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第2話

 アレッサンドロはリュカの前に膝をついた。これも驚いた。いかに相手が幼い子どもといえど、一国の王子が他国の王子に膝を折るとは。 「お前は確か五歳だったな。旅はどうだった?」  リュカは答えない。船室でのようにむくれ始めている。  出立前に勉強はしてきたものの、リュカはまだベルーサ語が上手く話せない。レネはすかさず取りなした。 「少しお疲れなのです」  リュカのルヴァンヌ王国とアレッサンドロのベルーサ王国とは、長年にわたり外交を続けてきた友好国である。今回の旅の目的はリュカの遊学だった。この国で一年間学び、見識を広めよと国王から命令を受けている。  ベルーサは気候もよく、年間を通じてあたたかいという。なるほど、一月だというのに春のようなあたたかさだった。  アレッサンドロが立ち上がった。 「お前はどうなんだ? 顔色が悪いが」  琥珀色の瞳がこちらを向いている。 「ええ、その、少し酔ってしまいまして」 「この程度の時化でか? 驚いたな。父祖が聞いたらひっくり返るぞ」  快活に笑う彼に合わせ、レネもなんとか笑顔を作った。  レネの「揺れ」はまだ続いている。空腹も悪影響だった。陸地の、揺れないベッドで、早く休みたかった。  アレッサンドロが眉をひそめる。 「大丈夫か?」 「ええ。問題ありません」  彼は心配そうな表情に変わる。 「笑ったのは悪かった。無理はするな。荷物をこちらへ貸せ」  ベルーサ人の従者たちが駆け寄ってくる。持ってもらえるのはありがたいと、ついそのまま渡してしまった。 「お前はこっちだ」 「え……っ」  振り向いた瞬間には、アレッサンドロに軽々と抱き上げられていた。 「なっ、何をなさるのです!」  これは驚いたでは済まない。相手は王子である。王子に抱かれて運ばれるなど、それこそルヴァンヌの人々が聞いたら卒倒する。  アレッサンドロの方は違うことを考えたようだ。思いきり顔をしかめて言った。 「軽い。軽すぎる。お前、ちゃんと食事はとっているのか?」  彼の言う通り、レネは細い方だ。よく言われるのは「細い」と「薄い」と「棒のようだ」である。「軽い」と言われたのは初めてだが、そもそも抱き上げられたのも初めてだから当然だろう。 「具合が悪いんだろう。運んでやるからおとなしくしていろ」  なんて人だ。規格外すぎる。  レネがあ然とするのをよそに、今度はリュカが大声を上げた。 「わああああ! レネをはなせ! ばか! ばか! ばかっ!」  ルヴァンヌ語だ。  リュカは握った拳でぽかぽかとアレッサンドロを叩いていた。 「いてて。なんだ? どうした?」  アレッサンドロも面食らっている。 「ばか! ばかぁっ! ぼくのレネだ! かえせぇ!」  リュカの顔が真っ赤だ。 「あの、殿下。お心遣いはありがたいのですが、下ろしていただけませんか。その方がよろしいかと」 「……そのようだな」  地面に下りたレネに、リュカが飛びついてくる。 「ばか!」  怒っている時のリュカは、語彙力が極端に低下する。ベルーサ語の「ばか」は覚えないでほしい――とレネは思った。 「リュカ様。お手を繋いでいきましょう。私は大丈夫ですから」  差し出した手を、リュカがぎゅっと握る。  アレッサンドロが腕を組み、ふたりを眺めている。 「リュカはお前を俺に取られると思ったのか?」 「異国ですから。リュカ様には何もかも初めてのことなのです」 「そうだな。まあ……、仕方がない」  彼は小さく息をつく。それから気を取り直したように唇の端を持ち上げた。 「レネだったな。お前はいくつだ?」 「私ですか? 二十歳ですが」 「ベルーサ語も上手だし、落ち着いている。船酔いを別にすればな」  彼は笑って、ルヴァンヌのふたりを促した。 「案内しよう。我らが王宮へ」  王宮までは、なんと徒歩だった。  アレッサンドロには驚かされ通しである。まさか国賓であるルヴァンヌの王子リュカを歩かせるとは思わなかった。彼自身も王子だというのに、こうも気軽に街を歩くとは。  だが、暮れていく港街は美しかった。空が茜色から瞑色に変わり始め、地上ではひとつまたひとつとランプが灯る。人々は別れの挨拶を交わし、家路につく。居酒屋が開き、夜警が仕事を始める。  街行く人々はみなアレッサンドロを知っているようで、多くの者が会釈をしてきた。  ルヴァンヌとは何もかもが違う。  船に積んでいた荷物はすべてアレッサンドロの従者たちが運んでくれた。レネはリュカの手を引いて歩くだけでよかった。 「リュカ様がしっかり歩いてくださって助かります。お疲れでしょうに、ありがとうございます」  レネが言うと、リュカはこくりと首を縦に振った。  アレッサンドロが手を上げる。 「あれだ」  彼が指した王宮は、海に突き出した崖の上にあった。  なるほど。港に近いのだ。だから平気で歩かせたのだろう。 「さすがベルーサの王宮ですね。海の上に建っているのですか」  もしレネが船酔いで倒れていなければ、王宮の勇壮な姿が船から見えたかもしれない。 「お前たちが泊まる部屋も海に面している。波の音とともに眠り、波の音で目が覚める。最高の環境だ」  アレッサンドロは自慢げだった。 「体調が悪いようだから、まずは部屋で少し休め。荷物は追って運ばせよう」 「いえ、先に国王陛下にご挨拶申し上げます」 「多少遅れたところで父上は気にしない。そんな青い顔をして来られる方が気を遣う。いいからまずは休め。後で使いを寄越すから」  アレッサンドロは自らリュカとレネを部屋に案内した。客室の並ぶ一角らしい。確かに海に面した部屋だった。 「では、また後でな」  彼は身を翻して去っていった。  嵐のような人だった。まるで今日の波のごとくこちらを翻弄して、慣れる間もなくいなくなってしまった。  レネは主人に向く。 「リュカ様。まずはお部屋を見てみましょう」  ふたりの部屋は隣同士だった。まずリュカの部屋を開けた。正面に大きな窓がある。その向こうには大海原が広がっていた。  左手に天蓋つきのベッド、右手にソファーとテーブル。ほか、文机と椅子、チェストと鏡台、姿見が設置されている。客人用だけあって、ルヴァンヌともそう雰囲気は変わらない。  右手に扉がもうひとつ設置されていた。どうやら二間繋がっているようだ。レネの部屋である。実に行き届いた配慮だった。  リュカが窓に駆け寄る。 「あっちまでずーっとうみだ!」 「ええ。きれいですね」  大きな上げ下げ窓だが、子どもの頭よりも狭い隙間しか開かないよう留め金が設けられている。これもありがたい。いくらリュカでもここから脱走しようとはなかなか思うまい。  開けた窓から潮風が吹き込んでくる。心地よい風だ。 「うみ、ふね、みなと」  リュカはひとつひとつ指を差している。 「ベルーサらしい景色ですね」  しばらくして、リュカの荷物が運ばれてきた。船室に置いていたおもちゃ箱もある。 「ぼくのえほん!」  リュカは早速おもちゃ箱を漁り、目当ての絵本を取りだした。  ほら――ちゃんと入っていた。なくしたふりはリュカの得意技である。 「レネ! よんで!」 「はい。では、こちらにどうぞ」  ソファーで絵本一冊を読み終える頃に迎えがきた。レネはリュカを連れ、案内役に従って謁見の間に足を踏み入れた。

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