ。
「リュカ様は私を気遣ってくださるのですね。ありがとうございます」
少年は驚いたように目を瞠り、そっぽを向いた。
つらい船旅が進み、ようやく港が見えてきたのは、それから数時間後のことだった。
レネはそれをベッドで知った。相も変わらず起き上がれない。船員が知らせにきてくれたので到着が近いとわかり、早く、早くと祈っていた。
船旅に飽きたリュカも、知らせを聞いて窓に飛びついた。
「ほんとうだ! みえる!」
船は速度を落とし、港に入る。
「助かった……」
レネの口から掛け値なしの本音が漏れる。
しかし身体を起こしたとたんに吐き気が襲ってきて、レネは慌てて便所に這っていった。
――どうしてこんな目に。
出たのは胃液だけだ。朝から何も食べていないのだから当然ではある。それでも少しは楽になった。
口を拭い、ふらつきながら船室に戻る。
リュカが唇を尖らせていた。
「なにやってるの。レネがいないとぼくおりられないよ」
「すみません」
レネは船室の荷を確認する。散らかっているのはリュカのおもちゃ箱くらいだ。着替えや日用品は使う時のみ取り出す方式にしておいてよかった。今回自分の判断が正しかったのはそれだけかもしれない。
レネが持つのはリュカのものと自分のもの、身の周りの品を詰めたふたつの鞄だけだ。ほかは船員たちに下ろしてもらうよう頼んである。
その鞄だけでも、いまのレネには重荷だった。
船は錨を下ろし、完全に停まった。
「レネ! はやくはやく!」
リュカが先に立って甲板に向かう。レネはかろうじてその手を掴んだ。
「お待ちください。ゆっくり」
男たちがロープを船から波止場に渡し、係船柱(ボラード)に巻きつけた。これから数日、船は港に留まるのだ。
レネとリュカは甲板からかけられた板の橋を渡った。陸地に下りる。しかし、レネはいまだ波に揺られているように感じて、足下がおぼつかなかった。
リュカはもの珍しそうに周囲を見回している。
「ここがベルーサ?」
「ベルーサの首都、マリノーニです」
レネも気づいた。活気溢れる港の風景と、行き交う人々に。
レネの肌は透けるように――というより、やや不健康ともいえるほど青白いが、ベルーサの人々は違う。ほとんどが褐色の、照るようにつややかな肌をしていた。髪の色も濃い。茶色いリュカよりもさらに濃く、こげ茶から黒が多い。レネは銀髪の自分がひどく浮いているように感じた。
言葉も違う。レネは耳を澄ませた。彼らの言語は自分たちの国の言葉に比べると、弾むような力強い響きがあった。
海の上は曇っていたのに、港は晴れている。西日が赤く射してきた。
「レネ、あれはなに? あっちにもなにかあるよ」
リュカはあちらこちらに気を取られ、いまにも駆け出しそうだ。それはまずい。いま逃げられたら追いかけられない。この体調では無理だ。
「お待ちください、リュカ様――」
「ルヴァンヌのリュカ王子か?」
よく通る男の声が割り込んだ。
見ると、背の高い青年が西日に照らされていた。こちらに向かってくる。港の人々と同じ褐色の肌と、肩まで波打つ豊かな黒い髪を持っている。琥珀色の鋭い双眸は、いまは面白がるようなきらめきを宿していた。彫りの深い整った顔立ちだが、故国でもてはやされるような貴族的な美とは違う。もっと野性的で、精悍な美しさだ。
彼はひとりではない。何人も後ろに従えていた。
港には迎えがくると聞いていた。これがそうだろう。レネは頭を下げ、ベルーサ語で返した。
「ルヴァンヌ王国第三王子リュカ・ド・ジョアン様はこちらです。私は従者のレネ・ブランシュと申します」
男は頷いた。
「俺はベルーサ王国第二王子アレッサンドロ・バスクーリだ。リュカ王子を迎えにきた」
レネは驚いた。まさか王子自らが出迎えるなど予想していなかった。
「アレッサンドロ殿下。お気遣いありがとうございます。お手を煩わせてしまい申し訳ありません」
「気にするな。この辺りは普段からうろついている。俺の庭みたいなものだ」
いたって気さくな王子のようだ。
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